サティー(未亡人殉死)や幼児婚に見られるように、イ
ンド女性は何世紀にも亘り社会的な抑圧を受けていた。これはヒンドゥーのみならず、インドで信仰されている様々な宗教も事情は大差なかった。上流階級の女
性の状況はこの点で、農民女性以上に悲惨だった。農民階層の女は男たちと共に野良作業に活発に参与したため、彼女たちは相対的に行動の自由をより享受し、
いくらかの面では家庭内で上層階級の同性よりも高い地位を得ていた。例えば彼女らはほとんどパルダー制度(女性隔離)に縛られず、多くが再婚の権利を有していた。
伝統的観念はしばしば妻や母親としての女性の役割を褒め称える一方、個人としては社会的に極めて低い地位しか認められなかった。ヒンドゥーの間では男は複 数の妻が許されても、女性は生涯に一度の結婚しか認められなかった。ムスリムの場合でも一夫多妻は広く見られ、インドの広範な地域で女性はパルダー制度の 下で生活した。幼児婚は一般的で、8、9歳の女児までもが結婚させられた。
以前の記事「幼児婚」でも書いたが、インドもこの習慣が一般化するのは中世以降だし、パルダー制度もインドに侵攻したイスラムが持ち込んだものである。パルダーの言葉自体がペルシア語で、カーテンを意味する。だが、女を隔離し管理したいという男のエゴを満足させる制度はヒンドゥー側にも受け入れられ、パルダー制度を最も取り入れたのは皮肉にもムスリムと激しく戦ったラージプート族だった。ムスリムの方も、さすがにサティーは真似なかったものの、「貞女、二夫にまみえず」は男心に訴えるらしく、ヒンドゥーの女たちのように再婚するなと要求したムスリムの夫もいた。ムガル朝の皇女たちも臣下に嫁ぐことを許されず、一生を後宮で過ごした。
ヒンドゥー女性に財産相続権はなく、ムスリム女性には相続権はあったにせよ、男の二分の一でしかなかった。離婚に関しては理論上でも夫と妻は不平等で、教育を受ける権利もほとんどなかった。「女性君主」でも触れたが、個性的な女性君主がインドに現れたのは異色だが、彼女たちはごく一部の例外だった。
19 世紀になり、社会改革者は女性の地位改善を目指す力強い運動を開始する。無数の個人や改革協会、宗教組織が女性の間での教育の普及、寡婦再婚の促進、寡婦 の生活条件の改善、中間層の女性が専門職、公職につく自由などを目指し盛んに活動した。女性解放の運動は20世紀になり、急進的な民族運動の台頭と共に勢 いづいた。女性は独立を求める闘争で重要な役割も果たす。彼女たちはベンガルの分割に反対する運動や自治連盟の運動に大挙して参加し た。1918年以降は政治デモに参加したり、外国製綿布や酒を売る店のピケット、カーディー(手織り布)り製作や宣伝などの活動を繰り広げ、非協力運動に 際しては獄にくだり、デモ行進ではラーティー(警棒)や催涙ガスや弾丸にも立ち向かい、革命的テロリスト運動にも積極的に加わった者もいた。1920年代に労働組合や農民組合の運動が活発化すると、しばしば女性はそれらの活動の最前線におり、立法議会の選挙に投票し、時には自ら立候補する女性も出るようになる。何よりも民族運動への参加こそが、インド女性の覚醒と解放に繋がる。
特に著名なのが女流詩人でもあるサロージニー・ナーイドゥ(1879 -1949)。彼女はベンガル出身のバラモン女性で、南インドの非バラモンと恋愛結婚する。異なるカースト間の結婚でも女のカーストが高い場合は逆毛婚と 呼ばれ、特に忌み嫌われたにも係らず、自分の意思を貫いたのだからかなりの勇気がいることだ。ナーイドゥはイギリス留学中から詩人として有名となる。彼女 はガンディーの信奉者として民族運動に参加、1925年インド女性初の国民会議派議長に選出され、インドにおける女性運動の指導者でもあった。
