(写真は、新発田城の三階櫓)
前回に続いて、”奥の細道:お城シリーズ”の
第4回は、新潟県の「新発田(しばた)城」です。
1598年、豊臣秀吉から6万石を与えられた溝口
秀勝が、加賀国(石川県)からこの地に入封
しました。
溝口秀勝は、上杉景勝と戦って滅びた「新発田
(しばた)氏」の館跡に「新発田城」を築城し、
「新発田(しばた)藩」の初代藩主となりました。
新発田城は、それ以来、明治4年の廃藩置県まで、
270余年もの長い間、溝口氏の居城として続き
ました。
「新発田城」は、本丸、二の丸、三の丸からなり、
堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた
「平城」で、11棟の櫓と5棟の門が並ぶ壮観な城
でした。
溝口氏は外様大名でありながら、明治維新まで
1度も国替えがなかった珍しいケースでした。
現在は、当時の表門と二ノ丸隅櫓(すみやぐら)
が残されており(国重文)、平成16年には、
辰巳櫓と三階櫓が復元されました。
当時のこの表門と二ノ丸隅櫓が現存することが、
日本100名城に選ばれた理由だそうです。
我々の奥の細道・バス旅行は、新潟駅から新幹線
で東京に戻りましたが、新幹線の時間までの間、
新潟駅からバスで約40分の「新発田城」に
立ち寄りました。
(入場料:無料、開門期間:4月~11月)
写真は「本丸表門」(国重文)で、階下が城門、
階上が櫓となる櫓門(やぐらもん)です。
(表門の鏡柱の右側の脇戸)
(表門に展示されている鯱の複製)
上の写真は、二ノ丸跡に建つ、新発田市出身の
「堀部安兵衛」像です。
前頁の写真は「辰巳櫓」ですが、堀部安兵衛の
父は、この「辰巳櫓」の管理責任者でした。
そして、1668年、「堀部安兵衛」の運命を決める
大事件が起きます!
何と!、大火で「辰巳櫓」が焼失してしまい、
その責任をとって、堀部安兵衛の父は藩を辞し
浪人となってしまいました。
このため、息子の安兵衛は、仕方なく職を探して
江戸に出ます・・・
江戸での安兵衛は、高田馬場の仇討の助太刀、
赤穂義士の討ち入りでの中心的な役割と、2度も
歴史に名を遺すことになります。
次頁の写真の石垣は、角を「算木積み」にした
「切込みはぎ」で、その石垣の上に建つのが
「旧二ノ丸隅櫓」(重文)です。
「切込みはぎ」は、石垣が隙間無く噛み合う様に
きちんと積まれる、美観を重視した技法です。
(旧二ノ丸隅櫓)
(旧二ノ丸隅櫓(城内側)入口)
(旧二ノ丸隅櫓内部)
(本丸跡)
(辰巳櫓)
(辰巳櫓の内部)
(本丸南面の石垣と堀)
(本丸鉄砲櫓と土橋門の写真)
(土橋門跡)
(左が三階櫓で右が鉄砲櫓の写真)
(左が二ノ丸の講堂で右が三階櫓の写真)
上の写真は、本丸に残る土塁ですが、本丸の
北・東面や二ノ丸、三の丸の大部分は土塁で
囲まれていました。
これに対し、本丸の三階櫓から旧二ノ丸櫓、本丸
表門、辰巳櫓の間は今も見られるように完全な
石垣でした。
三階櫓から辰巳櫓までの内堀と石垣はとても
立派でが、全体として美しい城郭で、見応えが
ありました。
上の写真は復元された「三階櫓」ですが、この
三階櫓は棟が丁字形になっているために、三つの
入母屋造りになっています。
そして、その三つの入母屋造りの各々に鯱
(しゃちほこ) を上げるという、下の写真から
分かる様に、大変珍しい”三匹の鯱”です。
新発田城には天守がなく、本丸の西端にあった
上の写真の三階櫓がその役目を果たしました。
しかしながら、本丸跡の大部分が、次頁の写真
の様に自衛隊駐屯地となっており、見学範囲が
非常に狭くなっています・・・
しかも、何と!、復元された三重櫓は、自衛隊
駐屯地の中にあるために、お堀越しに見るだけで
内部見学できません!
そんな馬鹿な!
ボランティアの方に、「何故、見学出来ない場所
に復元したのですか?」と聞いたのですが、
ボランティアの方も「そうですよねえ・・・」と、
口籠るだけでした。
復元した三重櫓の範囲だけでも公開できれば、
もっと魅力あるスポットになると思うのですが。