里の家ファーム

雨宮処凛-生きづらい女子たちへ 「沈没家族」が教えてくれること〜カオスの中の共同保育

Imidas連載コラム 2020/10/06

「沈没家族」を知っているだろうか。

 1990年代のサブカルチャーや中央線カルチャーに詳しい人、また「だめ連」界隈をよく知るという人たちにとっては「懐かしい!!」と悶絶したくなるキーワードではないだろうか。

 沈没家族。それは90年代の東京・東中野に現れた謎の子育てコミュニティー。シングルマザーの加納穂子さんが、「あなたも、一緒に子育てしませんか?」とチラシを撒いたことが始まりだ。それを見て集ってきた当時の若者たちは、ゆるい感じで生後8カ月の男の子の子育てに関わり始める。

 当然、子育て経験など皆無という若者たちがシフトを組み、穂子さんが働きに行く間や夜間の専門学校に通う間にやってくる。そこでお酒を飲んだりみんなと喋ったり。交流の場であり、シェルターのような機能も果たし、「タダ飯にありつける」貴重な場としての沈没家族に、多くの人が関わった。

「沈没家族」という秀逸な名前の由来は、ある政治家の言葉。

    「いまの日本は家族の絆が薄くなっている。離婚する家庭も増えている。男は外に働きに出て、女は家を守るという伝統的な価値観がなくなれば日本は沈没していく」

 こんな価値観を笑い飛ばした彼ら彼女らは「沈没家族」と名乗るようになる。この試みは90年代末、多くのメディアで取り上げられた。もちろん、当時から私も知っていた。

 ちなみに90年代後半、私は東中野の隣駅・中野でフリーターをしていた。当時、愛読していたサブカル系雑誌に、沈没家族はよく登場した。そんな沈没家族には、だめ連界隈の人々も集っているらしかった。「だめ連」とは、就職や結婚からいち早く「降りた」ことを宣言していた若者たちのゆるいつながり。当時、やはり多くのメディアで彼らの存在は「新しい生き方」として注目されていた。そんな人たちが次の遊びとして選んだのが「共同保育」のようにも見えた。

 たった一駅隣で、自分と同世代の人たちによって、何かすごく実験的なことが行われている。時給1000円程度でレジ打ちなどをしていた当時の私はものすごく興味を駆り立てられていた。だけど、参加する勇気はなかった。参加するには、何か特別な、中央線文化に詳しい言葉や背景を持っていないといけないのだと思っていた。

 北海道出身の高卒フリーターの私にはそんなものは微塵もなくて、メディアで騒がれる、貧しくとも楽しそうな彼ら彼女らに、うっすらとした嫉妬心をかきたてられていた。そうして気がつけば、「沈没家族」という言葉を耳にすることはなくなって、その存在自体、忘れていた。

 あれから、約20年。

「その人」に会ったのは、数年前の年末、だめ連界隈の忘年会でのことだった。高円寺の汚い雑居ビルの一室にブルーシートを敷き、馬鹿デカいアルミの鍋に肉も魚も野菜もぶち込んで食べるような、そんな忘年会だった。参加者は2、30人。私と同世代の40代が多く、多くが定職がないか無職で、平均月収はおそらく10万円以下という、「だめ連の20年後」みたいな人々ばかりが集まった会だった。そんなだめ連界隈の人々と、この十数年で私はすっかり仲良くなっていた。

 その忘年会の一角に、若者がいた。誰かが、そのガタイのいい若者を私に紹介してくれた時、耳を疑った。なんとその彼は、沈没家族で0歳から8歳まで共同保育をされた子どもだというではないか。若者は、「加納土です」と名乗った。当時のメディアを通して、赤ちゃんや幼児の姿しか知らなかった「土くん」は、約20年後、立派な青年となり、全身から「好青年オーラ」を醸し出していた。しかも現在は大学生だという。私はただ、震えるほどに感動していた。

 約20年前、東中野で若者たちのノリや悪ふざけが多分に含まれる感じの沈没家族で育ったあの子が、今、これほどに「普通」に育っているなんて。

 それからしばらくして、土さん は『沈没家族』というドキュメンタリー映画を撮り、2019年に劇場公開された(『沈没家族 劇場版』ノンデライコ配給)。映画の中、土さんは自分を育てた大人たちと「再会」していく。なぜ、今の自分とそう年の変わらない若者たちが共同保育なんて無謀な試みに足を突っ込んだのか。映画のチラシには「知らないオトナに育てられ、結果、ボクはスクスク育った」というコピーがあった。

