ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

新発田城 (日本100名城)( 新潟県 )  2018.7.12

 
(写真は、新発田城の三階櫓)

前回に続いて、”奥の細道:お城シリーズ”の
第4回は、新潟県の「新発田(しばた)城」です。


1598年、豊臣秀吉から6万石を与えられた溝口
秀勝が、加賀国(石川県)からこの地に入封
しました。
溝口秀勝は、上杉景勝と戦って滅びた「新発田
(しばた)氏」の館跡に「新発田城」を築城し、
「新発田(しばた)藩」の初代藩主となりました。
新発田城は、それ以来、明治4年の廃藩置県まで、
270余年もの長い間、溝口氏の居城として続き
ました。
「新発田城」は、本丸、二の丸、三の丸からなり、
堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた
「平城」で、11棟の櫓と5棟の門が並ぶ壮観な城
でした。
溝口氏は外様大名でありながら、明治維新まで
1度も国替えがなかった珍しいケースでした。

現在は、当時の表門と二ノ丸隅櫓(すみやぐら)
が残されており(国重文)、平成16年には、
辰巳櫓と三階櫓が復元されました。
当時のこの表門と二ノ丸隅櫓が現存することが、
日本100名城に選ばれた理由だそうです。

我々の奥の細道・バス旅行は、新潟駅から新幹線
で東京に戻りましたが、新幹線の時間までの間、
新潟駅からバスで約40分の「新発田城」に
立ち寄りました。 
(入場料:無料、開門期間:4月~11月) 


 


写真は「本丸表門」(国重文)で、階下が城門、
階上が櫓となる櫓門(やぐらもん)です。


(表門の鏡柱の右側の脇戸)


(表門に展示されている鯱の複製)


上の写真は、二ノ丸跡に建つ、新発田市出身の
「堀部安兵衛」像です。


前頁の写真は「辰巳櫓」ですが、堀部安兵衛の
父は、この「辰巳櫓」の管理責任者でした。

そして、1668年、「堀部安兵衛」の運命を決める
大事件が起きます!
何と!、大火で「辰巳櫓」が焼失してしまい、
その責任をとって、堀部安兵衛の父は藩を辞し
浪人となってしまいました。

このため、息子の安兵衛は、仕方なく職を探して
江戸に出ます・・・
江戸での安兵衛は、高田馬場の仇討の助太刀、
赤穂義士の討ち入りでの中心的な役割と、2度も
歴史に名を遺すことになります。

次頁の写真の石垣は、角を「算木積み」にした
「切込みはぎ」で、その石垣の上に建つのが
「旧二ノ丸隅櫓」(重文)です。

「切込みはぎ」は、石垣が隙間無く噛み合う様に
きちんと積まれる、美観を重視した技法です。



(旧二ノ丸隅櫓)


(旧二ノ丸隅櫓(城内側)入口)

  


(旧二ノ丸隅櫓内部)


(本丸跡)


(辰巳櫓)


(辰巳櫓の内部)


(本丸南面の石垣と堀)


(本丸鉄砲櫓と土橋門の写真)


(土橋門跡)


(左が三階櫓で右が鉄砲櫓の写真)


(左が二ノ丸の講堂で右が三階櫓の写真)


上の写真は、本丸に残る土塁ですが、本丸の
北・東面や二ノ丸、三の丸の大部分は土塁で
囲まれていました。

これに対し、本丸の三階櫓から旧二ノ丸櫓、本丸
表門、辰巳櫓の間は今も見られるように完全な
石垣でした。

三階櫓から辰巳櫓までの内堀と石垣はとても
立派でが、全体として美しい城郭で、見応えが
ありました。



上の写真は復元された「三階櫓」ですが、この
三階櫓は棟が丁字形になっているために、三つの
入母屋造りになっています。

そして、その三つの入母屋造りの各々に鯱
(しゃちほこ) を上げるという、下の写真から
分かる様に、大変珍しい”三匹の鯱”です。



新発田城には天守がなく、本丸の西端にあった
上の写真の三階櫓がその役目を果たしました。

しかしながら、本丸跡の大部分が、次頁の写真
の様に自衛隊駐屯地となっており、見学範囲が
非常に狭くなっています・・・


しかも、何と!、復元された三重櫓は、自衛隊
駐屯地の中にあるために、お堀越しに見るだけで
内部見学できません!

そんな馬鹿な!

ボランティアの方に、「何故、見学出来ない場所
に復元したのですか?」と聞いたのですが、
ボランティアの方も「そうですよねえ・・・」と、
口籠るだけでした。

復元した三重櫓の範囲だけでも公開できれば、
もっと魅力あるスポットになると思うのですが。


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コメント一覧

ウォーク更家
tadaoxさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
丁寧なコメント、ありがとうございます。

そうでした、新発田は高校野球でしたね。

私も、こんなに立派なお城があるのを知りませんでした。

奥の細道の旅行で、東北の田舎の隅々まで訪ね歩いていると、仰せの通り、それぞれの郷土には重厚な歴史があることを実感します。

私も、熊本県から、誇りをもって、はるばる東京へ出稼ぎに来た訳ですが(-_-;)
ウォーク更家
こもよみこもちさんへ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、新発田城も100名城の1つですが、周辺に観光地がなく、場所的になかなか行きにくいです。

でも、新発田の街の中心部にある平城なので、歳をとってからでも十分に行けますよ。

「樅の木は残った」の小説は非常に面白いので、楽しみにしておいてください。
tadaox
郷土に歴史あり
https://blog.goo.ne.jp/s1504/e/da994cf848681b0113c6f1eb00118cce
高校野球で新発田の名を知ったぐらいで、こんなに立派なお城があるなんて夢にも思いませんでした。
このブログ、知らない場所を案内していただけるし、ほんとに丁寧に調べてあって読者にはありがたいですね。

人に歴史ありといいますが、それぞれの郷土にはもっと重厚な歴史があるんですね。
いろいろの県から東京に出てきて働いているわけですが、人それぞれに秘められた誇りがあることに思いを致した次第です。
ありがとうございました。
こもよみこもち
こんばんは。
https://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
新発田城も100名城の1つなので、いずれ行きたいお城です。
東北や新潟のお城は、仙台の青葉城と青森の弘前城以外は行っていないので、一度、城めぐりの旅をしたいです。

ところで、「樅の木は残った」は、新潮文庫でちょうど改版が出たので、買ってきました。
今年中には読みたいと思ってます。
ウォーク更家
新発田の読み方
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
私も、この奥の細道のバス旅行が無ければ、一生、新発田に行くことはなかったと思います。

新発田を「しばた」と読むのは、言われればそうかと思いますが、いきなりは読めないですよね。

そう、高田馬場の仇討の助太刀と赤穂義士の討ち入りで歴史に名をとどめたのは、本人にとって良かったのか、悪かったのか・・・
もののはじめのiina
新発田
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/a5b7252cc5b3e0fc5e664d622bda18e8
新発田を「しばた」とは、なかなか読めません。^_^;  
   この辺りを出張で通過したことがあって、地名を知っている程度です。
新潟に戻る途中の豪農宅を見学させてもらいました。

堀部安兵衛が新発田城に属していたとは、知らなかったです。
高田馬場の仇討の助太刀と赤穂義士の討ち入りで、歴史に名をとどめたのですからと申して、後世のわれわれは嬉しがりますが・・・。

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