何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

イラスト集  祥一郎作

2016年05月08日 | 日記


私と出逢う遥か前、学生の頃祥一郎はイラスト関係の専門学校に通っていた。

今住んでいる赤羽と言う街にほど近い、王子近辺にある学校だった。

その後十何年後に、また通った学校の近く住み、そして人生を終るなんてなにやら因縁を感じてしまうが・・・・。

ここで祥一郎が残した少しばかりのイラストを紹介しようと思う。

彼のイラストをご覧になって、彼の人柄を想像して頂けたら幸いだ。


サンタだね。
いつ頃描いたんだろう・・・・この頃はまだクリスマスを誰かと祝っていたのだろうか・・・・




文化祭の時に、祥一郎はこんな格好をしたのだろうかと思わせてしまうイラストだ。
コケティッシュで、かわいい。





こ、これは天使?祥一郎は天使になりたかったのだろうか。
あちらの世界で修業して、天使になれたらいいね。





これはいっしょに観に行ったミュージカル「李 香蘭」のイメージかな。チャイナドレスを着ている。





憂いを帯びた、人生に疲れた女性のようにも見える。
誰かこんな知人がいたのだろうか。それとも祥一郎の内面を表したのかな。





サイケディリックなこのイラストは、胸のマークを見ると、ユーミンだと思う。少しディフォルメして描いたのだろう。
一緒に行った「シャングリラ」というコンサートで、こんな帽子をかぶってステージで踊るユーミンを描いたに違いない。
曲名は確か「真夏の夜の夢」だったはずだ。





物思いに耽る祥一郎の自画像かな・・・・・遠くを見て、何を思うんだい、祥一郎よ・・・・





宝塚の女役か、誰かのコンサートを思い出して描いたのだろうか。
松田聖子のような印象も受ける。





これもチャイナ服を着ている。





これも一緒に観に行ったミュージカル「エビータ」をイメージしたものだろう。
アルゼンチンの女性大統領の話だった。
イラストに「エビータ」と書いてある。





大阪に居た頃、それはそれは可愛がっていたシャム猫のレイコだね。
お前の大阪での初めての友人だったのだろう。
きっと今頃そっちの世界で、一緒にすごしているのだろうね。





これは私と出逢った頃の祥一郎だと思う。
あの頃は短髪では無くて、ミディアムヘアだった。

おりにつけ、イラストを描くのが好きだった祥一郎。
私の特徴をよく表したイラストも描いてくれたのだが、いくら探しても出てこない。
それが残念だ。

もうあいつの新しいイラストは見られない。

それとも天国で、美しい景色、美しい物を見ながら、また腕をふるっているのだろうか・・・・・・・


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「中華料理の晩餐  輝いていたあの頃の祥一郎」

2016年05月07日 | ひとりぽっち



私は中華料理店で働いたことがある。

専門に修行したわけではなく、宅配専門の、少々レシピと中華鍋の振り方を習えば、基本的には誰でもできる、安直な中華料理店だ。

都合7~8年くらい勤めただろうか。

大阪で勤め始めたのだがその店が閉店し、東京に舞い戻って来たのも、知人がその店のフランチャイズのオーナーをやっていて、人手が欲しいということが切っ掛けだった。
そう、今のこの街に住むことになったのもそれが理由だ。祥一郎と二人で。

もう何年も前にリーマンショックで売上がガタ落ちし、私はリストラされてしまい、その店も無くなったが。


でもまあそのおかげで、私と祥一郎と二人の食卓には、インスタントではないそれなりの中華料理が並ぶことも多かった。

マーボー豆腐、海老チリ、チンジャオロース、カニ玉、八宝菜、勿論カラアゲや、ニンニクの芽の炒め物等々、一応一通りの中華料理のスキルは持っている。勿論クックドゥなど使わない。

その中であいつが一番好きだったのは、五目あんかけ焼きソバ。
麺をこんがりきつね色に焼いて、野菜と肉エビタップリの、甘辛醤油味の餡をかける。
そこらの店で食べるとウズラの卵は一個しか入っていないが、あいつが好きだったからウズラは10個くらい入れる。

