私が在日コリアンであることは、特別祥一郎にカミングアウトした覚えも無く、肩肘張らして「実は・・・・」なんて告白したことも無い。
長年連れ添っていたら、そんなことは隠しようはなく、二人の間ではいつの間にか周知のことになっていた。
私も別に隠すつもりも毛頭無く、生活の中でコリアンらしい面を普通に出していた。
キムチは欠かさないとか、何か感嘆したときに「アイゴー」とつい口に出たり、テレビに出てくるハングルを普通に読んでみたり。
祥一郎もそんな私の属性をごく普通に受け止め、興味深いことが有ったら私に尋ねてきていた。
「これ、なんて読むの?どう言う意味?」
「おっちゃんの本名は何て言いうの?」
「このキムチは美味しいね。」
「あの韓国コスメ、ちょっと粗悪品だね。」
等々、日常的に在日やコリアの話題で会話していた。
まあ偏見や差別的感情があったら、20数年もの年月を一緒に暮らせはしないだろう。
私の影響も多少はあったのだろうか。
あの韓流ブームの時期には、祥一郎は韓国ドラマにかなりはまっていた。
まずはやはり、「チャングムの誓い」から始まる。
まあゲイというのは、女同士のドロドロとした足の引っ張り合いが常の、大奥のようなドラマが好きだからというのも理由だろう。
必ず録画して、二人一緒にドラマに出てくる女優をああでもないこうでもないと批評していたものだ。
次は「ファン・ジニ」とか「イ・サン」とか、次々にはまっては喜んでいた。
同時期に、韓国コスメにも興味を持ち出し、まあ安いというのもあったのだろうが、通販で購入したり、新大久保に出掛けて行ったりしていた。
私はというと、まあ「チャングムの誓い」はそれなりに興味を持って鑑賞していたが、他の韓流ドラマやましてやコスメなどには興味は無く、在日コリアンにとって今更何をという立場だったが。
おかしくも、数奇な運命だと思う。
世が世なら、私は韓国で生まれそのまま韓国人として人生を送っていたはずだが、何の因果か、日本で韓国人として生まれ、そして日本人の祥一郎と出逢い、何十年もの暮らしを共にすることになった。
男女の関係であれば、国際結婚になったかもしれない。
日本人と韓国人、或いは在日コリアンのゲイカップルもそれなりに居るらしいが、私の周囲には居ない。
ともかくも、私は人間としての祥一郎を愛していたし、祥一郎もそれは同様だろう。
二人の間に、国籍や民族などが立ちはだかる余地など無かったのだ。
それはやはり強い絆があったからだと私は信じている。
ただ、祥一郎が亡くなる何カ月か前、生活の面で何かと有利な面があるので、ある人の提案で養子縁組の話を進めてみようかと思ったことが有り、外国籍の男性に、日本人が養子に入る場合、国籍がどう関係してくるのか考えたことはある。
結局それはあまりにも悲しい結末で、叶わぬこととなってしまったが。
「ほんとに、これだからチョンは。キムチ臭いのよね。」
「何を言うジャップ。お前こそぬかみそ臭いわよ。」
などと、聞く人が聞いたらびっくりするような差別用語でふざけ合ったりしたことも。
そこには侮蔑など微塵も無く、単に戯れていただけなのだが。
そして、どちらかと言うと祥一郎の方が、私の中にある、異文化的価値観を興味を持って楽しんでいたのだろう。
私は今でも、韓国料理、例えばチヂミやソゴギクッ(韓国式肉スープ)をたまに作る。
彼の死によって激痩せしたが、韓国料理ならなんとか少しは食欲が出る。
しかし一緒に食べてくれるあいつはもう居ない・・・・・・
私に「チョン。」と言ってふざけるあいつはもう居ない・・・・
コスメの箱に書かれたハングルを読んでくれと言うあいつはもう居ない・・・・
祥一郎・・・・・
本当はね、いつかおっちゃんも行ったことの無いソウルへお前を連れて行って、明洞辺りのコスメ店をハシゴさせたかったんだ。
なんやかんや言いながらでも、きっと喜んでくれたはずだ。
ソウルくらいなら、貧乏なりにちょっと無理すれば行けたかもしれないね。
ごめんね・・・・そんな楽しい小旅行はもうできなくなってしまったね。
できていたら、最高の想い出になったかもしれないのに・・・・・・・
祥一郎よ、おっちゃんと再会したら、空を飛んで韓国へ行こうね。
二人で、手に手をとって・・・・・・・・・