貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・番外編

2022年04月02日 | 流れ雲のブログ






















2007年5月、熊本市の慈恵病院に「こうのとりのゆりかご」と
呼ばれる赤ちゃんポストが開設された。

〈ぼく〉はそこに預けられた。

成長とともに、「ゆりかご」は実の親が育てられない子どもを
病院が預かる仕組みだと知った。

そこには、「子捨てを助長する」という批判があること、
これまでに159人が預けられたということも。…

この春、〈ぼく〉は高校を卒業した。この機にゆりかごのことを
語ろうと思う。


159人の1人として。そして、匿名ではなく、<宮津航一>として。

「ゆりかごがあって、自分は救われた。
当事者だからこそ、『ゆりかごから先の人生も大事だよ』と伝えたい」








ナースステーションのブザーが鳴って看護師らが駆けつけた時、
その幼い男の子は、新生児用の保育器の上にちょこんと
座っていた。

2007年、熊本市の慈恵病院にできた赤ちゃんポスト
「こうのとりのゆりかご」。病棟1階にあるその扉の中で、
宮津航一さんは発見された。

誰に連れてこられたのか、分からない。
青いアンパンマンの上着を着て、時折、笑顔も見せたという。

「ゆりかご」は、様々な事情で子どもを育てられない親が、
人に知られず、病院に子どもを託す仕組みだ。  

病院としては、預け入れられるのは「赤ちゃん」を想定していた。
ところが、航一さんは、身長約1メートル、体重は14キロ。

話しかければ受け答えもできる幼児であり、ちょっとした
「想定外」の事態だった。  

熊本県内では、05年から06年にかけて、乳児の置き去りや、
出産後に放置して殺害する事件が相次いだ。  

なぜ救えなかったのか。このまま何もしないでよいのか…。

産婦人科医で、当時の慈恵病院の理事長だった蓮田太二さん
(2020年に死去)は考えた。

ちょうど04年にドイツの赤ちゃんポスト「ベビークラッペ」を
視察したばかり。

太二さんは「日本版赤ちゃんポストを作ろう」と決意し、06年12月、
ポスト設置のための施設の用途変更を市保健所に申し出た。  

太二さんの長男で、現在の理事長・ 健たけし さん(55)によると、
病院がこだわったのが、親の「匿名性」だった。  

「事件になるようなケースでは、妊娠・出産を『周りに絶対に
知られたくない』という事情を抱えた人が多い。

秘密を守り通すことで、赤ちゃんを殺したり遺棄したりせず、
『預ける』という選択肢を作りたかった」  


しかし、世間の反発は大きかった。

「安易な子捨てを助長する」
「子どもの出自を知る権利はどうなるんだ」

それでも、翌07年4月、熊本市は子どもの安全確保などを条件に
ポストの設置を許可した。

この時、市長だった幸山政史さん(56)は「ギリギリまで悩んだ。
最後は『救われる命があるのなら』と、願いを込めて決断した」
と話す。

ゆりかごは、小さな扉を開けると赤ちゃんを置ける。
そこには「お父さんへ お母さんへ」という手紙も添えられ、
悩みながらもここまで来てくれたことに感謝し、「秘密を守るので
連絡をください」などと書かれているという。  





開設は07年5月10日。初年度に預けられたのは航一さんを含め
17人にのぼった。  

航一さんは、病院から児童相談所(児相)に移された。
その数か月後、熊本市でお好み焼き店を営んでいた
宮津美光さん(64)、みどりさん(63)夫妻の「里子」に迎えられた。

夫妻には5人の息子がいる。自分たちの子育てが一段落しつつ
あった07年、「今度は里親になってみよう」と登録したところ、
児相から「3歳ぐらいの子を預かってみませんか」と打診された。


それが、航一さんだった。

3歳児と聞いて、美光さんは「そんな小さい子、大丈夫かな」
と戸惑った。それでも、「かわいいに決まっとったい」という
みどりさんに背中を押され、

児相に赴いた。対面した瞬間、美光さんは「もう心配せんでええよ」
と幼い航一さんをそっと膝の上に抱き上げていた。


「天使がやってきた」と、夫妻は思ったという。

航一さんを家に迎えた夫妻は、1日1回は抱っこして、
夜は川の字で寝た。

ニコニコとよく笑う航一さんだったが、夫妻がそれとなく
実の両親について聞くと、体中に電気が走ったように
固まってしまった。

預けられた時、赤ちゃんではなかっただけに「ゆりかご以前」
の記憶を抱えていた。

「言葉じゃうまくいえないけど、小さいなりに色々と感じているん
だなと思った」。

みどりさんは語る。

当時、宮津家の五男は高校生。そのお兄ちゃんに優しくして
もらったり、「100均」に行っておもちゃを買ってもらったり。
普通の暮らしを重ねていく中で、

航一さんは夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになった。
テレビでゆりかごが報じられると、「ぼく、ここに入った」と
屈託なく言った。

