先日、宮城県美術館の特別展「ミュシャ展~パリの夢、モラヴィアの祈り」を見てきた。以下はチラシにあった解説。
―アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は、ベル・エポック(良き時代)のパリで一世を風靡したアーティストです。画家、イラストレーターと様々な顔を持つミュシャですが、その活躍は、1894年末、はじめて制作したポスター《ジスモンダ》の爆発的な成功からはじまり、今も幅広い人気をもっています。
一方、ミュシャは生涯を通し祖国への思いを胸に、作品の制作を続けていました。本展では、有名なカラーリトグラフによる作品だけではなく、世界初公開である《スラヴ叙事詩第9番〈クジージュキの集会〉》の下半分の下絵など、《スラヴ叙事詩》連作(本展への出品はありません)につながる13点の習作や下絵の他、素描、油彩など、ミュシャ財団のファミリーコレクションから出品された246点によって、全6章に分けて、今まであまり知られてこなかった芸術家ミュシャの思想や芸術理念までも紹介いたします。
ミュシャ展のウェブサイトもあり、画家や作品、時代背景について詳しく解説されている。ミュシャはアール・ヌーヴォーを代表する画家として日本人、殊に女性に人気がある。私自身もお気に入りの画家の1人だし、会場に来ていたのは女性が多かった。トップ画像は特別展チラシで、1897年の《夢想》が使われている。この絵も華やかだ。
上の画像は出世作となった《ジスモンダ》、ミュシャの特に有名な作品。この作品は本などで既に知っていたが、間近で見るのとは印象が違う。衣装が豪華なだけでなく、どこか東洋風な印象を受けるのは私だけではないはず。ミュシャは大女優サラ・ベルナールの専属ポスターを幾つも手がけているが、私は《ジスモンダ》が最も気に入っている。
ミュシャはベルナールの芝居だけでなく、酒や食品、香水、産業製品などのポスターも制作しており、上はJOB社の煙草用巻紙の広告ポスター。現代なら音と映像でCMをつくるが、当時はポスターが最も効果的な宣伝媒体だったようだ。美術館の土産売り場では《JOB》の絵入りのしおりが売られていて、この絵を気に入っている私はつい買ってしまった。
上は《ビザンティン風頭部:ブルネット》《ビザンティン風頭部:ブロンド》。私はビザンティン文化にまるで浅学だが、ビザンティン帝国の王侯貴族の女性はこれほど豪華な髪飾りをつけていたのか?或いは異国趣味を強調するため、作者がことさら装飾華美にしたのだろうか。
今回の特別展には「あなたが知らない本当のミュシャ」のコピーもあり、彼がチェコ人なのは知っていたが、強烈なスラヴ民族主義者だったことは初めて知った。ミュシャが生まれた当時、故郷は長くオーストリア帝国の支配下にあり、チェコスロバキアとして独立国家を建国したのは第一次世界大戦後なのだ。今回《スラヴ叙事詩》の出品はなかったが、その写真は展示されていた。
ただ、スラヴの歴史にもまるで疎い私には、《スラヴ叙事詩》の意味が殆ど判らなかった。《スラヴ叙事詩》には「人類のためのスラヴ民族」という副題がつけられており、スラヴ民族は一致団結しながら他民族との共存に努め、究極的には人類の平和に貢献するべきである、というのがミュシャの思想だったという。
一口にスラヴ民族といえ、東スラヴ人、西スラヴ人、南スラヴ人に分類されており、互いに文化的共通性は希薄らしい。チェコスロバキアの領土を侵害したのはナチスばかりではなく、周辺スラヴ諸国も同様だったそうだ。第二次世界大戦後、チェコスロバキアの共産党政権は愛国心との結びつきを警戒、ミュシャの存在を黙殺したことがwikiにも載っている。
チェコスロバキア自身も冷戦後、チェコとスロバキアに分離独立している始末。ミュシャの夢見たスラブの一致団結など現代でも実現していないし、この先もないだろう。
結局ミュシャは民族主義者であっても夢想家だった。芸術家としては見事だし、作品には夢想家のイマジネーションが結晶されている。
私はミュシャの描く女性の顔立ちを見て、妙に気になった点がある。西欧人の描いた女性画に比べ、いささか顔幅が広く見えた。これはスラヴ系の特徴なのか、ミュシャの好みなのか?または制作当時は面長よりも、横幅のある顔立ちが好まれたのか?ロシア人の顔も心なしか西欧人に比べると、顔幅が広い人が多い様な。
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ロシアはさんざん迷った挙句、ビザンチンの宗教を選択した、ということになっているようですから、ミュシャがビザンチンのデザインを好んだことは何か関連あるのかもしれませんね。
