(写真は、柏尾古戦場跡の近藤勇像)
鶴瀬宿を後にして、歩道が無い長柿洞門の脇を抜け、
国道20号を歩いて行きます。
次頁の写真の観音トンネル西の信号を右折して、国道20号
から分かれて旧甲州街道に入ります。
旧甲州街道の左手の崖の中程には、私がY字路の分岐を
間違えたために行けなかった、あの観音堂から下りてくる
狭い山道が見えます。
旧甲州街道は、上の写真の様に、ここから右に大きく円形状に
回り込み、次頁の写真の様にして、先程通って来た国道20号
の下をくぐります。
左手に「古跡・武田不動尊」の標柱と「石燈籠」があります。
標柱の説明によると、ここは、織田信長の家臣の滝川一益に
追い詰められた武田勝頼が、もはや最後と観念して、
肌身離さず持っていた大切な不動尊を里人に託した場所
なのだそうです。
この崖の下にある「武田不動尊の祠」を見ようと、標柱の脇の
急な石段を下りようとしますが、上の写真の様な倒木が石段を
塞ぎ下りられません・・・
諦めて日川の渓谷に沿って更に進むと、共和バス停の脇に
次頁の写真の「共和地区」の碑がありました。
旧甲州街道を更に進むと、右手に写真右端の「旧甲州街道」の
標柱がありました。
標柱には、「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶこの横吹の
古道は、往時の面影を今に伝えています」とあります。
往時の面影を今に伝えるという「横吹集落」を進むと、
右手に写真の「丸石道祖神」や「一石六地蔵尊」が祀られて
いました。
横吹集落を抜けると、急な上り坂になり、国道20号に
合流しました。
国道20号を進んで行くと、下の写真の様に、ガードレール
の脇に、「旧甲州街道一里塚跡」の標識がありました。
ここから下を覗き込んでみると、確かに「横吹一里塚跡」の
標柱の上の部分(赤丸印)が見えました。
横吹一里塚は日本橋から30里目(120キロ)、片方のみの
塚で、塚木は榎でした。
国道20号に戻り、ひたすら歩いて行き、上の写真の深沢入口
交差点で、深沢川に架かる柏尾橋の手前を右に入ります。
「柏尾橋」の脇には、刀を持って鉢巻を締めた「近藤勇之像」
があり、「近藤勇 柏尾 (かしお)古戦場跡」の標柱が
立っています。
「近藤勇」が率いる「甲陽鎮撫隊(新選組)」は、官軍に
占拠された甲府城を奪還するために、一旦、この先の勝沼宿
まで進軍します。
これに対して板垣退助率いる「東山道軍(官軍)」は、
新選組を圧倒し、ここ柏尾まで後退させ戦闘になりました。
この柏尾の戦いを一目見ようと、見物人が集まり、何と!
屋台まで出たそうです。
いや~、それにしても、戦いに巻き込まれて流れ弾に当たる
かも知れないのに、昔の人々の野次馬根性は凄いですね~。
現代人は、如何に野次馬根性があっても、暴力団同士の銃撃戦
になったら、見物に出たりしないで家に籠ってますものねえ。
剣に自信のある新撰組でしたが、この柏尾の戦いでは、
近代装備の官軍には歯が立たず、1時間程で総崩れになり
ました。
「柏尾古戦場跡」の標柱を右に入ると下の写真の
「馬頭観音」があります。
1836年に、勝沼宿の脇本陣家が建立したというこの馬頭観音
は、3面に馬頭観音の像が刻まれています。
馬頭観音の前の「ころび石坂」を下り切った奥に、ちょっと
見ずらいですが、上の写真中央に、木々の間から、江戸時代の
柏尾橋の橋脚の一部が残っているのが見えます。
説明版によると、江戸時代、柏尾橋は、両岸に橋脚をおろした
幅3メートル、長さ22メートルの板橋だったそうです。