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屍鬼二十五話 その①

2008-01-25 21:26:46 | 読書/インド史
 インドにヴェーターラ(vetala)と呼ばれる悪鬼の一種がある。死体にとり憑き、これを動かすため、漢訳仏典では起尸鬼(きしき)、起屍(きし)、屍鬼(しき)などと訳されている。『屍鬼二十五話』(平凡社・東洋文庫323)とは題名どおり屍鬼が語る物語集であり、著者は11世紀インドの詩人ソーマデーヴァ。ソーマデーヴァはカシミールのバラモンの家系であり、仕えた王族に捧げるため「カター・サリット・ナーガラ」という長編を記した。「物語(カター)の詩川(サリット)が大海(ナーガラ)に流れ込む」という題名に相応しくあらゆる種類の物語を含む大長編であり、『屍鬼二十五話』もこの中に含まれる。「カター・サリット~」は1063~1081年にかけ、完成したという。

 副題に“インド伝奇集”とあるので、おどろおどろしい物語を想像したら、逆にハッピーエンドが大半、大団円で幕となる。現代もインド人はパッピーエンドを好むと言われるが、確かにボリウッド映画もこの類の終わり方となっている。千夜一夜物語に酷似した箇所もあるが、アラブの物語もハッピーエンドばかりだった。ただ、少なくとも『屍鬼二十五話』には千夜一夜物語のようなドギツイ性愛描写はない。庶民の物語である後者に対し、王侯に捧げたためか、登場するのが人格、武勇優れた理想的王様ばかりなので浮世離れしすぎる面もあるが、現代文学を思わせる不条理な結末の作品もあり、なかなか面白い。

『屍鬼二十五話』の概要はこのようになる。トリヴィクラマセーナという名の名高い王の元に、十年間毎日果実を一個ずつ捧げる修行僧がいた。ある時、この果実の中には高価な宝石が入っていたことが明らかになり、王は修行者にその訳を尋ねる。僧は、ある呪術を成就させるためには勇者の助力が必要であり、王にその手助けをしてもらいたいと言う。僧の要請を承知した王は僧の言われるまま、月も見えぬ闇世の中墓地に向かう。墓地の樹に死体がかかっており、それを王に取って来てほしいと言う。だが、その死体には屍鬼が取り憑いており、屍鬼はトリヴィクラマセーナ王に様々な物語を語りかける。一話終わる毎に屍鬼は謎をかけ、答えなかったり、または間違った解答なら、命をとるという屍鬼。まさに命懸けのゲームであり、王は違えることなく屍鬼に答えを出すも、その都度死体は樹に戻って謎をかけてくるという形式なのだ。

 翻訳者、上村勝彦教授の解説に屍鬼の特徴は「色が黒く、丈が高く、駱蛇のような首、象のような顔、牡牛のような脚、梟のような目、ロバのような耳を持つ」とあるから、インド人の空想力は豊かだ。この恐ろしい屍鬼に対する信仰まであったいうのだから、さらに驚く。ヴェーターラ信仰はタントラ教と結びつき、人身献供が必要とする血生臭い秘儀が伴うそうだ。ヴェーターラ呪術は黒月の第14日目の深夜、墓地で行われる。トリヴィクラマセーナ王もこの日の深夜、墓地に向かっている。黒月とは月が欠けていく半月を指し、第14日目は暗黒の夜。これに対し、月が満ちていくのは白月と呼ばれる。

 儀式の場の地面には人骨の粉で描かれた曼荼羅を描き、その中心には血を撒き、四方には満々と血を満たした瓶が置かれる。燈明用の油は人間の脂肪。行者は真言(マントラ)を唱え、本尊とするヴェーターラを死骸の中に請じ入れる。閼伽(あか/梵語で水の意だが、神に捧げたもの)水として、頭蓋骨の器に血を盛って供える。人間の眼球を火にくべ焼香し、人肉を供物とする。ただ、ヴェーターラ呪術に失敗した行者は屍鬼に殺害される。

 インドの信仰なら不殺生が真っ先に思い浮かぶし、この教義が一般的なのは事実である。しかし、ごく一部にせよ、それを否定する教義もまた存在し、古典ばかりか現代文学でも生け贄を連想させる箇所がある。タントリズム(タントラ教)について、実にユーモラスに解説したサイトがあり、かなり際どい性的儀式を行うこともあったらしい。男性原理と女性原理の結合こそ、神と合一する実践と解釈する一派があり、俗っぽく言えば、エッチしてパワーが得られるとの教えだ。
 まず師が月経中の不可触選民の女と交わり、その時出た男女の体液をその場にいる者たちで飲み、その後皆で交わったという。エッチ目的がなかったとは到底思えぬが、月経中の不可触選民の女との交わりとは不浄そのものの行為である。浄やカーストを最重視する社会で、あえてタブーを犯し、精神的自由を得るとの意図もあったようだが、現代日本人からすればポルノそこのけの集団暴行だ。

 死体を使い、生け贄が必要な儀式に比べれば、怪しげな性的なそれなど物の数ではない。西欧にも影で悪魔崇拝やら黒魔術もあったと言われ、赤子を人身御供にしたそうなので発想は同じだ。インド人もびっくりするかもしれないニュースを取り上げたブログもあり、現代さえこれ程の出来事があるなら、まして11世紀なら屍鬼信仰が普通に行われていても不思議はない。
その②に続く

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