秦の男子は皆、徴兵されると聞く。いずれは私にも、
この黒い甲冑を着て戦う日がやって来るのだろうか。
そう思いながら作業を進めていくと、珍しく帯剣した遺体が
目に入った。たいていの遺体は武具を奪い去られていたが、
慌ただしさもあったのだろう、何体かは武装したままの遺体
があったのだ。
その遺体の腰の剣は使い込まれて多少年季が入っていたが、
柄の部分に青銅の装飾が施されており、長大なものだった
ので、見栄えもした。
これは、いただいておこう。 金目のものを見つけた、とい
うわけではなく、幼い息子の韓信の護符にしようと思った
のだった。
つまり、お土産に丁度いいと思ったのである。
遺体を片付けたあと、穴を埋め、最後に儀礼的に哭礼
を行う。韓信の父は最初、泣きまねだけをしていたが、
そのうち本気で涙が流れてきた。
泣き終えたあとは、 気分もすっきりし、剣をみやげにして
上機嫌で淮陰の自宅へ帰ることができた。
しかし剣については家に持ち帰ったのはいいが、妻に、
「あなた様は幼い信を兵にさせるつもりですか。私は
死んでもそうはさせません」
などと言われ、これには韓信の父も、 「そんなつもりはない。
ただ、子供というものはこういうものが好きであろうと思って
持ち帰ったまでだ」と、いっそう妻に詰問されるような返答
しかできなかった。
しかし、乳児の韓信はこの剣をたいそう気に入ったようで、
父や母が韓信の見えないところに剣を片付けてしまうと、
とたんに機嫌を悪くし、泣き喚いた。
韓信の父は、半ば本気で剣を持ち帰ってきたことを後悔した。
秦国内では、二十万の兵で充分だと主張し、その結果
失敗した李信が更迭され、王翦おうせんが楚討伐の
指揮官に任命されている。
実はこの王翦こそが最初に六十万の兵が必要だと主張
した人物であり、今回はその主張どおり、六十万の兵を
引き連れていた。
この六十万という兵数は楚を撃ち破るに充分なもので
あったが、王翦がその気になれば秦をも撃破するに
充分な兵数でもある。
秦王政のよほどの信頼がなければありえない人事であった。
しかし王翦は大軍を擁しながらむやみに戦うことをせず、
堅牢な砦を築くと防御に徹した。
このため項燕率いる楚軍は攻めあぐね、戦況は膠着状態
となった。
両軍の我慢比べの中、先に軍糧が尽きた楚軍が退却
を始めたところで王翦はついに出陣を命じ、背後から
これを襲い、敗走させた。
そして翌年になると王翦は首都郢へ侵攻し、楚王負芻
ふすうを捉え、捕虜とすることに成功する。
これにより事実上楚は滅亡した。
国体を失った楚の残党たる項燕は、当時秦の国内にいた
楚の公子である昌平君という人物を担ぎだし、これを楚王
として抵抗しようとしたが、これも無駄に終わった。
昌平君は乱戦の中で戦死し、項燕は自害してその生涯
を終えた。
ここで名実共に楚は滅んだのである。
秦の治世になると、韓信の父の暮らし向きもなんとなく
変わった。
貧しいのはそのままである。ただ、うっかり立ち話もでき
ないような緊張感が、淮陰の街全体に流れているのが
肌で感じられる。
国が滅ぶとはこういうことか。
決して自分のことを誰かが見張っているわけでもないのに、
なぜかそのように感じる。秦という国の厳しさがそこにあった。
爵一級などもらっても、もともと無意味だとは思って
いたが…まさかこれほど早く国がなくなって意味をなさ
なくなるとは思っていなかった。
しかし、考えようによっては、よい機会かもしれない。
楚の時代、自分は不遇であった。よく働く人物が、
まっとうな暮らしを送れる時代が来るかもしれない、と
韓信の父は考え、気分を良くしたのである。
少なくとも息子の時代には、家柄で人生が決まるような
社会ではなくなるだろうと思い、彼は韓信に学問をさせ
ようと決めた。
手始めに栽荘先生のところに彼を預け、読み書きを覚え
させようとしたのだが、それというのも父である自分がそれ
をろくにできなかったからである。
将来息子が秦の地方役人にでもなって、自分のことを
養ってくれるかもしれないと想像すると、韓信の父の気分
はさらに良くなった。
他力本願なような気もするが、彼が将来に初めて希望を
抱いたことには変わりがない。
彼は秦に期待したのである。
しかし、秦の国王の嬴政えいせいは他国を征服すると、
