何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

悲しいひとりご飯

2016年05月12日 | ひとりぽっち


納豆と何日か前に作った肉のスープ、キムチと冷凍御飯を温めたもの。

それがきょうの私の晩御飯。悲しいひとりご飯だ。

祥一郎が亡くなって、料理は封印しようと思ったけれど、激痩せして極端に体力が落ちた身体を維持するために、そしてやりたくも無い仕事をするために、悲しいけれど食べるしかない。

仕事帰りに牛丼屋やスーパーに寄ることもあるが、遠回りになるので、大概は泥のように疲れきってまっすぐ部屋に帰る。

その帰り路は薄暗い住宅街でコンビニ一軒無いので、いきおい少しは自炊じみたことをするしかない。

食べる為に生きるのか、生きる為に食べているのか、それすらわからずただ本能的に目玉焼きを焼いたり、みそ汁を作ったりしている。


あの頃は・・・・・

祥一郎が居たあの頃はそれでも何か美味しい物を、精のつくものを食べたいという欲求があった。

そしてオフの日には、その日の二人で食べる晩御飯の献立を考えて料理し、加えてポテトサラダやキンピラごぼうや酢の物、高野豆腐を煮たり、ひじきを炊いたりして、私が仕事で遅くなっても祥一郎がそれをおかずに晩御飯を食べられるように日持ちのする惣菜を作ることも多かった。

いきおい私が仕事から帰って来ても、私自身もそれを食べるので、それなりにバランスのとれたバラエティに富んだ食事が出来た。

今は、有るものを食べるしかない。

近くに牛丼屋でもあれば、きっと毎日のようにそれを食べるだろう。

それほど食事に対する欲求が無くなってしまった。

それでも以前よりは食欲は出て来たように思う。
心は食事することに拒否があるが、身体がそれに堪えられないのだろう。

食事というよりも、ただ口に食物を流しこむといった方がいいかもしれない。


皮肉にも、スカスカになった冷蔵庫には、何日分かのスープを作った鍋が丸ごと入るようになった。
あの頃は二人で食べる物でいっぱいだったので、鍋など入る隙間もなかったのに。

冷凍庫も、二人分の冷凍食品でいっぱいだったのに、今は一度に何合も炊いたご飯を小分けにして入れる事が出来るようになった。

祥一郎の食べる物が必要なくなったから・・・・・・・


私はもういつ死んでもいい。

ただ、そのいつ死ぬのかがわからない以上、生きて行くしかない。

生きるには食べるしかないのだ。

そして、祥一郎の生きた証を残すには、あいつが望んだ自分の生きた証を私が残すには、私自身が生きるしかないのだ。

そして私の虚しく悲しいひとりご飯は続く・・・・・・



祥一郎・・・・・・・・

お前が最後にスーパーで買った冷凍チャーハンや、レトルトハンバーグはまだそのままだよ。

おっちゃんはそれをいつまで残しておくのだろうね。

お前を忘れる事ができない以上、それを捨てることなど出来ないかも知れないね。

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人生航路  誰かの為に生きる

2016年05月11日 | 死別体験


誰かの為に生きる・・・・・・・

誰かが居るから生きていける・・・・・・

なんと素晴らしい事だろう。

祥一郎と出逢う前、私は勿論そんなことは想像もしなかったし、この先そんな経験をするとも思わなかった。

独りで勝手気ままに暮らし、一人で好きなものを食べ、一人で遊び呆け、誰かのために何かをする、誰かの為に気持ちを割くなどという発想自体が無かった。

少しばかり寂しければ、友人がやっているスナックに飲みに行き、たわいもない会話をし、したたかに酔って帰り誰を気にする事も無く眠りにつく。

男と遊びたければ、それなりの施設があるのでそこで発散し、たまには短期間付き合う事も有った。

それでも一緒に暮らしたいと思ったことは無いし、自分のこの自由な時間を手放そうなどとはゆめゆめ思わなかった。

寂しい孤独だ、人肌が恋しいなどと殆ど感じたことが無かったのだ。


もちろんこの自由な時間がある見返りに、一生独りで暮らし、誰にも看取られずに死んでいくのだろうというそれなりの覚悟はあった。

親兄弟、親類縁者など、何年かに一度会うくらいで、どうしているのだろうと心配すらしたこともない。


別に最初からそんな人生観を持っていたわけではないが、環境が私をそうしていったのだと思う。
そんな自分に何の疑いも抱かずに、30代半ばまで過ごしてきた。

そんな私が、祥一郎という運命の人と出逢い、徐々に絆が深まり、家族だと思えるまでになるなんて。

人生はどこでどうなるか本当に見えないものだ。

私がどんな境遇になろうとも、決して別れることなど有り得ない、別れたいとも思わない人と、共に暮らすことができたなんて。

別にどちらの生き方が正しいというつもりはない。

しかし、人と人との触れ合いや温もりを感じながら、家族として暮らすという世間には普通に有るが、私には縁遠かった暮らしをすることになり、私の今までの人生観はまったく様変わりした。