私事ですが、二女一行が、今朝成田到着予定で、妻と長女が成田に出迎えに行きました。そのため、今後しばらく、書き込みができないかも。
ところで、「顔が広い」という、横長傾向については、スラヴ系でも確かにそういう顔もいるけど、顕著な特徴と言えるのかやや疑問です。
小生自身の経験で、欧州で感じたことは、むしろ帽子のサイズに見た、民族別の傾向です。
欧州のゲルマン系は、基本的には頭の幅が狭くて、面長で、帽子のサイズが小さい・・・・小顔兼頭が小柄だと思います。ウィーン、ドイツなどでは、小生の場合帽子のサイズが小さすぎて、買える品がない、ということが多かった。
他方で、アイルランド在住時に驚いたことは、アイでは、一部の人の頭がやたら大きく、従って帽子についても、小生の頭にぴったり、というビッグ・サイズの帽子の入手が楽でした。ロンドンでも、やはり大きな帽子のサイズが見つかりました。どうやら、ケルト系人種は、頭の鉢が大きい、ということらしい。ダブリンの町を歩いていても、小生より頭が大きいらしい人を結構見かけて、欧州先住系のケルト人は、やはり頭が大きいと思いました。
他には、モスクワでもビッグ・サイズの毛皮の帽子が見つかりました。ロシアには、モンゴル系の人種が結構多いので、やはり帽子サイズも大きいのがあるのではないかと思う。
更には、やはり東洋系の血液が入っているハンガリーでは、ブダペストで、それなりに大きい頭の人を見かけることが多かったです。
モラヴィアは、今のチェコですが、墺ハンガリー帝国時代は、ハンガリー人も近しい存在でしたから、ミュシャにとっても、横長顔は、身近な感じだったのかな?と感じます。
小生が会ったあるブル人民族学者は、東方スラヴとドイツのゲルマン系は、本当はほとんど同族だ、という考え方で、彼によれば、ロシア人とドイツ人は、本来同祖であると見做していました。確かに、両民族の発祥の地とされるのは、今日のウクライナ~ベラルーシ辺り、乃至は、ロシアの最西部でベラルーシ、、ウクライナに近いところ、という風に思えます。
ともかく、このドイツ人、本来のロシア人の双方は、小顔で面長、頭の鉢が小さく、更には金髪、青い目が多くて、純粋のアーリア人に見える。
ミュシャのこのイラストに見える少し横長で、ふっくらとした女性の顔・・・こういうのは、ポーランド人とか、ハンガリー系、スロバキア人とかにも多いような気がする。もしかすると、ハンガリー系、或は、北に遠征したオスマン・トルコ系の血筋が混ざったのではないか?などと、想像してしまいます。
そう言えば、北欧のアジア系=フィンランド人の中にも、顔がやたらにでかい人(特に男性)を結構見ました。NY市で出会った巨漢のフィンランド人男性は、背も高いし、頭もでかいし、その上肥満で、小生を日本人と見て「俺の姓はヒマンカーというのだ。日本人はみな笑うよ」と自己紹介したので、驚きました。確かに「肥満漢」でした。
私自身も西洋絵画には素人なので、アール・ヌーヴォーとアール・デコの違いはよく分かりません。現代の日本では、前者の方が知られているようですね。
ロシアがキリスト教を選択したのは、飲酒OKだったからという説があります。祖国を失っているユダヤ教や禁酒のイスラム教は、大酒のみのロシア人に魅力がなかったのかもしれません。
ミュシャはチェコ人ですが、故郷のモラヴィアはかつてビザンティンから正教会と文化を受け入れた処だそうです。だからビザンチンのデザインを好んだのでしょうね。
ついに二女夫妻一行の来日となりましたか。存分に日本滞在を楽しまれるとよいですね。
一般に日本人がイメージする欧米人の顔立ちは小顔で面長、頭幅が狭い…というものですが、これはゲルマン系に見られる特徴ですか。映画に登場する役者やモデルにはこのタイプが多いのですが、日本で公開されるのはハリウッド映画が大半なので、欧米人=小顔で面長、頭幅が狭いという印象が根付いてしまっているのかも。
一方、ケルト系には頭がデカいタイプも少なくない??そういえば、ロックバンドU2のボーカリストの顔は結構横幅がありました。もしかするとラテン系も、横幅のある顔立ちの人も割といるのかも。
ロシア人とドイツ人は、本来同祖であるという考察は面白いですが、ロシアは「タタールのくびき」もあり、モンゴロイドの血が入っているはず。先日見たロシア映画には金髪碧眼の美形でも、横長顔の役者もいました。ロシア大統領の娘の顔写真を公開しているサイトがあります。プーチンの娘も妻も美人ですが、太ってはいないのに顔立ちはふっくらしています。
http://labaq.com/archives/51820700.html