一方で、実の親の情報はないまま。児相の担当課長だった
黒田信子さん(71)は「必死に捜そうとしたが、手がかりがなかった」
と振り返る。

法律の上では、航一さんは「棄児」(捨て子)となり、
熊本市が新たに戸籍を作った。

「航一」という名前も、市が付けたものだ。

美光さんはこの名に、「広い海を渡る一 艘そう の船のように、
力強く生きてほしい」との願いが込められていると解釈した。

成長し、その意味がわかるようになった航一さん本人も、
この解釈をすごく気に入った。






事故死だった実の母親、
航一さんの親戚にあたる人物が、「自分が預けた」と名乗り出た。
自責の念に駆られたという。  

この親戚は、ゆりかごの扉を開けた人しか持っていない
「お父さんへ お母さんへ」の手紙を持っていた。

間違いなかった。

この出来事により、航一さんの本当の名前が分かった。
正しい年齢は推定していたものとほぼ同じ。

そして、航一さんの実の母親が、航一さんが生後5か月の時に
交通事故で亡くなっていたという重大な事実も分かった。

「空っぽだったものが埋まったというか、『ああ、そうだったんだ』
って分かって、気持ちが晴れた」  

生後5か月といえば、航一さんがゆりかごに預けられるずっと前だ。
実父のことは分からない。しかし、少なくとも実の母は、自分を
捨てたわけではなかった。

その年の夏休み、航一さんは東日本の寺にある実母の墓を訪ねた。
「お骨代わりに」と、そばにあった滑らかな黒い石を大切に持ち帰った。

生前の実母の写真も手に入った。

「どんな人なんだろう」と想像していたその母は、自分と同じように
ゆるくウェーブのかかった髪をして、優しい笑みを浮かべていた。  

ゆりかごより前の人生が分かった航一さんは、「ゆりかご以降」
の日々をはつらつと生きている。

「大学でも陸上や子ども食堂を続けたい」と語った
中学・高校では陸上部に入り、100メートルで「11秒の壁」
を破るべく練習に明け暮れた。

高3の時、ついに自己ベストの「10秒96」を記録。
高2の冬には、宮津さん夫妻と正式に養子縁組した。

「他者の幸せ」考え、子ども食堂の活動に熱中  宮津家では、
航一さんの後も多くの里子を受け入れてきた。

そうした環境もあって、航一さんは昨年から、「子ども食堂」の
活動に熱中している。熊本市内の教会で月1回、地域の子ども
たちに昼食を用意したり、一緒に遊んだり。

「子どもにとって、居場所ってとても大切だと思うから」  

ゆりかごに預けられた当時の看護部長だった田尻由貴子さん
(71)は、航一さんが高校生の時に手紙をもらっている。
「他者の幸せのため何ができるのか考えていきたい」と
書かれていた。

田尻さんは「宮津さん夫妻が航一君を人として尊重し、大切に
育ててくれたことが、今の彼につながっている」と思う。  

18歳になった航一さんは、高校を卒業した今春、大きな決断
をした。自分の名前を明かし、ゆりかごについて語って
いくことにした。  

「どんなに時間がたっても、賛否両論はあると思う。
ただ、僕自身はゆりかごに助けられて、今がある。

自分の発言に責任を持てる年齢になったので、自分の言葉で
伝えたい」  預けられるまでの期間に比べたら、それから先の
人生のほうがずっと長い。

一番言いたいのは、「ゆりかごの後」をどう生きるか、だ。  

真っすぐな航一さんの決意は、ゆりかごを巡る様々な声を
受け止めてきた慈恵病院の蓮田健理事長から見ると、批判対象
となって傷つかないか、心配な面もある。

「でも、本人が考えた末に決めたこと。見守ろうと思います」  

4月から熊本県内の大学に進学する航一さん。
社会や福祉、そして政治も、広く学びたい。

あの時、市長が決断しなかったら、ゆりかごは始まらなかった。
世の中は、いろんな所で 繋つな がっている。  

「僕にできるのは、預けられた実例として自分のことを語ること。
親子の関係がしっかりしていれば、『ゆりかご後』はこんなふうに
成長するよって、知ってもらいたい」。

発信する覚悟を、口にした。





08年度の25人をピークに11年度以降は10人前後で推移し、
20年度は4人。  

熊本市の専門部会の検証報告書によると、19年度までに
預けられた155人のうち、

身元が分からないままの子どもは2割(31人)。
実の親が分かっても、もとの家庭に戻らない子どもは多く、
育ての親と特別養子縁組をしたり、施設や里親家庭で
養育されたりするケースが目立つ。  

慈恵病院では思いがけない妊娠に悩む人向けの無料電話相談も
実施しており、20年度は7001件に上った。
大半が熊本県外からという。