出来上がるとあいつは、自分のウズラの数と私のそれを数えて、自分のものが少ないと、「わああ、いやらしい。自分だけ。」などと言って、私のウズラをかっさらっていく。

そんな楽しいひと時が好きで、よく作ってやったものだ。

最後に作ったのはいつだったろう。もう今後、作る事は無いのかもしれない。


そういえば、祥一郎も、私の出逢う遥か以前の若い頃、大手中華料理チェーン店の東天紅という店でアルバイトをしていた。おそらく学生の頃だったのだろう。

その時の話をよく私に聞かせたものだ。

やれ厨房の中国人がムカつくだの、賄いが不味いだの、誰それの有名人がよく来ていたとか、東天紅のあれは美味しかった等々。

そしてアルバイト仲間とも仲良くやっていたらしい。その頃の楽しそうな写真が何枚も有った。

お前が亡くなった後、いくら探してもその写真は未だみつからないけれど・・・・・・・。

唯一残ったのがトップ画像に貼ってある、お前がその店を辞める時に貰った、仲間達からの寄せ書きだ。
私と出逢ってからも、大事に持っていた。

今は仏壇の上に飾ってある。もうセピア色に古びているけれど、楽しかったアルバイト仲間との触れ合いを象徴するものだから、いつまでも飾っておくつもりだ。

あの頃お前は若くて血気盛んで、自分のこれからの人生を夢見ていたんだと思う。

劇団の仕事も兼ねながらのアルバイトだったとも聞いた記憶がある。

一生懸命生きていたのだろう。
ある意味祥一郎が輝いていた時期だったのかもしれない。生活は苦しくとも、仕事と仲間、そしてまだ見ぬ輝かしい未来。

お前の遺品の中からその東天紅の誰かの名刺、おそらく上司の社員のものだろう、それがあったので一度連絡してみた。しかしもう何年も前に辞めてしまって、連絡も取れないとのことだった。

できればその人を通して、あの寄せ書きを書いてくれた仲間達にお前が天に召されたことを知らせたかったのだけれど。それは出来そうもない。



祥一郎・・・・・・

あの頃は楽しかったんだろう?でなければ、後生大事にあの寄せ書きを持ち続けていないだろうし、その当時を知らないおっちゃんに話をするはずが無いものね。


お前が生きていたら聞いてみたいような気もする。

「おっちゃんと出逢ってからとあの頃と、どっちが楽しい想い出が多いの?」と。

「そんなん、あの頃に決まってるやん。」なんて言われたらおっちゃん立つ瀬が無いな。

でもひとつ覚えておいて欲しいよ。

お前の生きた証を残すのはおっちゃんしか居ないと信じているし、誰よりも愛していた、今も愛しているのはおっちゃんだけだって。

それだけは覚えておいて欲しい。

ねえ祥一郎・・・・・・・・・・・

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悲しみと友達になれる日

2016年05月06日 | 死別体験


ゴールデンウィークで、嫌でも家族連れや、カップルが目につくからだろうか、精神的にどんどん落ち込んで行くのが分かる。

なにやら世間の空気までが薄桃色で、幸せに満ちているのかと思うと、何故自分だけが、何故私と祥一郎がこんな目に遭わなければならないのかと、何にこの思いをぶつけたら、少しは楽になるのかと、
そんなことばかり考えてしまう。