 そうして20年8月、土さんは『沈没家族 子育て、無限大。』(筑摩書房)という書籍を出版した。

 これを読んで、私は改めて土さんのお母さん・穂子さんが自分の3歳年上で、わずか22歳で土さんを産んだと知った。そして彼女の母親は女性史の研究者として有名な加納美紀代さんだということも。本を読んで、私は、1990年代からずーっと言語化できなかった、妊娠や出産にまつわるあれこれに、自然と向かい合っていた。

 今年出した『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』(あけび書房)という本で、私は社会学者の貴戸理恵さんと対談している。

 対談のきっかけは、同世代の彼女がある雑誌に書いた以下の言葉に触れたからだ。

〈いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた〉

 ロスジェネの一人である私は今、45歳。独り身で、子どもはいない。そして周りの同世代を見渡しても、男女問わず独身、子なしのほうが圧倒的に多い。それは東京に住んでいることも関係すると思う。

 社会に出る時期がバブル崩壊後の大不況と重なった私たちは、非正規第一世代でもある。30代前半ではリーマンショックが起き、その後、アベノミクスで新卒の就職が改善したと言っても無関係。周りには40代になっても年収200万円以下というワーキングプアが当たり前にいる。当然、未婚率は高く、家庭を持つ人も少ない。

 そんなロスジェネ女性たちと、40代になる頃、「もう子ども産めないんだね」としみじみ話したことがある。生まれる年が少し違っていたら、社会に出る年があと少し早かったり遅かったりしたら、結婚して母親になったかもしれない自分の人生。友人の中には、彼氏も自分も派遣だったから結婚を考えられず別れたという人もいれば、彼氏との子どもを妊娠したものの、職が不安定な2人ゆえ、「生活が破綻する」と中絶した人もいる。

 貴戸さんの友人の中にも、若い頃に中絶した人がいるという。そんな友人は今、やっと生活が安定し、不妊治療をしているという。

しかし、なかなか子どもを授からない。お金を使い、身体に負担をかけているのにだ。そんなことを思うと、なんて皮肉なんだろうと思う。

 そんな私たちは、上の世代から「なぜ子どもを産まないのか」と聞かれてきた。貧困や不安定雇用を理由にして納得されることもあれば、「それでも、あなたたちの親である団塊世代の方が貧しかった」と言われることもある。右肩上がりか右肩下がりかの違いはあるが、確かに親世代は貧しくても私たちを産んだ。

 では、何が足枷になっているのだろう。そんなことを考えて思い出すのは、フリーターの頃に住んでいたアパートの狭い部屋だ。フリーター時代に付き合った何人かはやはり私と同じフリーターのようなもので、少し生理が遅れたりするたびに、漠然と思った。このまま妊娠して出産してフリーター同士でここで子育てとかしたら、お金がないことで喧嘩して子どもを虐待して逮捕されて、ワイドショーなんかでバッシングされまくるんだろうな、と。

 実際、ニュースでは私たちと似たような若いカップルが赤ちゃんを死なせたりして逮捕されていた。そんなものを見るたびに、「とにかく妊娠だけはしないようにしなければ」と、崖っぷちのような気分で思った。自分なんかが妊娠や出産をしてしまったら、もう立ち直れないくらいに世間から罵倒されるのだと思っていた。

「お前らそんなに貧乏なのに、フリーターのくせに子どもなんか産んで動物かよ」とか言われるんだろうという確信。絶対に傷つけられて、怒られて責められる。もちろん、親にも激怒され、親戚も世間も呆れ果て、なじられるに決まってる。命の誕生さえ、絶対に、誰も祝ってくれないのだ。

 妊娠などしていなくても、当時の私は、ただ生きてるだけで責められ、怒られすぎていた。フリーターとして、誰かがしなきゃいけない仕事を低賃金に耐えてやっているのに「いつまでそんな仕事してるんだ」となじられていた。そんなことばかりで、とにかくこれ以上怒られたら生きていけないと思っていた。

