(特攻隊員たちが特攻前夜を過ごした「三角兵舎(復元)」)
私が「死ぬまでに、どうしても行っておきたい場所」、鹿児島県の「知覧特攻基地」に遂にやって来ました。
「知覧」は、行ってみたら、鹿児島県の南の端の山奥の静かな町でした。
特攻隊員の多くは17歳から20代前半の若者達です。
この特攻隊員の周りにいた町の人々の様々な思いが残っている場所でもありました。
前回ご紹介した「知覧武家屋敷」を出たタクシーは、写真の「知覧特攻平和会館」に着きました。
(入場料:600円)
入って直ぐの右手には、昭和55年に知覧町が引き揚げた「零戦」が展示されており、このエリアだけが撮影可能です。
上の写真は「知覧特攻平和会館案内」(300円)の「若き特攻隊員の遺影コーナー」の写真です。
全特攻戦死者1036名のうち、439名がこの知覧基地から出撃したそうです。
特攻隊員一人一人の写真と年齢・出身地が書かれているパネルですが、気が遠くなるくらい沢山の展示でした。
そしてそのパネルの下には、出撃前に両親、妻、恋人などに宛てた遺書が並べられています。
ここから先の室内は写真撮影禁止なので、以下、館内で購入した下記の写真集の「只一筋に征く」(2,200円)から転載します。
(子犬を抱いた17歳:館内販売の「只一筋に征く」から)
この17歳の少年兵は、郷里が遠くて家族への暇乞いが出来なかったのが心残りだったそうです。
この幼さが残る少年兵の写真を見ていたら、激しい怒りが込み上げてきました。
爆弾と片道だけの燃料を積んで体当たり!、こんなバカなことを考え出した奴は絶対に許さんぞ!
あらゆる作戦は、例え1%でも生還の可能性を残して、往復の燃料を積んで出撃するのが常識のハズ!
誰がこんなバカげた発想で、この少年を殺したんだ!
特攻を考え出したお前が突入しろ!、怒りで涙が溢れ出ました・・・
(目印の赤いテープを曳きながら上空を飛ぶ特攻機、母はその目印へ向けて白いパラソルを振って最後の別れを告げた:館内販売の「只一筋に征く」から)
(あんまり緑が美しい 今日これから 死にに行く事すら 忘れてしまいそうだ:館内販売の「只一筋に征く」から)
(俺の余した30年分の命は、小母ちゃんにあげるよ:館内販売の「只一筋に征く」から)
(「小母ちゃん」とは、特攻隊の若者たちが「お母さん」と呼んで慕った富屋食堂の女主人の「鳥濱トメさん」のことです。)
(もう一度、お母さんの声を聞きたい:館内販売の「只一筋に征く」から)
上の写真の坂内隆夫少尉は、知覧特攻基地へ向かう途中、佐賀の料理屋に1泊しました。
そのとき、料理屋の女将は、坂内が「もう一度、お母さんの声を聞きたい」とポツリと独り言を漏らしたのを聞いたそうです。
館内は静寂です。
特攻隊員一人一人の写真のパネルの下には、両親、妻、恋人などに宛てた遺書が並べられています。
両親への感謝から始まり、家族のため国のために、自分が日本を守るんだという思いが、ひしひしと伝わってきました。
「日本男子の本懐」という言葉もたくさん見かけました。
両親に向かって「悲しまないでください」という遺書がほとんどで、読んでいて涙が止まりません・・・
(安原正文大尉の遺書:下記は本文から抜粋:館内販売の「只一筋に征く」から)
たくさん貰ったお手紙や御人形は、みなポケットに入れて持って行きます。
これからは、兄ちゃんは御星様の仲間に入って、千鶴ちゃんが立派な人になるのを見守っています。
泣いたりなどしないで、朗らかに笑って兄ちゃんが手柄を立てるのを祈って下さい。
さよなら 正文 千鶴子ちゃんへ
たくさんのビデオ映像を見て、学芸員による講演を聞いて、隊員が残した最後の手紙を読みました。
死を覚悟で飛行機に乗り込んでいった若者の思いをひしひしと感じました。
館内を一回りしてから外に出ました。
特攻隊員たちが出撃するまで起居していた「三角兵舎(復元)」です。
三角兵舎は、松林の中に半地下の壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してありました。
各地から集まった隊員は2~3日後には沖縄の空に散りました。
出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催されて酒を汲みかわし、薄暗い裸電球で遺書をしたためて出撃して征ったのです。
こんな粗末な三角兵舎の中で最後の日々を過ごしたのか、と思いを馳せると、また涙が溢れます。
三角兵舎の壁には、以下の当時の兵舎内の様子の写真が貼ってありました。
(三角兵舎で届いた慰問品を見て喜ぶ)
(整備兵に感謝の寄せ書きを書く)
(知覧高等女学校の学生が、三角兵舎の掃除、洗濯、食事の配膳など身の回りの世話をした)
写真は、「特攻平和観音堂」で、ここで「特攻基地戦没者慰霊祭」が開催されるそうです。
(「燃えつきず 立ち寄る家の 今ありやなしや ホタルよ ここで休んで下さい」)(降旗康男)
(小母ちゃん、おれ このホタルになって帰ってくるよ、追っ払ったらだめだよ:館内販売の「只一筋に征く」から)
厳かな敷地内です。
(「短い青春を懸命に生き抜き散っていった特攻隊の若者たちが「お母さん」と呼んで慕った
富屋食堂の女主人鳥濱 トメさんは、折節にこの世に現れ 人々を救う菩薩でした。」)(石原 慎太郎)
写真中央で、特攻隊員に囲まれているのは、上記碑文にある富屋食堂の女主人の「鳥濱トメさん」。
「特攻の母・トメさん」は、特攻隊員が出撃する前に、若い隊員たちに少しでも美味しいものをと、私財を投げ打って食事を作りました。
特攻会館の周りは、大勢の修学旅行生で溢れています。
この様な悲劇を繰り返さないために、多くの次の若い世代に見学して欲しいです。
ズラリと並んだ灯篭には、この特攻隊の若者の像がありました。
「ミュージアム知覧」は博物館ですが、こちらは時間が足りなくて見学出来ませんでした。
特攻平和会館のバス停の前から、指宿駅前行きの最終便に乗って、急遽予約した指宿温泉の今晩の宿へ向かいます。
(知覧特攻基地の敷地内の石碑)
(「帰るなき機をあやつりて征きしはや 開聞よ 母よさらばさらばと」)(鶴田正義)
バスの車窓から、夕暮れの開聞岳(薩摩富士)が見えました。
知覧基地を飛び立った特攻機が、最初の目印としたのがこの開聞岳であり、本土の最後の光景でした。
そして、多くのの隊員が、開聞岳に挙手の礼をささげたそうです。