(写真は、武田勝頼公 腰掛石)
新横浜から八王子経由で、中央本線に乗り、「JR甲斐
大和駅」で下車して、路線バスで前回のゴールの
「日陰のバス停」へ向かいます。
新横浜 5:44 →(JR横浜線)→ 6:30 八王子 6:35
→(JR中央本線)→ 7:38 甲斐大和 8:05
→ 路線バス → 8:10 日陰
(JR甲斐大和駅)
JR甲斐大和駅の駅前の跨線橋を渡った広場には、写真の
「武田勝頼」像がありました。
説明版によると、ここ甲斐大和は、武田勝頼が自害した武田家
終焉の地だそうです。
「JR甲斐大和駅」の前から路線バスに乗り、前回のゴールの
「日陰バス停」で下車します。
日陰バス停の「日陰」の以前の地名は、「駒飼」だった
そうです。
バス停の近くの私が宿泊を予定していた「旧旅籠・大黒屋
サンガム」の向いに「甲州街道」の標柱があります。
(旧旅籠・大黒屋サンガムについては、前回の「駒飼宿」
を見てね。)
この辺りが駒飼宿の西口でした。
急な坂をどんどん下りて行きます。
上の写真は、崖の僅かなスペースに造られた我家の
”猫の額ほどの畑”よりも少し広いくらいの畑です。
絶壁の崖に造られたこの畑に、山国・山梨の耕作地確保の
執念を感じます。
中央自動車道の赤い鉄橋をくぐります。
急な下り坂は、大和橋西詰交差点に突き当たるので、
この交差点を左折して、国道20号に合流します。
国道20号を進むと、右手の庭石店の道路向こうの
上り坂の途中に、「武田勝頼公 腰掛石」の矢印が
ありました。
矢印に従って、急な坂を上って行くと、上の写真
のY字路で表示が無いので右か左か迷います?
取り敢えず、右の道を進むと個人のお宅の庭に入って
しまいました・・・
間違えたと思い引き返そうとして、庭の奥をふと見ると、民家
の裏に「武田勝頼公 腰掛石」の標柱が立っています?
標柱の脇の説明版によると、武田勝頼は、小山田信茂の裏切り
を、この場所で知って、苦渋の選択を迫られたそうです。
石の表面に、武田家の家紋の武田菱が浮いて見える
ところから、菱石とも呼ばれたそうです。
個人のお宅の庭の中にある「武田勝頼公 腰掛石」を見終わり、
来た道を国道20号まで戻り、日川を立合橋で渡ります。
この日川は、武田勝頼勢の自刃による流血で、流れが
三日濁ったので、三日川とも呼ばれるそうです。
その先で、国道20号から左手の細い道に入ると、写真の
「金岡自画地蔵尊碑」がありました。
説明版によると、金岡という大和絵の巨匠が、ここにあった
岩に地蔵尊を彫りました。
その地蔵尊は、時とともに消えてしまいましたが、水をかける
と地蔵尊の絵が浮かび上がったそうです。
地蔵尊が彫られたこの岩は、残念ながら、明治40年の日川の
洪水で流失してしまったそうです。
地蔵尊碑の先の右手に、写真の「鶴瀬関所跡」の標柱が
あります。
ここ鶴瀬の関所は、”甲州12関”の一つで、「鶴瀬の
口留番所」とも呼ばれ、物資の流通と、入鉄砲に出女を
厳しく取り締まりました。
この関所から先が「鶴瀬宿」です。
鶴瀬宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠4軒でした。
この前の「駒飼宿」と合宿で、問屋業務は毎月1日から20日
までをここ鶴瀬宿が勤めました。
鶴瀬関所跡の標柱の先の鶴瀬交差点を横断して直進します。
ここ「鶴瀬」の地名は、「都留(つる)郡」の背(瀬)に
当たるところに由来しているそうです。
上は、石尊大権現と刻まれた1803建立の常夜燈です。
この常夜燈の先で国道20号に合流して、鶴瀬宿を
後にします。