(写真は、武田勝頼の妻が、燃える新府城を見て涙を流した
という「泣石」)
旧甲州街道は、JR中央本線のレンガ造りの架道橋をくぐって
右折します。
少し歩くと、上の写真の下今井の交差点に出るので、
直進しないで脇道へ右折して進みます。
やがて右手に、写真の「泣石」があります。
説明版によると、1582年、織田・徳川の連合軍が迫る中、
「武田勝頼」は、完成したばかりの「新府城」に自ら火を放ち、
「岩殿山城」を目指して落ち延びて行きました。
武田勝頼の妻は、ここで新府城の方角を振り返り、燃え上がる
お城を見て涙を流した、とあります。
これが「武田勝頼」一行の”死の彷徨”の始まりでした。
暫く歩いて行くと志田に入り、上の写真の「丸石道祖神」や
下の写真の「三界萬霊塔」があります。
また、1835年建立の小さな「二十二夜塔」も並んでいます。
これらの石塔群の道路向かいは、下の写真の広大な
「旧庄屋宅」です。
この旧庄屋宅を眺めながら進んでいくと、やがて、丸石道祖神
の奥に1397年建立の「船形神社」の石の鳥居があります。
説明版によると、船形神社は、崩れた古墳の上に祀られて
いましたが、この崩れた古墳の石室が船形のように見えた
ところから船形神社と呼ばれたそうです。
更に進むと、やがて「宇津谷(うつや)」に入ります。
宇津谷の塩崎町の六反川を渡った先を右折します。
少し進むと、右手の田んぼの中に写真の「一橋陣屋跡」が
ありました。
説明版によると、1746年、「徳川吉宗」の4男の「一橋
宗尹(むねただ)」が、巨摩郡3万石の領地を支配するため、
ここに「陣屋」を置いた、とあります。
この一橋陣屋の道路向いに、1378年創建の写真の
「妙善寺」があります。
本堂の厨子には、室町時代の本尊の十一面観世音菩薩像を
安置しているそうです。
旧甲州街道は、ここから先は上り坂になり、上り詰めると
Y字路になります。
ここに2基の「二十三夜塔」があります。
この二十三夜塔のY字路を左に進みます。
坂を下って行くと、県道甲府韮崎線に合流します。
「塩川橋」で「塩川」を渡ると、「甲斐市」から
「韮崎(にらさき)市」に入ります。
塩川橋の西詰交差点から斜め右に入り、中央本線に沿って
進みます。
上の写真の小さな黒沢橋を渡り、暫く歩くと
まもなく韮崎宿に到着です!
甲府柳町宿から韮崎宿までは約13キロもあります。