何をするにも何を考えるにも、祥一郎の存在が中心になった。

祥一郎と二人で過ごすために人生航路の舵を切ることになったのだ。

そして20数年間、人生という海を航海していた二人が乗った船は、突然座礁沈没し、祥一郎は海の藻屑と消え、私一人が取り残された。
長い時間をかけて私の頑迷な人生観を変えていった祥一郎との暮らしは、もう失われてしまった。

そして私はやっと辿りついた岩礁に濡れ鼠のようにひとり佇み、消えて行った祥一郎のことだけを想い、何処へも行けずに死を待つだけの存在に成り果てた。

岩礁から泳ぎ出し、どこかの陸地へ辿りつこうという気持ちも微塵も湧いてこない。

いつまでもいつまでもその岩の上で佇み、海が涙で溢れていくのを見るとは無しに見ているだけ。

ときおり、あいつが消えて行った人生の海に向かって、「祥一郎!!!!!どこだ?何処に居る!?」と叫んではまた泣いている。

涙の海が満ちてきて、その岩礁を飲み込むその日まで、私はそこに居る。

きっとそこに居るに違いない。

そしていずれ広い海の中から、祥一郎を探しだす旅に出るのだろう。

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介護現場の憂鬱  私は祥一郎を一人にはしない。

2016年05月10日 | 死別体験



介護の仕事を始めてもうすぐ4年になる。

好きで始めた仕事では無く、不景気で就職口が無いから始めた仕事ではあるけれど。

そんな私でも思う事がある。

勤務先は特別養護老人ホームだが、この4年の間に数え切れないほどのご利用者の死を見てきた。

仕事柄いたしかたない事ではあるが、その死に際して本人と家族との関係をつぶさに見てきて、やるせない気持ちになる事が多い。

亡くなる時は概ね急に亡くなってしまうので、死に目に逢うことは少ないのだけれど、その際の家族の反応が本当に家族だったの?というケースが多い。

一応家族が来るものの、来るべき時が来たかと冷静な人、亡くなってもその日には来ず、翌日にやっと引き取りに来る人、忙しいので数日遺体を預かって欲しいと申し出る人、本当に様々だ。

職場からはもう危ないからといって家族にすぐ連絡するのだが、急いで駆け付けてたとえ死に目に逢えなくとも死んだ自分の親なり祖父母なりを見て涙にくれる家族はあまり居ない。

「看取り」という制度が我々の職種にはある。

ここの施設に預けて、容体が悪化しても救急対応はせず、そのまま静かに逝ってもらうという制度だ。

要するにこの老人ホームで最期を迎えて欲しいということだ。施設に入所する時にケースワーカーがその是非を確認するのだ。

この仕事をすればするほど思う。少々極端な喩えかもしれないが、要するにこれは金を払ってする姥捨てなんだなと。

今も施設で元気に過ごしているご利用者でも、家族が頻繁に面会に来る人はごく一部。
殆どの人は、滅多に家族も親類も来ない人の方が多い。

中には、「そちらに預けて任せたんだから、何があってもいちいち連絡しないでください。死んだら遺体は引き取ります。」などという家族もけっこう居ると言う。

「捨てられた・・・私は捨てられた・・」と言って、その後死んでいったご利用者も何人か居る。

介護、老後、認知症、年老いた親や祖父母の面倒・・・・難しい問題は多々あるけれど、この仕事をすればするほど家族とは、血縁とは、何なのだろうと考えさせる事が多い。いや毎日考えさせられる。

私の人生の訓辞は何度か書いたが、「血は水よりも薄い。」だ。

血縁なんて、実の親子なんて、家族なんて、それぞれの事情で扱いがどうにでも転ぶものだ。

家族の絆、それはいとも簡単に崩壊する事が有り得るのだ。

私は今こうして、法的にも血の繋がり的にも全くの赤の他人の祥一郎が死んで、こんなにも悲しみ、苦しみ、後を追って死にたいとまで思っている。

しかし祥一郎の実の父親は、彼が死んだ後ささやかな通夜も葬式もせずに、翌日に火葬にした。実の弟もそれに何の反対もしなかった。

色々な家族関係があり、死んだ後どんな扱いを受けるか、それはどのように家族として過ごしてきたかによることは私自身もよく理解している。実の父親が死んでせいせいしたぐらいなのだから。