カーマ夫人(1861-1936)の欧州での活動も面白い。1909年頃からパリを根拠にインド独立に向け宣伝活動を開始する。シュツットガルトで社会主義協議会の席上、インド独立旗を掲げた事件は有名。彼女は少数民族のパールシー(ゾロアスター教徒)だが、我国のマイノリティの女ならまず考えられない行動だ。
1920年代頃までは開明的な男性が女性の地位向上のため献身してきたが、自覚的で自信を得た女性自身が自ら行動するようになる。彼女たちは多くの組織や機関を創設し、中でも有名なのが1927年に創設された全インド女性会議だった。平等を目指し女性の闘争はインド独立と共に一挙に前進する。インド憲法(1950年)の第14条、15条は男女の完全な平等を保証し た。1955年のヒンドゥー婚姻法は一定の条件のもとで婚約の解消を可能にし、翌年のヒンドゥー相続法は娘を息子と同等の相続者とした。一夫一婦制も男女 共に義務付けられた。残念ながらダウリー(持参金)の悪弊は、その要求が禁じられたにも関らず続いた。憲法の指導原則は男女に同一労働に対する同一賃金が 定められ、国営企業における労働と雇用の面で男女平等の権利を与えた。
もちろん現代でも様々な問題が山積しており、解決は決して容易ではないが、インドの女性活動家たちの大いなる貢献があったのは見事だ。彼女らのパワーはどこから来るのだろう?
※参考:「近代インドの歴史」山川出版社、ビパン・チャンドラ著
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伝統的観念はしばしば妻や母親としての女性の役割を褒め称える一方、個人としては社会的に極めて低い地位しか認められなかった。ヒンドゥーの間では男は複 数の妻が許されても、女性は生涯に一度の結婚しか認められなかった。ムスリムの場合でも一夫多妻は広く見られ、インドの広範な地域で女性はパルダー制度の 下で生活した。幼児婚は一般的で、8、9歳の女児までもが結婚させられた。
以前の記事「幼児婚」でも書いたが、インドもこの習慣が一般化するのは中世以降だし、パルダー制度もインドに侵攻したイスラムが持ち込んだものである。パルダーの言葉自体がペルシア語で、カーテンを意味する。だが、女を隔離し管理したいという男のエゴを満足させる制度はヒンドゥー側にも受け入れられ、パルダー制度を最も取り入れたのは皮肉にもムスリムと激しく戦ったラージプート族だった。ムスリムの方も、さすがにサティーは真似なかったものの、「貞女、二夫にまみえず」は男心に訴えるらしく、ヒンドゥーの女たちのように再婚するなと要求したムスリムの夫もいた。ムガル朝の皇女たちも臣下に嫁ぐことを許されず、一生を後宮で過ごした。
ヒンドゥー女性に財産相続権はなく、ムスリム女性には相続権はあったにせよ、男の二分の一でしかなかった。離婚に関しては理論上でも夫と妻は不平等で、教育を受ける権利もほとんどなかった。「女性君主」でも触れたが、個性的な女性君主がインドに現れたのは異色だが、彼女たちはごく一部の例外だった。
19 世紀になり、社会改革者は女性の地位改善を目指す力強い運動を開始する。無数の個人や改革協会、宗教組織が女性の間での教育の普及、寡婦再婚の促進、寡婦 の生活条件の改善、中間層の女性が専門職、公職につく自由などを目指し盛んに活動した。女性解放の運動は20世紀になり、急進的な民族運動の台頭と共に勢 いづいた。女性は独立を求める闘争で重要な役割も果たす。彼女たちはベンガルの分割に反対する運動や自治連盟の運動に大挙して参加し た。1918年以降は政治デモに参加したり、外国製綿布や酒を売る店のピケット、カーディー(手織り布)り製作や宣伝などの活動を繰り広げ、非協力運動に 際しては獄にくだり、デモ行進ではラーティー(警棒)や催涙ガスや弾丸にも立ち向かい、革命的テロリスト運動にも積極的に加わった者もいた。1920年代に労働組合や農民組合の運動が活発化すると、しばしば女性はそれらの活動の最前線におり、立法議会の選挙に投票し、時には自ら立候補する女性も出るようになる。何よりも民族運動への参加こそが、インド女性の覚醒と解放に繋がる。