底知れぬ寂しさにやり切れなさに、この身が粉々になりそうだ。

身体は12kgも激痩せし、栄養を欲している。

でも、精神的に受け付けない。食べる事が、生きる為に食べる事が罪悪としか思えない。

祥一郎はどんな思いを残して逝ってしまったんだろうと思うと、生きること自体が罪深いことなのだと考えてしまう。


これが、最愛の家族を亡くすということか。

こんな思いを、こんな災厄を、乗り越えて生きている人が居るのだろうか。
いや、居るのだろう。

だからこそグリーフケアに通って、そのヒントを得ようとしている自分が居る。

同じ悲しみを持った人が集うブログ村に登録して、他の方々のブログを漁るように読んでいる。

私の心は、奥底で助けを求めているのだろう。


悲しみに満ちて涙を流し続けることが、残された私が祥一郎にしてやれる唯一の事だとそう思いながらも、どこかで助けを求めているのかもしれない。

人は最愛の人を亡くした後、悲しみだけで生きてはいけないのかもしれない。

どこかの時点で、現実としての悲しみが、記憶になっていくのだろうか。

愛する伴侶を喪うということは、悲しみ以外のなにものでもない。

でも、悲しみというものは、生きる糧にはやはりなり得ないのかもしれない。
それだけでは人は生きていけないのだろう。


そうなるまでどれだけの時間がかかるのか、それを考えると気が遠くなるような気もするが。

祥一郎の為に悲しむのだ、涙を流すのだと格好をつけたところで、やはり辛い物は辛いし、苦しいものは苦しい。

笑って・・・・とはいかなくとも、落ち着いて祥一郎の死を誰かに語れる日が来るようにと、私はどこかで思っているのだろう。

そう、悲しみと友達になる・・・・

悲しみは消えないまでも、それと折り合いをつけること・・・・・それができた時点で、ある意味乗り越えたということなのだろう。


祥一郎よ・・・・・・

おっちゃんにそんな日はいつ来るのだろう。

お前は、おっちゃんがそんな日を迎えたら恨むかい?

「おっちゃん、僕の為にずっと死ぬまで悲しんで欲しい。」と思うかい?

それとも、
「おっちゃん、それでいいんだよ。そうやって生きて行って。」

と、言ってくれるのかい?

愛する祥一郎よ・・・・・・・・


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黙して語らないアイフォン  祥一郎の一年余りの軌跡

2016年05月06日 | 死別体験


先日、アップル社が、米連邦裁判所からのパスコード解除命令を拒否したとのニュースがあった。

https://securitynavi.jp/916

銃乱射事件捜査の為に、犯人の持っていたアイフォンのパスコードロックを外すことは、大勢のユーザーの情報が漏えいする危険があるというのが理由だそうだが。


世界的企業であるアップル社が、連邦裁判所の命令さえ拒否するほどセキュリティに拘ることは、理屈としては理解できる。
悪用しようと思えばいくらでも出来る可能性があるだろう。


祥一郎が亡くなった時、私は頭の中が混乱し、何をどうしたらいいのか何から始めればいいのか、茫然自失していた。

しかしその中で、一年余り前からやっとガラケーからアイフォンに二人同時に替えたその端末、祥一郎の端末を早く解約しなければならないという思いに取りつかれていた。
もう使用する人が居なくなったものを、使用料もかかる上、そのままにしておくわけにもいかないと、亡くなって何日か後にauショップで解約してしまった。

そう、後でその行為がとてつもなく私を後悔させることになるのも知らずに。

祥一郎を荼毘に伏し、四十九日も終った頃、私はとんでもない事をしたと自覚し出した。

直近の一年あまりに祥一郎がやり取りしたメールや電話の記録を見ることができなくなってしまったのだ。
祥一郎が設定しそうなパスコードを何度か試してみたが、どれも虚しく弾かれ、何度か間違ったコードを試してしまったので、もう試すこともできなくなってしまった。

徐々に体調が悪化する中、誰かにその思いを伝えていたかもしれない、助けを求めていたかもしれないと思うと、つくづく私は愚かなことをしたと思う。

まだ契約を解除せずに、慎重にパスコードを選び、試してみるべきだったのだ。

そしてもっとこの件について詳しい人に相談しながら、あいつの端末の情報を何とかして取り出すべきだったのだ。

auショップに相談に行って契約解除した後、パスコードの件はアップルショップに行ってくださいと言われ、アップルショップに電話相談すると、「もうそれは初期化するしかありません。その場合中の情報も消去されます。」とけんもほろろに言われた。
私は泣きながら理由を話し、懇願したが、アップル側から返ってくる返事は「申し訳ありません、それは出来ません。」のみ。

渋谷のアップルショップに直接行って相談もしたが、まったく同じ返事しか返ってこなかった。

考えてみれば、米連邦裁判所ほどの大きな機構が命令したことをアップル社が拒否したほどの問題だ。
そんな重要な問題を、日本に居る、私のような一個人が、例え亡くなった伴侶の情報を取り出したいという理由があったとしても、それを「はいわかりました。ご協力します。」となるわけがない。

それから私は、万策尽きてアイフォンに替える以前にあいつが使用していたガラケーから、メールのやりとりや電話の履歴を調べ、連絡が取れる人には取っていった。

結局見つかったのは、祥一郎が亡くなる直前までLINEでやりとりしていて返事が来ないことをいぶかしんでいたあいつと何度か会ったことのあるゲイの友人と、何年もメールで同じ趣味であるコスメ話をやり取りしていた京都の女性のメル友だけ。

