その①、その②の続き
チンギス率いるモンゴル軍と戦い、キリスト教国グルジアを破ったジャラールッディーンは、イスラム世界で名を上げたのは確かでも、その武勇と好戦癖を中東の君主は恐れるようになる。彼が戦ったのは異教徒勢力圏ばかりではなく、南カフカースから東部アナトリア、シリア方面にも侵出、諸勢力とも戦い勢力を拡大する。もはや対モンゴルの大義などなく、その精力的な活動は個人の征服欲に起因し、周辺イスラム諸国に対する略奪まで行うに至った。これはアナトリアを支配するルーム・セルジューク朝と、シリアを治めるアイユーブ朝との関係悪化の果て、戦闘を招く結果となる。
1230年、ついにルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝は連合し、ジャラールッディーン討伐に向かう。これに対し彼は決戦に挑もうとしたが不運にも急病に侵され、ルーム・セルジューク朝のカイクバード1世率いる連合軍に敗北、アゼルバイジャンに退いた。その間に配下の武将の多くはジャラールッディーンを捨てて逃亡、勢力を失う。さらに追い討ちを掛けるように、モンゴル人の大部隊が侵入してくる。これはチンギスの後を継いだオゴデイの命によって派遣された3万の大軍である。
ジャラールッディーンはモンゴル遠征軍はイラクで冬を過ごすものと考え、一たんタブリーズに退く。だがこの推定は誤りで、モンゴル兵は彼の退却を追いつつあった。モンゴル兵は彼が狩猟中、急襲を加えてきたこともあったが、辛うじて脱出することが出来た。その後、ジャラールッディーンはアゼルバイジャンからアナトリアに時々進出するも、モンゴル兵は依然として執拗に追跡してくるため、ついにイランとイラクの中間の険しいクルディスタン山地に身を隠そうとする。
山岳民族クルド人は当時も勇猛というより、略奪、追いはぎ、強盗として低地の住民から恐れられていた。ジャラールッディーンがディヤルバクル(現トルコ)の村に入ると、クルド人たちはその習慣に従い彼を捕らえようとしたので、村長に身分を明かし、馬を連れてくるよう言いつけた。村長が馬を捜しに出かけた後、1人のクルド人が入ってきて彼を殺害する。チンギスを感嘆させた英雄の死としては、じつにあっけない最後であった。1231年、これでホラズム帝国は滅亡となる。
ジャラールッディーンの父アラーウッディーン・ムハンマドはテュルク系だが、母はインド人であったという。そのためか皮膚の色は黒く、中背でがっちりした体格であり、トルコ語とペルシア語を話した。彼は武人としては申し分なかったが、指揮官とか君主としては不適格な面があった。比類なき勇猛な戦士であったが、大局を判断する能力、人心を捉える人柄には欠けていた。必要に迫られれば如何なる困苦にも耐えたが、平時には酒や快楽に身を委ね、部下の将兵には俸給を支払わず、戦功にも恩恵を与えることもなく、略奪により自給自足すべきことを命じる始末。父も虚栄心が強く遊惰な快楽を好むところがあったので、やはり血は争えないのか。
ホラズム帝国の君主たちに対し、チンギス・ハーンはあまりにも対照的だった。四駿四狗と讃えられる優れた武将に恵まれ、賢母と賢妃もいた。部下たちは勇猛だけでなく沈着な者もおり、世界制覇を成したのも当然だった。一時期、四駿のひとりだが行動がよく判っていないボロクルは情報収集を行っていたのではないか、と見る説があった。たとえボロクルが諜報活動をしなくとも、モンゴル軍は事前に敵情視察をすることは珍しくない上、いきなり侵攻をした訳ではない。
東欧に「ひげのない男がやって来て、泉から直に口をつけて水を飲んだ。これぞ、地獄の使者」という諺がある。これはモンゴル人を指しており、事前に征服予定地に着ていたことを暗示している。単なる騎馬戦が得意なだけの蛮族でなく、情報収集という当り前のことも行っていたのだ。
これに対し、アラーウッディーンは新興の異教徒モンゴル軍を侮り、情勢を探ることを怠った。使者を殺害したり、「お前たちの主のチンギスが戦うなと命じても、アッラーは余に戦えと命じたのだ」と少数のモンゴル兵に攻撃したりもする。結果は帝国の各都市の屠城という凄まじい報復だった。祖先は草原の馬賊でも、既に定住化したホラムズの君主は文明化しており、純然たる遊牧民のモンゴルとの差となったのか。
現代もモンゴル人はトルコ人というと、「あの連中はここを去ってあちらに向かったのだ」と西の方角にあごをしゃくり、小ばかにしたような言い方をすると、司馬遼太郎は『草原の記』(新潮文庫)で書いていた。トルコ人も勇猛だが、モンゴルには一歩及ばなかったのは否めない。前者が西に向かったのは、より強いモンゴルに押し出された背景もあるのかもしれない。
■参考:『西域とイスラム』(世界の歴史5巻、岩村忍編集、中公バックス)
◆関連記事:「チンギス・ハーンとイスラム世界」