特に著名なのが女流詩人でもあるサロージニー・ナーイドゥ(1879 -1949)。彼女はベンガル出身のバラモン女性で、南インドの非バラモンと恋愛結婚する。異なるカースト間の結婚でも女のカーストが高い場合は逆毛婚と 呼ばれ、特に忌み嫌われたにも係らず、自分の意思を貫いたのだからかなりの勇気がいることだ。ナーイドゥはイギリス留学中から詩人として有名となる。彼女 はガンディーの信奉者として民族運動に参加、1925年インド女性初の国民会議派議長に選出され、インドにおける女性運動の指導者でもあった。
カーマ夫人(1861-1936)の欧州での活動も面白い。1909年頃からパリを根拠にインド独立に向け宣伝活動を開始する。シュツットガルトで社会主義協議会の席上、インド独立旗を掲げた事件は有名。彼女は少数民族のパールシー(ゾロアスター教徒)だが、我国のマイノリティの女ならまず考えられない行動だ。
1920年代頃までは開明的な男性が女性の地位向上のため献身してきたが、自覚的で自信を得た女性自身が自ら行動するようになる。彼女たちは多くの組織や機関を創設し、中でも有名なのが1927年に創設された全インド女性会議だった。平等を目指し女性の闘争はインド独立と共に一挙に前進する。インド憲法(1950年)の第14条、15条は男女の完全な平等を保証し た。1955年のヒンドゥー婚姻法は一定の条件のもとで婚約の解消を可能にし、翌年のヒンドゥー相続法は娘を息子と同等の相続者とした。一夫一婦制も男女 共に義務付けられた。残念ながらダウリー(持参金)の悪弊は、その要求が禁じられたにも関らず続いた。憲法の指導原則は男女に同一労働に対する同一賃金が 定められ、国営企業における労働と雇用の面で男女平等の権利を与えた。
もちろん現代でも様々な問題が山積しており、解決は決して容易ではないが、インドの女性活動家たちの大いなる貢献があったのは見事だ。彼女らのパワーはどこから来るのだろう?
※参考:「近代インドの歴史」山川出版社、ビパン・チャンドラ著
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拙ブログを読まれて頂いて、有難うございました!
インド・ネパール人のいる会社で働いた体験をお持ちとは、同僚に外国人がいるのも珍しくない時代なのでしょうか。
インド人の自己主張の強さは有名ですよね。言ってナンボの社会なので、控え目が美徳の日本人はやりきれないでしょう。ムンバイに4年間暮らした日本人男性のブログには、インド女性も自己主張が物凄いと書いてありました。
日本の士農工商とインドのカースト制は似て非なるものですが、互いに異教徒には分らない制度です。
表面上法律でカーストによる差別を禁止しても、これは根絶できないでしょうね。「嘘も方便」を生んだ国なので、嘘でもサムライと言った方が得です(笑)。『河童が覗いたインド』(新潮文庫)にも、自分の苗字はクシャトリアであることを表している、と何度も言う人物の例が載っていました。
とても、ためになるブログです。
私は、独身時代、インド・ネパール人のいる会社で働いていたことがあります。
確かに、彼らは自己主張がものすごく激しいです。
私の知る限りですが、彼らが怒ると、怒りが完璧に静まるまで、人の話を聞かないタイプが多い感じがしました。
独身時代、インド人の男性と交際したことがあります。
困った質問の一つに「日本にカーストというものがありますか?」
というものでした。
その時に、私は、私の実家のご先祖様は武士よ。サムライよ。と言ってしまうと。途端に彼は、目を輝かせて、オー、サムライと言い、きつく、私をハグしました。
一体、これは・・??と不思議に思いました。
Y助教授とは、ジェフリー・アーチャー夫人とお話された方でしたか!
