その時の家族の喜びようはたいへんなものだったと聞きます。
古い柱時計はその時のお祝いだったそうで、今も別荘で健在に時を刻んでいます。
10歳の時に父親がスペイン風邪で47歳で亡くなり、乳飲み子だった下の妹は養女に幼児だった上の妹は親類にもらってもらい、42歳の母親を助けて苦労をしたと聞きました。
勉強が良く出来るから上の学校に行かせてやりたかったと祖母は何回も良く言ってました。
たしかにそうだと思います。
82歳で亡くなるまで常にいろんな勉強を暇を見つけてはしている父でした。
貧しい中で大きくなったから「もったいない!使えるものは工夫して使わせてもらおう」と、新聞の折り込み広告の裏の白いのを集めてメモ帳にしていましたからねえ~
習字の練習は新聞紙が裏表真っ黒になるまで使っていました~
物を生かして使うという教えだけれど、どうしても好きになれない父親でしたから、私は批判的な眼で眺めていました~
父は大阪の叔父を頼って商業高校を出て電話局に勤めていました。
母は愛媛県の松山の小さな島で育ち、縁あってお見合いで結婚しました。
昭和13年のことです。
私の上に二人ほど流産や早産で亡くなり、元気な子どもが授からないのかもしれないと両親は不安だったそうです。
昭和16年の12月に太平洋戦争が始まりました。
電話局に勤めていたので、呉の方の暁部隊という配属になったそうです。
日本は八紘一宇という植民地政策を打ち出し広く領土を近隣国に求めた戦争を始めたのですよねえ~
その中の一字を取って紘子と言う名前を女の子には付けようと決めたと聞きました。
昭和17年頃に生まれた人に多くこの字の人を見かけます~
いやな戦争をずっと背負っているようで好きになれない名前なのですが、連れ合いは出会った頃に良い名前だといってくれたので、かなり救われた気になったのを思い出します。
紘と恒の2文字を名前の候補に上げてくれていたそうですね~
ヒロコかツネコか、どちらかになるところでした。
広く強くいつまでも変わらない運命の子を授かりたいと言う親心の表れだったのですね~
子どもを亡くした経験から丈夫な子どもをと願う父親の切なる願いの名前だと今なら分かるのですが・・・
昭和20年の3月に大空襲に遭い、大分の父の故郷へ疎開しました。
母と祖母と3人の暮らしが竹田で始まりました。
続きはまた聞いてくださいね~
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