その①の続き
ムガル皇帝相手に戦争を仕掛けた英国だが、状況を致命的に見誤っており、ムガル帝国を過小評価していた。治世末期にせよ、アウラングゼーブ統治下の帝国は未だ強大で、東インド会社のちっぽけな軍事力では勝負にもならなかった。結果は英国の壊滅的敗北、彼らはベンガルの商館から追放され、ガンジス河口の熱病蔓延る島に避難を余儀なくされる。スーラト、マチリーパトナム、ヴィシャーカパトナムの商館は接収、ボンベイの要塞は包囲された。
ムガルと戦うにはまだ非力であるのを悟った英国は、再び謙虚な陳情者に豹変、「不埒な犯罪を犯したことをお許し下さるよう」願いいれる。英国はインド人支配者の庇護の下で交易に当たる意志を表明した。インド人史家に言わせれば、「彼らはムガル皇帝から交易に関する特権を求めて、またもお世辞と卑屈な懇願に頼った」。
驚いたことに、ムガル皇帝は英国の過ちをすんなりと許したのだ。彼にはこの異教徒の交易者たちが、一世紀も経たぬうちに重大な脅威になるなど知る由もない。むしろ、会社による海外交易はインドの職人や商人の恩恵となり、ひいては国家の財政を潤すと考えた。さらに英国は陸上では弱小でも海軍力は優っているのを知っていたアウラングゼーブは、賠償金15万ルピーを支払うことで交易再開を許可する。
1698年、英国はスターナティ(シュタヌティ)、カリカタ(コリカタ)、ゴーヴィンドプルという三つの村の所有地も手にし、商館を囲むウィリアム要塞を築いた。これらの村は、間もなくカルカッタとして知られるようになる。
会社は1717年には9代皇帝ファッルフシヤルから、アウラングゼーブ時代の1691年に与えられていた特権を確認し、さらに同様の特権をグジャラートとデカンに拡大する勅令を得た。だが、18世紀前半のベンガルは有力なナワーブ(太守)たちにより支配されていた。彼らは英国商人を厳重に統制し、彼らが特権を悪用することを防止する。また、カルカッタの要塞を増強することも、町を勝手に支配することも許さなかった。まだ会社はナワーブの下の、単なる徴税請負人の地位に留まっていた。
会社の政治的野望は頓挫したにせよ、商業的活動はこれまでになく好調だった。1708年に50万ポンドであったインドから英国への輸入額は、1740年には178万5千ポンドに伸びる。マドラス、ボンベイ、カルカッタの英国拠点は繁栄を謳歌する都市の中核となった。多くのインド商人や金融業者たちは、これらの都市の惹き付けられた。原因はこれらの都市が新たな商業の機会を提供したのと、ムガル帝国の分裂に伴い都市の外部の地域が不安定な状況にあったからである。18世紀半ばまでにマドラスの人口は30万人、カルカッタとボンベイの人口はそれぞれ20万人、7万人に増大した。
それにしても、異教や異端には峻厳な態度で臨んだ教条主義者アウラングゼーブが、英国に対しては寛大にも軽い賠償金と引き換えに交易を許したとは改めて驚かされる。この会社がやがて自分の帝国を滅ぼすことまで見通す千里眼を求めるのは酷だが、彼は国内の宗教問題に加え外交でも、禍根を残すことをやったのだ。コーランを拠り所にしたこの皇帝は、自分と同じスンニ派ムリスムである西方諸部族とも戦いを起こしている。現代のアフガンに当たる地域の西方諸部族との争いは宗教ではなく、政治的、経済的な原因だったが、マラータ同盟のようなヒンドゥー相手の戦いとも並行して行われたのだ。国力が疲弊するのも当然だろう。そのため交易で破綻した財政を立て直そうと図ったにせよ、恐るべき禍の種を呼び込んだのだ。
陳舜臣氏はアウラングゼーブを「政治家としても宗教家としても、アウラングゼーブ帝は落第生」と一刀両断されているが、インドのムスリムやパキスタンでは国民的英雄と見なされているそうだ。逆に寛容な宗教政策をとり、帝国の基礎を磐石とした政治家としても宗教家としても見事な優等生である3代目アクバル帝は、評判がよくないとか。
■参考:「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著、山川出版社
◆関連記事:「インド三国志」
