(写真は、私が宿泊を予定していた「旧旅籠・
大黒屋サンガム」)
駒飼宿(こまかいしゅく)は、甲州道中最大の難所笹子峠を
控え、大いに賑わいました。
本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠6軒でした。
次の鶴瀬宿と合宿で、問屋業務は、毎月21日から月末
までを駒飼宿が勤めました。
雪解けの笹子峠を越えた甲陽鎮撫隊(新選組)の一行は
この駒飼宿に宿陣しました。
ここで初めて、板垣退助が率いる政府軍によって、甲府城が
奪取されたとの情報が知らされました。
甲陽鎮撫隊の古参の約20名以外は、戦闘経験の無い烏合の衆
だったので、この情報が隊員に知れ渡ると、脱走が相次いだ
そうです。
矢立の杉をスタートして、笹子峠を越え、県道をひたすら
下り続け、ようやく次の駒飼宿に到着しました。
宿場町に入ると、右手に、「秣(まぐさ)負ふ
人を枝折(しおり)の 夏野哉」の芭蕉句碑があります。
この句は、奥の細道で、芭蕉が、黒羽(くろばね)へ行く近道
として、広い那須野(なすの)を横切ろうとしたときの情景を
描いたものです。
(句意:広大な那須野は、枝折(しおり)になるような木が
一本もない原野だが、あの農夫を枝折と考えて、農夫の通りに
進めば、目的地の黒羽に到達できるはず。)
(注)「枝折」(しおり)は、本に挟む栞(しおり)のこと
ですが、本来は、野山に入る時に、戻り道で迷わない様に、
いくつかの木の枝を折って目印にすることを「枝折」
(しおり)と言いました。
なお、上記の句は、「おくのほそ道」には載っていません。
(黒羽に行くために那須野を横切る話については、
「バスで行く奥の細道:黒羽」を見てね。)
この芭蕉句碑は、明治45年の大水害で流失した句碑を
再建したものだそうです。
宿場町を進むと、左手に「脇本陣跡」の標柱があります。
更地になっていますが、富屋陣左衛門の旅籠屋がありました。
脇本陣跡の先の左手には、「本陣跡」の標柱があります、
酒造業を兼ねた渡辺家が、本陣を勤めていましたが、ここも
敷地は更地になっています。
敷地の奥には、前頁の写真の「明治天皇御小休所址」の碑
があります。
明治13年の巡行の際の休息所となりました。
この本陣跡の向いに上の写真の「萬霊塔」があります。
万霊塔とは、三界有縁無縁のありとあらゆる精霊達を供養する
塔です。
「日影バス停」の手前を左折して下り坂に入ります。
坂道を下ると、左手に下の写真の旧旅籠「大黒屋サンガム」が
ありました。
実は、前日に、この「大黒屋サンガム」に、宿泊予約の電話を
したのですが、電話に出た女将さんらしき人が、悲しそうな声
で、「コロナのため廃業しました・・・」とのことでした。
股関節炎を抱えた私は、笹子峠を歩き終えて直ぐの所にある
この旧旅籠の建物に宿泊するのを楽しみにしていたのですが
・・・
こんな山奥にまでコロナ禍の影響が!
大黒屋サンガムの向いには、甲州街道駒飼宿の標柱が
あります。
この標柱のある場所が駒飼宿の西口です。
股関節炎が痛み始め、これ以上は歩けないので、ここ「日陰の
バス停」から路線バスで「JR甲斐大和駅」まで行きます。
(JR甲斐大和駅)
甲斐大和駅前の上の写真の居酒屋の焼鳥と生ビールで
夕食にします。
こちらの居酒屋は、酒類の提供もあり、山梨方式の感染対策が
非常にしっかりしているので、久し振りに生ビールを
思い切り飲みました。
夕食後、ここから中央本線に乗り、八王子経由で新横浜に
帰宅しました。
駒飼宿から鶴瀬宿までは約1キロと短い距離です。