そのゲイの友人は自宅まで訪れてくれて、iiTunesに接続したことがあるのなら、バックアップが残っているかもしれない、でもそれにもパスコードが必要だから、根気良く何度も押してみる必要があるとのこと。友人自ら私のパソコンで行ってくれたが、上手く行かなかった。

各方面の詳しそうな友人知人に相談するも、根本的な解決法は見つからず。

怪しげな秋葉原のデータ復元ショップに連絡しても、「それは中のデータを初期化するしかありません。」との同じ答えしか返ってこない。

どこかに違法スレスレのやり方で復元するショップを探せばあるのだろうかと思うが、未だそれは見つからず。そもそもそんなショップがネットにHPを乗せてはいないだろう。

こうして祥一郎が亡くなる直前まで使っていたアイフォンは、真っ黒な画面のまま何も語ってはくれない。
直近まで祥一郎とやりとりしていた人達とは、殆ど連絡を取り合える可能性は無くなってしまったのだ。

祥一郎・・・・・・・

おっちゃんは愚かな事をしたね。

まだ契約解除もせずに、もっと慎重にことを運んでいたら、お前の少なくとも2015年のプライベートや、連絡する必要がある人が見つかったかもしれないのに。

今頃お前とまったく連絡が取れなくて、心配している人も居るかと思うと、つくづくおっちゃんは馬鹿だったと思う。

ごめんね・・・・・・お前のアイフォンはきっといつまでも真っ黒な画面で、何も語ってはくれないのだろうね・・・・・・

それがお前に申し訳ないし、切ないよ・・・・・・。



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「久方のおぞましい夢  祥一郎のこの世への想い」

2016年05月04日 | 何故死んでしまったの

久しぶりの祥一郎の夢。

昨夜、祥一郎の遺影に酒を供え、一緒に飲んだ。その私の想いに答えてくれたのか、何日ぶりか、いや何週間ぶりかで彼に逢えた。

私は尋ねた。

「お前は自分の症状を分かっていて、もう先が無いことをだいぶ前から分かっていたの?」

祥一郎は答えた。

「そんなん、わかるはずないやろ!」

と、私はこっぴどく叱られた。

でも彼の容貌は、頭髪も綺麗に整え、清潔な衣服を纏い、もう死を覚悟したものだった。
さすがにもうすぐそこに自分の死が迫っているので、身支度をした彼を見て、私は見ていて居ても立っても居られず、外に飛び出した。

そこには映画館が有って、この世で最悪に悲しい映画が上映されているらしく、大勢の人々が泣きながら出てくる。後から後から。

それを見て私は思い直す。

祥一郎の死が目前に迫っているのなら、一分一秒でも一緒の時間を過ごさなければ。

そう思い直して、急いで部屋に帰る。

すると祥一郎が、もう死にかけているのに、一階にある部屋のポストの郵便箱を確認している姿が見えた。

近づくと、なんと、彼の身体はもうバラバラになっていて、手足や頭部が散乱しているのだ。

私はまだ意識が残っているような彼の頭部に、一生懸命何かを叫んでいる。

何か反応が無いか、一生懸命いつまでも叫んでいたのだった・・・・・。


悲しい、あまりにも悲しく、少々おぞましい夢だった。



いつものように、この夢の彼のメッセージを読み解こうと思う。

やはり彼は、自分の症状が死に繋がるものだという認識は持っていなかったのではないか。或いは、幾人かの人から指摘されたように、怖くて認めたくなかったのか。

そして後半のおぞましい光景は、死に際しての彼の痛みや辛さ、どれだけ悲しく悔しかったのかを私に伝えているのではないか。
彼はこの世にまだまだ想いを残して死んでいった。私はそう想えてならない。


この夢を見る日の夕方、彼の形身である指輪が無い事に気付いた。

仕事中に汚れてしまうといけないので、外して仕事着のポケットに入れたままで帰宅してしまったのだ。

明日でもいいかなと思おうとしたが、いや、やはりあの指環と一分一秒でも離れたくないと思った私は、急いで職場のロッカー室に戻り、指環を確認し、ほっと安堵して部屋に戻った。

祥一郎は、私のこの指環に対する想いに答えて、久しぶりに夢で逢いに来てくれたのかもしれない。


祥一郎・・・・・・・・

もっと逢いたいよ・・・・

もっと逢いにきておくれよ・・・・・・・

私の意志でお前に逢うことは、もうできないのだから・・・・・・・・


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