私は今、祥一郎を喪ってこんなにも悲しい。

だから今の仕事をしていて、この人が亡くなれば悲しむ人は居るのだろうかと考えてしまうのだ。
ひとり寂しく死んでいったのではないかと思ってしまうのだ。

考えても栓無きことだとは分かっている。


祥一郎は逝ってしまった。

私は、あいつの実の父親や弟や親類縁者がどう思おうと、何を言おうと、あいつの死を悲しみ続ける。悔み続ける。

私の人生の訓辞、「血は水より薄し。」は、今回の祥一郎の死に際してますます正しかったのだと確信する。

この社会のしくみが、家族制度が、血のつながりが、何ほどの物かとばかりに私は祥一郎の死を悼み続けるのだ。

祥一郎・・・・・・

私は決してお前を一人にはしないよ。忘れはしないよ。

涙を流さない、悲しまない、悔やまない、そんなことは有り得ないよ。

当たり前じゃないか。ねえ、祥一郎・・・・・・・・


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大喧嘩をしても 二人は一緒 その二

2016年05月09日 | 喪失感


大喧嘩をしても 二人は一緒 その一の続きです。



祥一郎はもう帰ってこない、そう諦めて寝入ったころ、何か物音がする。

どこから聞こえてくるのだろうと聞き耳を立てると、どうやら押入れの中だ。

「ぐーーーー、ずーーーーー・・・・」

開けて見るとなんと、祥一郎が押し入れの中で寝ていた。私はへなへなとその場にへたりこんだ。

目の前の光景を見て、びっくりするやら安心するやら腹が立つやらで、祥一郎を思い切り揺さぶって起こした。

「あんた、どこ行ってたんや!どんだけ探したと思うてんねん。このアホ!」

祥一郎はバツの悪そうな、寝起きの顔でだんまりを決め込む。出て行ったものの、金も無く行くあても無いので、こっそり戻って来たのだろう。

私は私で(はあ、良かった。何事も無くて。)と思い、じんわり涙さえ滲んでくる。

その後やや落ち着いた二人は、喧嘩の原因を少しテンションを下げて話し合う。

私の方は、祥一郎を責めるような言葉ではなく、諭すような、優しく説きふせるような言葉で話しかける。

祥一郎は祥一郎で、大見得を切ったものの戻って来た自分に色々感じることもあったのだろう。
大人しく私の話を聞いている。

その内二人とも段々疲れ、眠くなってくるので、結局はいつの間にか喧嘩も中途半端なまま寝てしまう。

翌日から二、三日はお互いまだしこりが残っているので殆ど口をきかないが、その内祥一郎の方から
日常の会話が出てくる。

「おっちゃん、黒門市場歩いとったらあのオカマが猫を肩に乗せて歩いとったわ。」
「あの店で、ユーミンのアルバム、安売りしとったで。」

などなど。
これがもう仲直りの合図。

その後はいつもの暮らしに戻り、大喧嘩など無かったような生活が続いて行く。

祥一郎と私の喧嘩のパターンはいつもこのようなものだ。

出て行く祥一郎を引きとめたり、本当に出て行ってしまったら探し回るのはいつも私。

一緒に暮らし始めてから何年か経ったころ、私は自覚していたのだ。
どちらかが居なくなったとしたら、寂しくて悲しくて後悔するのは私の方だと。

そして更に年月を経ていく内、その後も何度か出て行けがしの喧嘩はあったけれど、結局より相手に依存していたのは私の方だと認めざるをえなかった。
祥一郎が本当に居なくなったら困るのは私の方なのだ。

あいつはブチ切れたらどうにでもなれと覚悟を決められるタイプだけれど、私はくよくよと引き留め、説得し、後悔し、何とか宥めようとする。

たった一人の家族。たったひとりのパートナー。たったひとりいつも傍に居てくれた人。
私がどんな状況になろうとも。そんな人を失うのが怖かったのは私の方なのだ。

以前の日記に書いたことがある。最愛の人を喪った悲しみに耐え切れる方が残されると。

そんな馬鹿な話があるか!

