家の裏庭に2発、シュッシュッと発火しそうになっているのを母は消し止めたと話していました。
背中で見ていた光景は自分なりに母の話を何回も聞いたので、鮮明な場面として断片的に残っています。
父の生まれた家には伯母家族が住んでいて、子どもが5人居るので一部屋を空けて貰うのも無理でした。
馬小屋の横の物置を片付けて転がり込んだそうです。
暗い家に帰ったと言う印象がありますが、従兄弟に同級生もいるし、1歳上の姉ちゃんもいたし、友達ができたことがうれしいことでした。
当時村の子どもはどの家にも5人くらいいましたから、すぐにくっ付いて後ろから同じように走り回っていました。
田圃は段々畑のような段差があって、板梯子がかかっています。
農家の手伝いに母が行っているので私も付いていって、板梯子を上ったり下りたりしてバランスを取りながら歩くのが好きでした。
大分の方言で最初に覚えたのが、「おじい~」(怖いという意味)という言葉で、みんなに笑われていたのを覚えています。
おじいことがいっぱいの大分の生活が始まりました~
でも祖母と母が強く守ってくれていますから楽しさいっぱいでした~
オヘソの右側に大きな腫れ物ができて、今も五百円玉くらいの跡がありますが、ドクダミ草を揉んでお腹に貼り付けてもらっていました。
触られるのが痛いので、「もう痛くない!痛くない!」と泣いて逃げ回っていたのもそのころです。
栄養失調でオデキがよく出来る子どもでしたが、走るのが速く木登りも得意で活発な女の子に成長していきました。
お父さんの存在を知らなかったある日突然、知らないメガネをかけた人が国防色の帽子に服装で平和な3人の世界に現れました。
残務整理があり復員できたのは昭和22年で、私は5歳になっていました。
跡取りが帰ってきたから伯母の家族は隣の畑に家を建て引越しました。
祖母と母と私の平和な生活が壊れた日の始まりだと受け止めたのです。
初めて抱き上げる我が子ですから強く抱きしめてくれるけれど、頬っぺたに当たる髭の痛さが父そのもので困っていたのを覚えています。
膝に抱き上げて座らせてくれることが母から引き離されてしまいそうで怖くて逃げ出したくって、泣き顔になって必死でした
子どもに接するのが初めてのこともあり、急ぎすぎたのでしょうねえ~、きっと。
7歳の時に妹が生まれてくれて父の攻撃から逃れられると、ほっとしたものです。
ず~っとこの気持ちのまま打ち解けることができずに50歳近くまできてしまい、父と話すのも嫌な私だったのです。
平成3年に父が亡くなった後に、10年日記を発見し、そこには4人の孝行娘をそれは自慢にしていた優しい父がいました。
「あなたは心を閉ざしたままの私を孝行娘だと喜んでくれるのですか~?
申し訳ありませんでした~」と心からお詫びしました。
今だから言えるのです。
祖母と母と私の堅い絆の中に入れたくなかった日が長く続いて、心を閉ざしたまま終わってしまいましたねえ~
その分のお詫びのしるしに今までのことやこれからのことなど話しますから聞いてくださいね~
実はお喋り大好き人間の私だったのですから~
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もっちゃんです
tuyosi
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