 そんなふうに20代前半を過ごした。それほどに妊娠は禁忌だったのに、ある時期から、「第3次ベビーブーム」の担い手として、今度は妊娠・出産しないことをなじられるようになった。そうして今になって、首相は不妊治療に保険適用を、なんて言っている。

 そんなもやもやを抱える私にとって、20代で90年代の東中野で共同保育をやってのけてた加納穂子さんの姿は、あまりにも、眩しい。「すかっとしたいから」という理由で坊主頭だった彼女の言葉は当時から惑いがないように思えて、だけどこの本で、私は初めて、当時の穂子さんが追い詰められていたことを知った。生後8カ月の子どもを抱いて、お金もなく、子の父親と別れ実家からも離れて生きていくと決めた彼女。ある保育人は、彼女の第一印象をこう述べている。

〈最初、土を抱いてきたときは、おれからみると穂子ちゃんは本当に疲れているようにみえたよ。このままだと土を死なせてしまうという危機感みたいなものがすごい伝わってきたな〉(『沈没家族 子育て、無限大。』)

 当時の私に「大きく」見えた人は、何も持たない20代の女性だったのだ。

 そうして始まった沈没家族は、集まった一人ひとりにとってかけがえのない場になっていく。ある人の書いた「保育ノート」にはこんな記述がある。

〈沈没ハウスに来る。意中の女性と保育デートができる。土を連れてその人と外へ公園行く。土が大きくなったら、俺をダシにしやがってと殴られないか不安だ〉

 そんな大人もいれば、子どもは子どもでしたたかだ。沈没家族は土くん一人の共同保育を経て、シングルマザーとその子どもと大人の住人が住む一軒家の「沈没ハウス」になるのだが、大人と子どもが複数いる場は子どもにとってはカオスでもあり楽園でもある。なぜなら、親に怒られたとしても他の大人が慰め、甘やかしてくれるからだ。核家族ではあり得ない逃げ場が、沈没ハウスには無数にあった。

    沈没家族は、大人たちにも様々な作用をもたらした。土くんの子育てに関わったことが唯一の子育て体験だった人もいれば、それがいい「練習」になったという人もいる。

〈沈没ハウスで、子育てするのめちゃ大変だなと知ることができた。(中略)でも同時に、子育てって手を抜いていいんだなということも知れた」と語り、今、子育てに奮闘する人もいる〉

 土さんは、同書『沈没家族 子育て、無限大。』で以下のように書く。

〈経済的に厳しいシングルマザーの穂子さんと、その前で横たわる赤子を救ってくれたのは、まぎれもなくそこに来た人たちだった。義務でも契約でもない。来たいひとたちが来るという、ゆるゆるとしたつながり。オムツを替え、ごはんを食べさせてくれて、遊び相手になってくれた〉

〈一番長い時間をともにした穂子さんには、場を作ってくれてありがとうという想いがある。子どもは親がいちばん愛情を持って接しなくてはならないという規範があるとしたら、穂子さんはそこから外れているように見えるのかもしれない。でも、彼女は自分ひとりでは育てられないということを認めたうえで、ひとに助けを求めた。「できない」というところからスタートして、チラシをまいた結果、たくさんのひとが穂子さんに巻き込まれていった〉

 助けて、と誰かが言っていたら、それを聞いた人は放っておけない。子どもがいたらなおさらだろう。沈没家族は、その当たり前が成立したギリギリ最後の時代の奇跡だったようにも思える。今だったら、子どもの保育に関わる人間は「安全かどうか」ばかりが問われ、「今日暇だから」子どもの世話をするようなやり方が受け入れられる余地はない。もちろん、安全は重要だが、90年代の東京には、長屋で子育てするような感覚が、おそらく遊びや実験の一つとして一部若者たちに共有されていた。

 ちなみに穂子さんは現在、八丈島で「うれP家」という、お年寄りや障害者や猫やいろんな人や動物が集まってごちゃまぜで飲んだり食べたり交流するような活動をしている。映画に映し出されるその光景は沈没家族とよく似ていて、なんだかとても嬉しくなった。

 どこにいようとも、金がなくとも、交流があれば生きていける。コロナ禍でなかなか人と会えない現在、沈没家族の試みは、たくさんのヒントを与えてくれるのだった。


江部乙

ラズベリーが今頃?

銀杏の木は4本あるが、どれも実(銀杏)をつけないものと思っていたら1本だけ。

まだ数は少ない。

店じまい。

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