その国の富裕な者を首都咸陽に根こそぎ連れて行った
ので、これを受けて地方は貧しい者ばかりになった。
韓信の父が小作する畑の地主は相応の金持ちだったので、
やはり咸陽に連行された。
地主は連行される前に畑を手放さざるを得なかったのだが、
当然ながら彼は韓信の父には土地を譲らず、自分の親戚
にこれを与えた。
したがって韓信の父はまたその親戚に雇われ、小作を
続けるしかなかった。
韓信の父の生活は、まったく変わることがなかった。
そんな折り、隣人の楊という男が人夫として国から
徴発された。いわゆる徭役が課せられたのである。
秦王政はひとつの国を滅ぼすたびに、その国の宮殿と
同じ宮殿を咸陽に作ったため(六国宮殿と呼ばれる)、
そして、おびただしい数の人夫が咸陽に駆り出された。
秦王政が大陸の統一を果たした後、 六国宮殿の数は
百四十五を超え、そのひとつひとつに美女がおさめられた。
その総数は一万人以上だといわれている。
楊が咸陽に呼ばれたのも、この六国宮殿の建設のため
だったが、あろうことか彼はこの話を断ってしまった。
老母の世話をしたいというのが表向きの理由であったが、
実情は彼の父親が秦との戦いで戦死していることを恨ん
でいたところに原因があったらしい。
しかし、たとえそのような理由があろうとも通じるはずもなく、
秦の役人は有無を言わさず楊を獄に入れてしまった。
あるとき、神様が庭に入ってみると、神さまが植え育てられた
草木たちが、今にも枯れそうにしおれているのを見ました。
神さまは、そのわけを尋ねました。
すると、ツツジは「私は松のようにもっと背が高くなりたいと
悩んでいるのです」と、元気なく答えました。
松の木は、「私は葡萄のように甘い実を結びたいのです」
と悲しんでいました。
葡萄の木は、「私は、杉のようにもっとまっすぐに立ちたい
のです」と不満をもらしていました。
庭のすべてが、そんな有様だったのです。
最後に神さまは、路肩で小さな花をつけているスミレ
をみつけました。
このスミレだけは不思議に元気よく、輝いて花を咲かせ
ているのでした。
神さまはうれしなって、スミレに話しかけました。
「やあ、スミレ、お前だけは元気でいてくれてうれしいよ」
スミレは答えました。
「はい、神さま。私は取るに足らぬ小さな花ですけれど、
あなたは小さなスミレの花を見たくて、私を植えて下さり、
最高のお世話をしてくださっています。
わたしはわたしにいただいた恵みを大切にして、スミレで
あることを喜び誇りながら、花を咲かせていこうと思うのです」
…
スミレの気持ち
「これまでいろいろ、ありましたが、私はスミレとして生まれ
てきてよかったです。
私は松さんのように背が高くありません。
葡萄さんのようにみんなが喜ぶ甘い実もつけません。
杉さんのようにまっすぐ立つこともできません。
道端のすみっこの地面すれすれに目立たずにいると、
ときどき踏んづけられることがあります。
痛い思いをしても、ほとんど気づかれないので、謝って
くれる人も慰めてくれる人もいません。
以前は、そんな自分を哀れに思うことがありました。
嫌に思うこともありました。
でも、私は私以外のものにはなれないことに気づいたのです。
私はもう他の草木のようになりたいとは思いません。
私は私のままでいいのです。私のままがいいのです。
小さな私のためにも太陽は光を注ぎます。
目立たない私のためにも空は雨を降らせます。
私の周りにはおいしい空気がふんだんにあります。
それがどんなに有難いことか、恵まれたことか、
私にはわかってきたのです。
私が花を咲かせると、喜んでくれる人がいるのも、
うれしいことです。
私にしか咲かせることのできない花だということも
わかってきました。
ときには、私のかたわらで足を止めてひと休みする人もいて、
びっくりすることもあります。
「山路来て 何やらゆかし すみれ草」(松尾芭蕉)
なんて、句を詠む人もいました。(笑)
私も誰かの役に立っているんですね。
私はスミレに生まれてきて幸せです。
弱くても小さくても、自分の置かれた場で、私なりに
一所懸命がんばって花を咲かせます。
きれいな花を咲かせます!…
author:中井俊已
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