俗に名は体を表す、と言われますが、ヒマンカーという肥満のフィンランド人がいたのは笑えます。フィンランド人には珍名が多いらしく、アホネンというスキー選手もいました。アホも非常にポピュラーな名前で、草原や牧草地を意味しているとか。
http://labaq.com/archives/51158960.html
ピョートル大帝の皇后、エカチェリーナ1世は今のバルト三国の出身なのですが、容姿を見るとアジア系が混じっている感を受けます。昭和30年代、割烹着姿で買い物に行っても違和感がないような気がします。顔もかなり大きく感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A1%E4%B8%96
こちらは、遺伝子の系統を図示したものですが、ロシア人はアジア人とかなり隔たっています。容姿に遺伝子は意外と関わらないのでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%81%BA%E4%BC%9D%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E6%A8%B9.jpg
リンク先でのエカチェリーナ1世の肖像画ですが、仰る通りアジア系でも通りそうな容貌でしたね。リヴォニアの農民の娘となってましたが、リヴォニアにはフィン・ウゴル系のリーヴ人が住んでいたそうです。
ピョートルの最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナはロシア人のようですが、こちらも顔が大きそうです。二重あごなので肥満もあるでしょうけど、元から小顔ではなさそうな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%8A
遺伝子の系統からもアジア人とかなり隔たっているはずのロシア人ですが、アジア風な容貌もいるのは不思議です。やはりアジア人との混血もあるのでしょうか?
ハンガリー人は時々蒙古斑が出ると聞いたことがあります。モンゴルの侵攻のせいだそうです。
こちらはピョートルの異母姉、ソフィア・アレクセーエヴナですが、やはり顔が丸くて大きいですね。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sophia_Alekseyevna_of_Russia.jpg?uselang=ru
非常に権力欲の強い女性で、さすがにピョートルの姉だけあります。こうして見ると、日本には他国の様な強烈な権力志向の女性は見当たらないですね。
とは言うものの、ロシアの名門、ユスポフ公の写真を見ると、先祖がモンゴル帝国の有力部族出身だとは思えません。こうして見ると、ロシア人は結構混血に頓着しない民族なのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Prince_Felix_Yusupov.jpg
ついでに、某掲示板まとめにあったミュシャのスレです。
ttp://science-2ch.net/a/971
何かと問題の多い某掲示板でも、このようなスレはいいですね。
ハンガリー人自体、かつて欧州に侵入した遊牧民マジャル人の末裔ですからね。日本人と同じくハンガリー人の名前も姓の次に個人名の順です。
画像からソフィア・アレクセーエヴナも二重あごで太っています。そのため顔が丸くて大きくなるでしょうけど、元から面長ではないですよね。顔立ちは完全に眼の大きな白人系でしたが。
仰る通り、日本史には強烈な権力志向の女性はまず登場していません。北条政子は実際は北条家の男たちが権力を握っていたし、春日局も権力志向よりは家光のために尽力したように思えます。彼女らのような女性なら、世界史でザラですよ。
ユスポフ公の名は劇画『オルフェウスの窓』で知りましたが、劇画同様イケメンですね。劇画は彼をモデルにした架空の人物のようですが、ユスポフ公が「14世紀タタールの雄エディゲの血を引くロシア屈指の名門」だったとは知りませんでした。
しかし、リンク先の写真を見ると、顔立ちは完全に白人系です。タタールの雄の子孫でもロシア屈指の名門になれたというのは面白いですよね。ふと、シベリア抑留後でも現地女性と結婚したため、日本に戻らなかった日本人がいたことを思い出しました。日本人捕虜と英国女が結婚するなど、考えられませんよ。
2chのミュシャのスレ紹介を有難うございました。芸術家に関するスレだと、このような流れになるのでしょうか。歴史板だと、例え中韓に無関係のスレでもヘンな書込みをする者が出るのです。エロサイトを貼りつける者も結構いました。