Mr.Busーstop(バス運転士の日記)

大手バス会社勤務の路線バス運転士です。バス運転士の日常をお届けしたいと思います。

今日いち-2025年3月11日

2025-03-11 21:42:18 | 今日いち
AIの時代に、Pythonの基礎学習は最低限の社会生活をおくるために必要な教養の一つになると感じます。趣味程度でよいので、習得は必須です。だからといって、法律の勉強自体を諦めたわけではありません。

生きるために自ずとする努力。

2025-03-11 12:34:02 | スキルアップ
努力を諦めずに続けていれば、誰でも必ず目的を達成できる、という意味として、私が大切にしている言葉、中国の四書の一つである「中庸」にあります。

(原文)
人一能之、己百之。人十能之、己千之。果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強。

(日本語訳)
人、一(ひと)たびして之を能(よ)くすれば、己之を百たびす。人、十(と)たびして之を能くすれば、己之を千たびす。果たして此の道を能(よ)くすれば、愚(グ)と雖(いえど)も必ず明なり、柔と雖も必ず強なり。

(現代語訳)
他人が一の力で出来るとしたら、自分はそれに百倍の力をそそぐ。他人が十の力で出来るとしたら、自分は千倍の力をそそぐ。もしほんとうにそうしたやり方ができたなら、たとい愚かな者でも必ず賢明になり、たとい軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。

解り訳す云えば、「人が1回の力でできることを、自分は100回、1000回分の力でやる。もしも、そのようなことが出来れば、愚か者も賢者になり、軟弱者も強者になるでしょう。」という意味です。

私は、今の今まで以下のように内容を曲解して、覚えていました。

「頭のよい人間や才能のある人間が、1度でできることを、自分にはできない。そんな自分でも、100回、1000回繰り返せば、1回でできる人間に追い付ける。本当にそれができたとき、私も「頭のよい人間や才能のある人間」に追い付くことができる。」

この曲解して、覚えたきっかけは、祖母の言葉でした。

私が子供の頃に住んでいた場所には、クラスでトップの成績や悪くても2番目、3番目位の頭のよい同級生、先輩、後輩が多数いました。

スポーツでも同じで、クラスでトップクラスの人間は、ゴロゴロいた面白い場所でした。

そんななかで私は、いわゆる凡人で、正直、周囲に合わせることに苦労した経験があります。

親族である従兄弟であっても、父方、母方両方とも、学業の成績が優秀な人間が多く、常に劣等感との戦いをしていました。

学業のにおいても、周囲の友人や親戚は、全国模試などで常時上位に収まっていましたが、私は、真ん中辺をうろうろしていました。

そんな姿をみた祖母は、私に「周りの友達や親戚は、正直、生まれたときからお前とはできが違う。身の程を知ることは必要だ。しかし、どんなに人間でも、100回やれば、元々できのよい人間に追い付くことはできる。馬鹿は繰返しやればよい。」と、言いました。

これは、いつまでも周囲に馴染めない私に対する、祖母の言葉だったと記憶しています。

要するに、元々のできが周囲と違う私は、そのハンディを繰り返しの努力で克服するしかないという、ある種の烙印と祝福の混ざった言葉でした。

次に、自分が社会で生きていくなかで、時間は有限であるということを、最近強く実感します。

私も気が付いたら50歳に迫っています。若い頃よりも、精神的、身体的能力は、低下していることは事実です。

当たり前ですが、社会的にも選択肢は、自ずと狭くなっていることは否めません。

少ない選択肢の中から、できるものを選んで、習熟させていくしか方法がないことが、現実的に考えられます。

そうすると、自ずと狭い範囲で選択の内容に特化して、「繰返し」の努力で深めていくしかいきる道はないのです。

若い人や能力のある人が、1度でできることでも、何度もやり力をそそぐ覚悟が重要になります。

面白いことに、当初曲解して覚えていた「中庸」のフレーズも、人生を経ることで、本来の意味に修正されていったことには、天の配剤を感じざるを得ません。

読者の方は、当初、曲解していたことが、自然の流れで修正されていった体験はありますか?

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