誰がいつどうやって耐え切れるなどと決めるんだ。冗談じゃない。

耐えてなどいない

悲しみ、苦しみ、自殺願望を抑えきれず、ただただそれを抱えて耐えて生きている。

いや、耐えているなどという前向きな生き方ではない。そうやって生きるしかないのだ。

死ぬことが出来ずにその勇気を持てずに、祥一郎を喪ったありとあらゆる想いや感情に一方的に鞭打たれ、抵抗できずに生きているだけなのだ。


祥一郎・・・・・・・
おっちゃんはもうずっと前から、お前との喧嘩に負けていたんだよ・・・・・・

「おっちゃん、うちが死んで寂しいやろ?」と、お前がおっちゃんに言ってる

そうだよ。その通りだよ。そこから見えるだろ?おっちゃんの負け方が・・・・・

お前が居なくなって、人生そのものに負けたおっちゃんの姿が・・・・・・



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大喧嘩をしても 二人は一緒 その一

2016年05月08日 | 喪失感

祥一郎と私、20数年暮らしている内には、当然ながら何度かもう俺達は駄目なんだろうかという危機はあった。

これも当然ながら原因は様々。

恥ずかしながら、私がろくでもない他の男に横恋慕したことや、祥一郎が電話代の事でちょっとしたおいたをしたこと、お互いの友人の非難をしたことが理由になったり、飼えもしない猫を祥一郎が買ってきたこと、生活が苦しくて私が祥一郎に八つ当たりしたことで揉めたこともある。

その他些細なことも含めて、数限りなく喧嘩はした。

ひとつのケース、あれは大阪で二人で住んで居た頃だった。

原因はなんだったか、はっきりとは覚えていないが、やはり日々の苦しい生活の件で険悪な雰囲気になっていたのが理由だったと思う。

二人の喧嘩はいつも私が説教じみた事を言い出して、それを黙って祥一郎が返事もせずに聞いている。

「何とか言ったら?」と私は言うのだが、それでもあいつはいつまでも黙っている。

私は年長でもあり、水商売もしていたのでそれなりに口が立つから、形的には祥一郎を言葉で追い詰めていく。

そしてそれを黙って憮然として聞いていた祥一郎は、とうとうブチ切れる。

ブチ切れてしまうともう止まらない。私が何を言おうが聞く耳を持たない。

「そや、うちが全部悪いんや。」
「もう無理や。やっぱり一緒に暮らすのは無理なんや。」
「おっちゃん自分が全部正しいとどうせ思ってるんやろ。いつもそうや。自分も同じようなことやってるくせに。」
「もうええ、もうええ。うちが居らんかったら丸く収まるんやろ。出て行くわ。」

そんな激昂した台詞を次々と吐きながら、物は投げるわ壊すわ、足蹴にするわ、こうなったらもう手がつけられない。

殆ど何も持たずにプイと夜の街へ出て行ってしまった。

私は私でその時点ではもうどうでも好きにすればいいと思っているので黙って横を向いて知らんぷりを決め込む。

そして時間がある程度経過する。

私は少し落着いて考え始める。

(待てよ、あいつあれだけしか持たんと、それに大阪に知り合いなんか殆どおらんやろし、どうするつもりやろ。歩いて千葉の実家まで帰るつもりやろか。)
(あいつ、ほんま感情の激しやすい奴やから、何をしでかすかわからんな。)

事実祥一郎は、一時問題になった「完全自殺マニュアル」なんて本を持っていて、おまけに注射器まで隠し持っていた事が有った。これは以前の喧嘩で発覚したのだがこれには私も驚き、こいつ、いつか本当に自殺でもしかねんな、と思ったことがある。

とにかく私は段々心配になり、重い腰を上げて夜の大阪の街を、あいつの行きそうな所を探してみる。

とにかくもう一度あいつを落着かせて、もう一度話し合ってみようと思いながら、僅かな祥一郎の知人にも行方を聞いてみる。

どこにも居ない。いくら待っても帰ってこない。

何度も何度も部屋と夜の街を行き来し、足を棒にして探し回る。

その内、こんなに心配して探してやってるのに人の気も知らないで、と段々腹も立ってくる。

夜が白々明ける頃、わたしは(もうええわ。どうにでもなれ。もう二人は終りなんや。)と無理矢理自分を納得させ、朦朧とした睡魔に耐えられず、ひょっとして帰ってくるかもと期待しつつも、寝入ってしまった。

暫く寝入っていた私はふと目が覚める。何か変な音が聞こえるのだ。

(続く)

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