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チンギス率いるモンゴル軍と戦い、キリスト教国グルジアを破ったジャラールッディーンは、イスラム世界で名を上げたのは確かでも、その武勇と好戦癖を中東の君主は恐れるようになる。彼が戦ったのは異教徒勢力圏ばかりではなく、南カフカースから東部アナトリア、シリア方面にも侵出、諸勢力とも戦い勢力を拡大する。もはや対モンゴルの大義などなく、その精力的な活動は個人の征服欲に起因し、周辺イスラム諸国に対する略奪まで行うに至った。これはアナトリアを支配するルーム・セルジューク朝と、シリアを治めるアイユーブ朝との関係悪化の果て、戦闘を招く結果となる。
1230年、ついにルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝は連合し、ジャラールッディーン討伐に向かう。これに対し彼は決戦に挑もうとしたが不運にも急病に侵され、ルーム・セルジューク朝のカイクバード1世率いる連合軍に敗北、アゼルバイジャンに退いた。その間に配下の武将の多くはジャラールッディーンを捨てて逃亡、勢力を失う。さらに追い討ちを掛けるように、モンゴル人の大部隊が侵入してくる。これはチンギスの後を継いだオゴデイの命によって派遣された3万の大軍である。
ジャラールッディーンはモンゴル遠征軍はイラクで冬を過ごすものと考え、一たんタブリーズに退く。だがこの推定は誤りで、モンゴル兵は彼の退却を追いつつあった。モンゴル兵は彼が狩猟中、急襲を加えてきたこともあったが、辛うじて脱出することが出来た。その後、ジャラールッディーンはアゼルバイジャンからアナトリアに時々進出するも、モンゴル兵は依然として執拗に追跡してくるため、ついにイランとイラクの中間の険しいクルディスタン山地に身を隠そうとする。
山岳民族クルド人は当時も勇猛というより、略奪、追いはぎ、強盗として低地の住民から恐れられていた。ジャラールッディーンがディヤルバクル(現トルコ)の村に入ると、クルド人たちはその習慣に従い彼を捕らえようとしたので、村長に身分を明かし、馬を連れてくるよう言いつけた。村長が馬を捜しに出かけた後、1人のクルド人が入ってきて彼を殺害する。チンギスを感嘆させた英雄の死としては、じつにあっけない最後であった。1231年、これでホラズム帝国は滅亡となる。
ジャラールッディーンの父アラーウッディーン・ムハンマドはテュルク系だが、母はインド人であったという。そのためか皮膚の色は黒く、中背でがっちりした体格であり、トルコ語とペルシア語を話した。彼は武人としては申し分なかったが、指揮官とか君主としては不適格な面があった。比類なき勇猛な戦士であったが、大局を判断する能力、人心を捉える人柄には欠けていた。必要に迫られれば如何なる困苦にも耐えたが、平時には酒や快楽に身を委ね、部下の将兵には俸給を支払わず、戦功にも恩恵を与えることもなく、略奪により自給自足すべきことを命じる始末。父も虚栄心が強く遊惰な快楽を好むところがあったので、やはり血は争えないのか。
ホラズム帝国の君主たちに対し、チンギス・ハーンはあまりにも対照的だった。四駿四狗と讃えられる優れた武将に恵まれ、賢母と賢妃もいた。部下たちは勇猛だけでなく沈着な者もおり、世界制覇を成したのも当然だった。一時期、四駿のひとりだが行動がよく判っていないボロクルは情報収集を行っていたのではないか、と見る説があった。たとえボロクルが諜報活動をしなくとも、モンゴル軍は事前に敵情視察をすることは珍しくない上、いきなり侵攻をした訳ではない。
東欧に「ひげのない男がやって来て、泉から直に口をつけて水を飲んだ。これぞ、地獄の使者」という諺がある。これはモンゴル人を指しており、事前に征服予定地に着ていたことを暗示している。単なる騎馬戦が得意なだけの蛮族でなく、情報収集という当り前のことも行っていたのだ。
これに対し、アラーウッディーンは新興の異教徒モンゴル軍を侮り、情勢を探ることを怠った。使者を殺害したり、「お前たちの主のチンギスが戦うなと命じても、アッラーは余に戦えと命じたのだ」と少数のモンゴル兵に攻撃したりもする。結果は帝国の各都市の屠城という凄まじい報復だった。祖先は草原の馬賊でも、既に定住化したホラムズの君主は文明化しており、純然たる遊牧民のモンゴルとの差となったのか。
現代もモンゴル人はトルコ人というと、「あの連中はここを去ってあちらに向かったのだ」と西の方角にあごをしゃくり、小ばかにしたような言い方をすると、司馬遼太郎は『草原の記』(新潮文庫)で書いていた。トルコ人も勇猛だが、モンゴルには一歩及ばなかったのは否めない。前者が西に向かったのは、より強いモンゴルに押し出された背景もあるのかもしれない。
■参考:『西域とイスラム』(世界の歴史5巻、岩村忍編集、中公バックス)
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