明治二十二・二十三年十月三十一日調査の生徒数
二十二年度 二十三年度
本科 十五人
予科
第一級 十一人 四十五人
第二級 五十一人 二十八人
第三級 三十六人 四十五人
予科補充科
第一級 六十六人 五十八人
第二級 四十六人 壱百五人
合計 二百十人 二百九十六人
・・以下は友枝高彦氏(明治三十年文科卒)の龍南懐古拾遺より転載・・・
『熊本での最初の位置は古城町であった。この時代は明治二十年から二十二年に至る間で五中の「神代」とも称すべき時であって余の如きはただ「古老」から当時の武勇談をきかされる位である。二十二年龍南の新校舎に移転して茲に九州各地から中学卒業の優秀者を本科一年に収容した。当時本科二年予科三年補充二年の七年制が実行されていたのであった。予が五中に入学したのは龍南校舎建設第二年の二十四年九月であった。豊前の田舎飛出して行って(尤も東京見物に出かけたことはあったが)煉瓦造の校舎に入った時どうした厚い壁だろうかと驚いたこともあり、そして何だか偉くなったような気がしたのであった。』・・
二十二年度 二十三年度
本科 十五人
予科
第一級 十一人 四十五人
第二級 五十一人 二十八人
第三級 三十六人 四十五人
予科補充科
第一級 六十六人 五十八人
第二級 四十六人 壱百五人
合計 二百十人 二百九十六人
・・以下は友枝高彦氏(明治三十年文科卒)の龍南懐古拾遺より転載・・・
『熊本での最初の位置は古城町であった。この時代は明治二十年から二十二年に至る間で五中の「神代」とも称すべき時であって余の如きはただ「古老」から当時の武勇談をきかされる位である。二十二年龍南の新校舎に移転して茲に九州各地から中学卒業の優秀者を本科一年に収容した。当時本科二年予科三年補充二年の七年制が実行されていたのであった。予が五中に入学したのは龍南校舎建設第二年の二十四年九月であった。豊前の田舎飛出して行って(尤も東京見物に出かけたことはあったが)煉瓦造の校舎に入った時どうした厚い壁だろうかと驚いたこともあり、そして何だか偉くなったような気がしたのであった。』・・