(上の写真は、お参りが絶えない雑司ヶ谷霊園の「竹久夢二」の墓)
昨日(9/3)は、池袋まで出掛けたついでに、
池袋界隈の「雑司ヶ谷霊園」を散策して
来ました。
我が家のある横浜からだと、池袋駅は東急東横線
で1本ですが、「雑司ヶ谷霊園」は、その池袋駅
の一つ手前の雑司ヶ谷駅から歩いて直ぐです。
写真は、霊園のメインストリートのケヤキと
イチョウの並木です。
メインストリートの端に斎場があり、その脇に
公園管理事務所があります。
霊園を巡る前に、先ず、雑司ヶ谷霊園の散策方法
をご紹介します。
以前に、谷中霊園散策の際にご紹介した方法と
同様に、 先ず公園管理事務所へ行き、上の写真
の雑司ヶ谷霊園の地図(無料)を貰います。
(谷中霊園散策については、2015/4の「谷中霊園
散策」を見てね。)
この地図の裏面に、著名人のお墓の一覧表が
あります。
この著名人のお墓一覧表で、行ってみたい著名人
の番号を調べたうえで、表面の地図上のこの番号
の場所を目指します。
近代化を推し進める明治政府は、欧米並みの
清潔な墓地を整備するため、明治7年、徳川家
の御用地跡に雑司ヶ谷霊園を作りました。
メインストリートの並木の中程に、「御鷹
(おたか)部屋と松」の説明板があり、
その奥に写真の大きな松の木があります。
説明板によると、江戸時代には、この辺りには
幕府の御鷹部屋があり、鷹狩りの際には将軍が
休息する部屋があり、この松はその御鷹部屋の
敷地内にあったそうです。
・小泉八雲 (ラフカディオハーン)
(霊園のパンフレットから)
有名な「怪談」等の作家で、日本に帰化した
「小泉八雲」の墓です。
八雲に怪談などの話をしてあげたという八雲
の妻のセツ子の墓が仲良く並んでいます。
セツ子の墓は、武士の娘らしく、八雲の墓
から半歩下がった位置に建てられています。
八雲とセツ子は、生前、雑司ヶ谷霊園をよく
散歩していたそうです。
・竹久夢二
(霊園のパンフレットから)
大正ロマンを代表する叙情派の大衆画家で
詩人の「竹久夢二」の墓です。
愁いを帯びた眼差しの「黒船屋」等の美人画
や、「宵待ち草」等の詩で、若い女性達の心
をとらえて一世を風靡しました。
隣の墓との境界になる囲いの塀もなく、
想像したよりも小さな黒御影石の墓には、
”竹久夢二を埋む”、と刻まれていました。
台座は、夢二のアトリエにあった石を使って
いるそうです。
墓の裏に回ると、上の写真の様に、本名の
「竹久茂次郎」が刻まれていました。
”茂次郎”じゃあねぇ~・・・、やはり
”夢二”でないと、美人画や抒情詩は
売れないヨなあ~・・・
・夏目漱石
(霊園のパンフレットから)
近代文学の礎を築いた明治の文豪・夏目漱石
の前頁の写真の高さ3メートルの巨大な墓は
安楽椅子の形を模したのだそうです。
・ジョン万次郎 (中濱万次郎)
(霊園のパンフレットから)
・永井荷風
(霊園のパンフレットから)
・小栗上野介
最後は、本日の私の墓参りの目的である「小栗
上野介忠順」(おぐり こうずけの すけ
ただまさ)の墓です。
(霊園のパンフレットから)
私が尊敬する「小栗上野介」は、幕末の幕臣で、
勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行などの幕府の
要職を歴任しました。
そして、小栗は、驚くことに、坂本龍馬の亀山
社中よりも先に、兵庫商社という日本初の株式
会社を作ったり、日本初の洋風ホテルを建設
したりしていました。
1860年、小栗は米艦ポーハタン号で渡米、日米
修好通商条約批准で米国とわたりあいました。
その後は、江戸幕府の財政再建や、洋式軍隊の
整備などに邁進します。
1868年、明治政府の時代になると、小栗は領地
だった上野国(群馬県)に隠遁しますが、
間もなく謀反の疑いで逮捕され、逮捕の翌日
には逆賊として斬首されました!
取り調べも行わず斬首したのが後ろめたかった
のか、明治政府は、後に逮捕の理由として、
勘定奉行時代の徳川家の大金隠蔽(徳川埋蔵金説)
の首謀者だったとの噂を流したりします。
そして、明治政府は、意図的に、小栗上野介の
名前と功績を歴史から消し去ります。
総理大臣・大隈重信は、後にこう語ったそうです。
”小栗は謀殺される運命にあった。
何故なら、明治政府の近代化政策は、小栗の
それをそっくり模倣しただけだったからだ。”
同情した地元の農民達が建てたという慰霊碑
には、”罪なくして 此処に斬らる”と
刻まれています。
小栗の功績のひとつに、幕末の横須賀造船所
の建設があります。
これらの小栗の功績を、司馬遼太郎は、
”明治の父”と褒め称えたました。
日本が日露戦争でバルチック艦隊を破ることが
出来たのは、この横須賀造船所があったお蔭だ
と言われています。
元帥・東郷平八郎は、後に小栗上野介の子孫を
自宅に招き、こうお礼を言ったそうです。
”日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所
を作っておいてくれたお蔭です。”
小栗が横須賀造船所を建設する際、財政難のうえ
に、官軍に対し劣勢の幕府内部で、これから軍艦
を建造しても戦いに間に合わないと猛反対を受け
ます。
そのときの幕臣とは思えない小栗の次の驚くべき
反論に、私は感銘を受けました。
”幕府の運命に限りがあっても、日本の運命には
限りがない。”
雑司ヶ谷霊園から坂を下り、荒川線の線路に
出ます。
荒川線の線路沿いに雑司ヶ谷駅まで歩いて、駅の
脇からケヤキ並木の「雑司ヶ谷 鬼子母神
(きしもじん)」の参道へ入って行きます。
雑司ヶ谷鬼子母神の本堂は、1664年の創建で
都文化財です。
樹齢600年の大イチョウがありますが、江戸時代
から境内で売られていたという「すすきミミズク」
が有名です。
(昔から境内でやっている有名な駄菓子屋さん)
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