稀有な体験のある知人がおられるのはうらやましい限りです。
男女同等を初めて説いたのが16世紀初頭に創始したシク教で、それ以前の宗教は全て男女同等など説いてません。
キリスト教も年配のシスターは若い神父に対しても絶対服従が基本です。法王には絶対なれません。かつて魔女狩りが横行し、蛇に誘惑されたイブを持ち出しては、女を糾弾し続けていました。
サティーを強要する男たちがいる一方、不利益を省みず女性の地位向上に取り組んだ勇敢な男性がいたのはインドの面白いところです。
インドの女性活動家もイギリスの笛に合わせ踊るお馬鹿さんはまずいなかった。あわてたイギリス側が、西欧化したインド女性と的外れな非難をしているのはお笑い種です。
少数民族出のカーマ夫人は大したものです。これが我国の少数民族の女なら「差別」と「哀れな国」を言う他、能の無い者もいますから。
昨年4月の記事を興味深く拝見させて頂きました。
私のようにいささかインドについて知る者からすれば、紹介された上位カーストのインド人の態度は当然です。上位カーストに限らず基本的にヒンドゥーからすれば、異教徒は全てアウトカースト、つまり不可触民です。
私ははじめにY助教授がドアボーイをしたこと自体、間違いだと思います。不可触民視するな、と求めても無駄ですが、不可触民的行為をするなら、相手は自分の家来とますます見下すようになるのです。彼は日本人の親切行為に感謝などしません。
嘘でもいいからY助教授はサムライ、クシャトリアカーストの如く振舞った方がよかったですね。または親父が僧侶だとかホラを吹く。これは効果があります。
T教授は典型的お人よし日本人の意見ですね。
「君の業績が盗られるくらいのことは大したことでない。しかし、インドと日本の国際関係にマイナスが生じる事は、遥かに大きな問題である」!
個人間の関係に国際関係と大げさに身構えてしまう事こそ、問題です。
逆に何も言わないのこそ、大問題なのです。主張しなければ認めたと見なされるのが他国では一般的であり、特にインド、中東の人は自己主張が激しい。自己主張しないものは半人前以下の存在とされるのです。主張して何ぼの世界だから。
これはインド人に限らず、中東のムスリム、欧米、中国、朝鮮人も似た様な態度で臨むはずです。外国人との協調を重視するあまり、何も言わない姿勢こそ、大きなマイナスなのです。
ヒンドゥーに限らないことだと思いますが、キ○スト、イ○ラム、(宗教といえるかは分かりませんが)儒○も含め、世界中の主な宗教は男尊女卑でしょうね。
特に、イ○ラム、儒○の男尊女卑は言うまでもないでしょうけど、キ○スト教も法王や司教と呼ばれている人々に、どれだけ女性がいるのか、疑問に思います(神父はいても、シスターは神父と同等になれるのでしょうか?)。人権、民主主義、平等とは、こういう事なのでしょうか?
これに比べれば、我が国のフェミニストの主張と主義のなさといえばないでしょうね。
私も男なので、女性活動家の運動に対し、あまり興味が涌かないのは事実です。それでも、男に対し、恨みがましくいわないのはさすがですね。
(まぁ、それを利用する男も女も、多くいるでしょうけど、、。)
昨年4月に書いた私の記事:http://kyaz.at.webry.info/200504/article_9.html
に有る様な経緯を見て、インド人が大嫌いになりました。
所が、その後暫くテキサスで過ごした時期に、最も力強い援助をしてくれたのが、インド人の友人でした。狭い交際範囲での出来事から、一つの国の全体を評価してはいけない事を思い知りました。