(厚手の手袋を着用して、慎重に「電流ネット」を
開錠します・・・)
旧甲州街道は、やがて国道20号に突き当たります。
ここでは、国道20号を横切って直進し(赤矢印)、
白い2階建ての建物の脇の土の道に入って行きます。
この草の生い茂る道が、ホントに旧甲州街道なのか不安に
なってきました?・・・・
ともかく、雑草を掻き分けながら不安な気持ちで歩いて
いきます。
腰のあたりまで茂った草むらをかき分けて進んだので、
ズボンに雑草の種子が、写真の様にいっぱい付いて
しまいました・・・
間もなく、次頁の写真の怪しげな橋に出ましたが、地図を
見ると、どうもこの橋が、甲州(山梨県)と信州(長野県)
の国境の「国界(こっかい)橋」の様です。
イメージしていた国境の橋とは違って、橋桁も欄干も
ありません。
ガッカリ・・・
国界橋で釜無川を渡ります。
橋を渡ると、旧甲州街道の正面には、害獣除けの
「電流ネット」が張られており、行く手を阻みます。
皮膚がネットに触れると感電するとのことなので、持参した
厚手の手袋を着用して、恐る恐る慎重に開けます・・・
鎖の先端のフック状の金具を持ち上げて、フックが
掛かっていたリングから外します。
電流ネットの開閉に自信のない方や草むらが嫌な方は、先程の
国道20号を横切って直進した分岐点で、横断せずに右折して
(赤矢印)、新国界橋に迂回した方が安全です。
何とか電流ネットを抜けると、旧甲州街道は、下蔦木の交差点
に突き当たるので、ここを左折して国道20号を進みます。
少し歩いた先の斜め右の上り坂に入って行きます。
坂を進むと、直ぐ右手に、南無妙法蓮華経の「題目碑」が
あります。
この題目碑から奥へ入って行くと、下の写真の
「日蓮上人の高座石」がありました。
説明版によると、1274年、流罪を赦免された日蓮上人は、
村々を回って布教に努めました。
当時、ここ蔦木村では、悪疫が流行り、村人は難渋して
いました。
ここを通りかかった日蓮上人は、この高座石の上に立って、
3日3晩説法と加持祈祷を行い、村人を悪疫から救った、
とあります。
後に日蓮上人の弟子となった日誘が、この高座石の脇に
お堂(敬冠院)を建立して日蓮上人を祀りました。
日蓮上人の高座石の先には「石仏石塔群」が並びます。
石仏石塔群の左手には、上の写真の「三つ辻柳」の説明版が
あります。
説明版には、この三つ辻柳は情趣豊かな大木で、村民から
親しまれていましたが、強風により倒伏してしまった、
とあります。
蔦木の小唄の一節に、「川路下りょか 逸見路にしよか
いっそ蔦屋に泊まろうか ここが思案の三つ辻柳」と
唄われたそうです。
蔦木の小唄で唄われている「逸見路」って何だろう?
その答えが、三つ辻柳の先の急な坂道を上り切った、草道の
入口に立つ次頁の2番目の写真の「逸見路(へみじ)追分」
の説明版に書いてありました。
それによると、「甲州街道」は、釜無川沿いの川路ですが、
「逸見路」は、七里岩の上を通って韮崎に至る山路でした。
従って、この逸見路は、釜無川の氾濫により甲州街道が
通行不能になった場合に、迂回路として利用されていた
そうです。
なるほどね~、そういう事か!
確かに、韮崎宿からずっと、甲州街道の右手は七里岩の崖が
続いていて、JR中央本線はその崖の上を走っていました
ものね、昔の逸見路が現代の中央本線なんだ、納得!
上の写真は、草道の入口に立つ追分の道標で、風化していて
よく読めませんが、「みぎ へみぢ にらさきまで むしゅく」
と刻まれているそうです。
追分の道標の右手には、馬頭観音などが祀られています。
下蔦木集落の集落センターには、上の写真の標高
731メートル標識が設置されています。
坂を上って行くと「真福寺」の前がY字路になっているので、
左に進みます。
真福寺の境内には、写真の芭蕉句碑がありましたが、
風化していてほとんど読めません。
解説版によると、”御命講(おめいこ)や 油のような
酒五升” の句だそうです。
(句意:日蓮の命日である「御めい講」の日に、油の様に
トロリとしたお酒を五升もご馳走にあずかりました、
と感謝の意を著した句。)
街道を進むと、左手に上の写真の「石祠道祖神」が
祀られています。
その先の右手に、「応安の古碑」と刻まれた上の写真の
御影石の碑があります。
その御影石の後方の上の写真の四角形の石造物が、1372年の
銘が刻まれている応安の古碑みたいです。
応安の古碑の後ろには、下の写真の子乃神(ねのかみ)、
九四天、 1813年建立の馬頭観音像などがあります。
ここから先は、眼下の国道20号に沿った緩やかな下り坂に
なります。
緩い下り坂を下り切ると、正面に石置き屋根の「蔦木
(つたき)宿」のモニュメントがありました。
信州最初の宿場町の蔦木宿に到着です。
教来石宿から蔦木宿まで約5キロです。