秋田実教授の(独逸語在職大正八年一月十六日ー昭和十七年八月三十一日)「三十年間の教授生活」から見ることが出来る。
「大正七年も暮近く、当時五高の校長吉岡卿甫氏から京都の定宿柊まで出向きを求める招電に応じて初対面したのは神戸の関西学院高等学部独逸語主任として在職中であった。というのは五高の佐久間独語教授が二高への転勤の希望があるが、後任が無くて困っている。そこへ京都帝大の小西重直博士から推薦があったということで会見したわけであるが、これが私の五高への赴任のきっかけである。
京都の会見の際神戸の外人教師、日本人教授連同様、黒い背広に縞ズボン、山高帽に仁丹方八時髭私のスタイルを見た吉岡校長は、阪神の先生方はハイカラであるから五高の先生方は黒色詰襟服に黒いボタンの制服丸型制帽に五高校章をつけたものを着用していると、警告めいたことを言われたので、それは質素そのもののようでそれも結構と思った。熊本に行って実際に見ると先生方はそのような制服一点張り組と下無地式背広の若い先生方であった。」
吉岡卿甫校長は昭和十二年の開校五十年の記念号龍南会雑誌第二百三十八号に五高時代の想い出「龍南回顧」を寄稿しているが、「就任当時の赤痢事件以後はずっと太平な年が続いた。特質するような事件もおこらなかった。・・・・・・五高在職中の目立った事業としては、鹿児島の七高との野球対抗戦を始めたこと。大正二年の真冬の赤痢事件で解体・取壊した習学寮を再建、整備したこと。運動場のトラックの新設、職員室、図書館の改築、集会場の建設等を行ったこと。其の他、不備の学校規則等の根本改正したこと。国家的事件としては大正三年には青島陥落、同四年には即位の大典、五年には立大子の大礼7年には日支条約の締結のための提灯行列に用いる祝賀の歌を作成したこと。」と自身の筆により在職時の回顧が述べられている。
「大正七年も暮近く、当時五高の校長吉岡卿甫氏から京都の定宿柊まで出向きを求める招電に応じて初対面したのは神戸の関西学院高等学部独逸語主任として在職中であった。というのは五高の佐久間独語教授が二高への転勤の希望があるが、後任が無くて困っている。そこへ京都帝大の小西重直博士から推薦があったということで会見したわけであるが、これが私の五高への赴任のきっかけである。
京都の会見の際神戸の外人教師、日本人教授連同様、黒い背広に縞ズボン、山高帽に仁丹方八時髭私のスタイルを見た吉岡校長は、阪神の先生方はハイカラであるから五高の先生方は黒色詰襟服に黒いボタンの制服丸型制帽に五高校章をつけたものを着用していると、警告めいたことを言われたので、それは質素そのもののようでそれも結構と思った。熊本に行って実際に見ると先生方はそのような制服一点張り組と下無地式背広の若い先生方であった。」
吉岡卿甫校長は昭和十二年の開校五十年の記念号龍南会雑誌第二百三十八号に五高時代の想い出「龍南回顧」を寄稿しているが、「就任当時の赤痢事件以後はずっと太平な年が続いた。特質するような事件もおこらなかった。・・・・・・五高在職中の目立った事業としては、鹿児島の七高との野球対抗戦を始めたこと。大正二年の真冬の赤痢事件で解体・取壊した習学寮を再建、整備したこと。運動場のトラックの新設、職員室、図書館の改築、集会場の建設等を行ったこと。其の他、不備の学校規則等の根本改正したこと。国家的事件としては大正三年には青島陥落、同四年には即位の大典、五年には立大子の大礼7年には日支条約の締結のための提灯行列に用いる祝賀の歌を作成したこと。」と自身の筆により在職時の回顧が述べられている。