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ムガル皇帝相手に戦争を仕掛けた英国だが、状況を致命的に見誤っており、ムガル帝国を過小評価していた。治世末期にせよ、アウラングゼーブ統治下の帝国は未だ強大で、東インド会社のちっぽけな軍事力では勝負にもならなかった。結果は英国の壊滅的敗北、彼らはベンガルの商館から追放され、ガンジス河口の熱病蔓延る島に避難を余儀なくされる。スーラト、マチリーパトナム、ヴィシャーカパトナムの商館は接収、ボンベイの要塞は包囲された。
ムガルと戦うにはまだ非力であるのを悟った英国は、再び謙虚な陳情者に豹変、「不埒な犯罪を犯したことをお許し下さるよう」願いいれる。英国はインド人支配者の庇護の下で交易に当たる意志を表明した。インド人史家に言わせれば、「彼らはムガル皇帝から交易に関する特権を求めて、またもお世辞と卑屈な懇願に頼った」。
驚いたことに、ムガル皇帝は英国の過ちをすんなりと許したのだ。彼にはこの異教徒の交易者たちが、一世紀も経たぬうちに重大な脅威になるなど知る由もない。むしろ、会社による海外交易はインドの職人や商人の恩恵となり、ひいては国家の財政を潤すと考えた。さらに英国は陸上では弱小でも海軍力は優っているのを知っていたアウラングゼーブは、賠償金15万ルピーを支払うことで交易再開を許可する。
1698年、英国はスターナティ(シュタヌティ)、カリカタ(コリカタ)、ゴーヴィンドプルという三つの村の所有地も手にし、商館を囲むウィリアム要塞を築いた。これらの村は、間もなくカルカッタとして知られるようになる。
会社は1717年には9代皇帝ファッルフシヤルから、アウラングゼーブ時代の1691年に与えられていた特権を確認し、さらに同様の特権をグジャラートとデカンに拡大する勅令を得た。だが、18世紀前半のベンガルは有力なナワーブ(太守)たちにより支配されていた。彼らは英国商人を厳重に統制し、彼らが特権を悪用することを防止する。また、カルカッタの要塞を増強することも、町を勝手に支配することも許さなかった。まだ会社はナワーブの下の、単なる徴税請負人の地位に留まっていた。
会社の政治的野望は頓挫したにせよ、商業的活動はこれまでになく好調だった。1708年に50万ポンドであったインドから英国への輸入額は、1740年には178万5千ポンドに伸びる。マドラス、ボンベイ、カルカッタの英国拠点は繁栄を謳歌する都市の中核となった。多くのインド商人や金融業者たちは、これらの都市の惹き付けられた。原因はこれらの都市が新たな商業の機会を提供したのと、ムガル帝国の分裂に伴い都市の外部の地域が不安定な状況にあったからである。18世紀半ばまでにマドラスの人口は30万人、カルカッタとボンベイの人口はそれぞれ20万人、7万人に増大した。
それにしても、異教や異端には峻厳な態度で臨んだ教条主義者アウラングゼーブが、英国に対しては寛大にも軽い賠償金と引き換えに交易を許したとは改めて驚かされる。この会社がやがて自分の帝国を滅ぼすことまで見通す千里眼を求めるのは酷だが、彼は国内の宗教問題に加え外交でも、禍根を残すことをやったのだ。コーランを拠り所にしたこの皇帝は、自分と同じスンニ派ムリスムである西方諸部族とも戦いを起こしている。現代のアフガンに当たる地域の西方諸部族との争いは宗教ではなく、政治的、経済的な原因だったが、マラータ同盟のようなヒンドゥー相手の戦いとも並行して行われたのだ。国力が疲弊するのも当然だろう。そのため交易で破綻した財政を立て直そうと図ったにせよ、恐るべき禍の種を呼び込んだのだ。
陳舜臣氏はアウラングゼーブを「政治家としても宗教家としても、アウラングゼーブ帝は落第生」と一刀両断されているが、インドのムスリムやパキスタンでは国民的英雄と見なされているそうだ。逆に寛容な宗教政策をとり、帝国の基礎を磐石とした政治家としても宗教家としても見事な優等生である3代目アクバル帝は、評判がよくないとか。
■参考:「近代インドの歴史」ビパン・チャンドラ著、山川出版社
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