ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

甲州街道を歩く( 32-5:甲府柳町宿から韮崎宿へ②)(山梨県甲府市) 13km 2021.9.29

(写真は、武田勝頼の妻が、燃える新府城を見て涙を流した

 という「泣石」)

旧甲州街道は、JR中央本線のレンガ造りの架道橋をくぐって

右折します。

少し歩くと、上の写真の下今井の交差点に出るので、

直進しないで脇道へ右折して進みます。

 

やがて右手に、写真の「泣石」があります。

 

説明版によると、1582年、織田・徳川の連合軍が迫る中、

「武田勝頼」は、完成したばかりの「新府城」に自ら火を放ち、

「岩殿山城」を目指して落ち延びて行きました。

武田勝頼の妻は、ここで新府城の方角を振り返り、燃え上がる

お城を見て涙を流した、とあります。

これが「武田勝頼」一行の”死の彷徨”の始まりでした。

 

暫く歩いて行くと志田に入り、上の写真の「丸石道祖神」や

下の写真の「三界萬霊塔」があります。

 

また、1835年建立の小さな「二十二夜塔」も並んでいます。

これらの石塔群の道路向かいは、下の写真の広大な

「旧庄屋宅」です。

この旧庄屋宅を眺めながら進んでいくと、やがて、丸石道祖神

の奥に1397年建立の「船形神社」の石の鳥居があります。

説明版によると、船形神社は、崩れた古墳の上に祀られて

いましたが、この崩れた古墳の石室が船形のように見えた

ところから船形神社と呼ばれたそうです。

更に進むと、やがて「宇津谷(うつや)」に入ります。

宇津谷の塩崎町の六反川を渡った先を右折します。

 

少し進むと、右手の田んぼの中に写真の「一橋陣屋跡」が

ありました。

 

説明版によると、1746年、「徳川吉宗」の4男の「一橋

宗尹(むねただ)」が、巨摩郡3万石の領地を支配するため、

ここに「陣屋」を置いた、とあります。

 

この一橋陣屋の道路向いに、1378年創建の写真の

「妙善寺」があります。

 

 

本堂の厨子には、室町時代の本尊の十一面観世音菩薩像を

安置しているそうです。

旧甲州街道は、ここから先は上り坂になり、上り詰めると

Y字路になります。

 

ここに2基の「二十三夜塔」があります。

この二十三夜塔のY字路を左に進みます。

 

 

坂を下って行くと、県道甲府韮崎線に合流します。

 

「塩川橋」で「塩川」を渡ると、「甲斐市」から

「韮崎(にらさき)市」に入ります。

 

塩川橋の西詰交差点から斜め右に入り、中央本線に沿って

進みます。

 

 

上の写真の小さな黒沢橋を渡り、暫く歩くと

まもなく韮崎宿に到着です!

 

甲府柳町宿から韮崎宿までは約13キロもあります。 


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

ウォーク更家
iinaさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですよね、戦国時代には、燃える新府城を見て涙を流した武田勝頼の妻の泣石のような哀しい物語はたくさんあったでしょうね。

そうですか、旧約聖書では、ロトのうしろにいた彼の妻は振り返ったので塩の柱になってしまったのですか。
この様なときには振り返ってはいけないんですね。
もののはじめのiina
涙の数・・・
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3f4efb1a75d24419ce21789b512b1f5f
戦国の世には、燃える新府城を見て涙を流した武田勝頼の妻の「泣石」のような哀しい物語りは幾つもあったことでしょう・・・。
              滅ぼされる町を振り返って塩の柱にならなかったのが、せめてもの救いです。
              https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/c2483fc496a18e1353046dd32557e565

この泣石から先は、好天がつづいてなによりでした。

「二十三夜塔」の響きに似た観音岩の「十三仏」は、拙宅ブログの上から5枚目に大きくしています。

ウォーク更家
tadaoxさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
いつもご愛読ありがとうございます。

そうなんです、甲州街道の至るところに、武田勝頼が逃げまどった痕跡(史跡)があり、戦国の非情さと哀れを感じます。
勝頼本人は仕方ないとしても、勝頼の妻の泣き石は特に哀れを誘います。

韮崎には知り合いがいらっしゃるんですね。
次回は韮崎宿に入りますが、韮崎は想像以上に綺麗で大きな町でした。

そうですか、なるほど、トラックの後ろについて走ると楽ですか。

中山道は、当初は甲府が終点でしたが、その後、長野県の下諏訪まで延長されました。
下諏訪で中山道に合流して京都へ向かいます。
tadaox
韮崎まで
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/f2deb0636d3f6290b9ab83c735942a03
こんばんは。
武田勝頼は、このあたりも逃げまどっていたんですか。
泣き石とは、哀れを誘います。
韮崎には知り合いの社長がいて、毎週クルマで東京の営業所まで通っていましたが、一つドライブ術を教えてもらったのが、トラックの後ろについて走ると楽だよ、というものでした。
ぼくは長い距離を運転するときは、今でもこの言葉を守っています。
中山道はどこで終点なのですか。
はるばる来た感じがしますが、細かいチェックに頭が下がります。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事