先日、ガートルード・ベルの『シリア縦断紀行』(東洋文庫584~5、平凡社)を面白く読んだ。この紀行文は1905年早春に、エルサレムからアレキサンドレッタ(現トルコ領、ハタイ県)までを千数百㎞に亘り縦断、2ヶ月余りの旅の記録である。旅の舞台は題名どおりシリアだが、この作品からオスマン帝国末期の中東の風習や政治的状況が浮かび上がってくる。
中東といえばイスラム圏であり、住民はアラブ人のムスリムと思う日本人が大半だろう。しかしベルの旅した地方だけでも多彩な民族、宗教が混在していたのに驚かされる。ひと口にイスラムといえ本当に様々な宗派があり、アラウィー派、ドゥルーズ派のように輪廻転生を認めるという、イスラムからの逸脱としか思えないような派まであるのだ。スンニ派のような多数“正統”派から白眼視、異教徒扱いとされつつ、ジズヤ(人頭税)を納めさえすれば存在が認められていた。これはカトリックとプロテスタントに二分された欧州とは実に対照的である。ベル自身も「はじめに」でこう記している。
-オリエントで気がつくことは、欧州に比べての付き合いの習慣に人為的な束縛の枷がはめられていないこと、そして豊かな多様性のために許容の幅がより広いことである…
そしてシリア地方に、キリスト教徒が少なからずいるのもまた驚く。『シリア縦断紀行』には写真が多数載っており、キリスト教徒のベドウィン一家のそれもあった。ベドウィン=アラブ人ムスリムの固定観念が覆された。シリアはかつて古代ローマの穀倉地帯だったが、ローマがキリスト教化する以前からキリスト教が普及していたようだ。キリスト教自体が中東生まれの宗教ゆえ、元から一神教を受け入れる土壌があったのだろう。ベルのガイドにも現地キリスト教徒が従い、他のドルーズ派の者と共に旅を続けている。
よく言えば多文化共存の世界でもあるが、同時に宗教、民族紛争の火種があり、1860年ドルーズ派はキリスト教徒虐殺事件も行っている。既に中東に覇権を広げていた英仏だが、この時キリスト教徒を擁護した後者に対し、英国は何と異教徒ドルーズ派を支援する。ベルの紀行文からも現地人を同じクリスチャンとして親近感など寄せていないのが伺える。
聖地エルサレムには各国から巡礼が集まり、本にはロシア人巡礼者やブハラ(現ウズベキスタン)から来たユダヤ人の写真もある。決して裕福とは思えない服装だが、たとえ聖地で昇天することがあっても信仰深き人々には本望なのだろう。ベルと現地人との会話で、「神のご意思で」「神は誉むべきかな!」の挨拶が頻繁に出てくる。今より少しは迷信深かった当時の日本人さえ、神々の名を口にしていただろうか。改めて日本は宗教の重みが薄い国だと感じさせられた。
シリア地方はかつて古代ローマの属州で、ギリシア人もかなり居住していたこともあり、ギリシア・ローマ時代の遺跡の宝庫となっている。本には遺跡の写真が載っており、古代の神殿の多くは廃墟となっているが、それでも石の建築物は完全崩壊しておらず、ローマの建築技術の高さが知れる。
中東に侵出していたのは英仏のみならず、米国も1866年ベイルート(現レバノン首都)にアメリカン・カレッジを長老派ミッションにより創立している。この教育施設は後のベイルート・アメリカン大学の前身で、シリア地方のキリスト教徒子弟が学んでいる。周囲のムスリムには「アメリカかぶれのキリスト教徒ども」と白眼視する者も少なくなかった。19世紀後半、シリアのキリスト教徒の中にはアメリカに移民したり、出稼ぎに行き一財産を築いた後故郷に戻った者もいる。ドイツ在住のキリスト教徒シリア人作家ラフィク・シャミの物語の背景が伺えた。布教では英国国教会も負けていない。中東のキリスト教徒中心に布教、ある村のキリスト教徒をいく名か改宗させるや、それまで平和に暮らしていた村同士で旧教派と改宗組みとの間で争いが起きる。
欧米列強に煽られる形でアラブの間にはナショナリズムと反トルコ感情が台頭していたが、アラブは未だ部族社会そのものであり、諸部族はトルコよりも敵部族を憎悪していた。ベルはドゥルーズ派アラブ人のキャンプで、刀と短剣で武装した若者と少年の一団による儀式を目撃しているが、若者たちが刀を振り回しながら大声で歌っていた歌詞はこのようなものである。
-奴らを、奴らを!おお主よ、我らが神よ!敵どもを我らの刀の前に列をなして倒れさせたまえ!奴らを、奴らを!我らの槍に、奴らの心臓の血を飲み干せたまえ!赤子は母親の乳房から離せ!若者は立って、いざ行け!奴らを、奴らを!おお主よ、我らが神よ!我らの刀に、奴らの心臓の血を飲み干せたまえ…
部族間では襲撃・略奪が当り前であり、これぞ「良き男なりや、真の男なりや」と見なされていた。ただ、同じアラブという認識もあり、女子供を手に掛けることはせず、略奪に専念していた。いかに勇猛な遊牧民も子供は戦いに参加せず、残って自分たちの番が早く来るように祈りを捧げていた。20世紀初めでも中東には中世さながらの民族がいたのだ。
その②に続く
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中東といえばイスラム圏であり、住民はアラブ人のムスリムと思う日本人が大半だろう。しかしベルの旅した地方だけでも多彩な民族、宗教が混在していたのに驚かされる。ひと口にイスラムといえ本当に様々な宗派があり、アラウィー派、ドゥルーズ派のように輪廻転生を認めるという、イスラムからの逸脱としか思えないような派まであるのだ。スンニ派のような多数“正統”派から白眼視、異教徒扱いとされつつ、ジズヤ(人頭税)を納めさえすれば存在が認められていた。これはカトリックとプロテスタントに二分された欧州とは実に対照的である。ベル自身も「はじめに」でこう記している。
-オリエントで気がつくことは、欧州に比べての付き合いの習慣に人為的な束縛の枷がはめられていないこと、そして豊かな多様性のために許容の幅がより広いことである…
そしてシリア地方に、キリスト教徒が少なからずいるのもまた驚く。『シリア縦断紀行』には写真が多数載っており、キリスト教徒のベドウィン一家のそれもあった。ベドウィン=アラブ人ムスリムの固定観念が覆された。シリアはかつて古代ローマの穀倉地帯だったが、ローマがキリスト教化する以前からキリスト教が普及していたようだ。キリスト教自体が中東生まれの宗教ゆえ、元から一神教を受け入れる土壌があったのだろう。ベルのガイドにも現地キリスト教徒が従い、他のドルーズ派の者と共に旅を続けている。
よく言えば多文化共存の世界でもあるが、同時に宗教、民族紛争の火種があり、1860年ドルーズ派はキリスト教徒虐殺事件も行っている。既に中東に覇権を広げていた英仏だが、この時キリスト教徒を擁護した後者に対し、英国は何と異教徒ドルーズ派を支援する。ベルの紀行文からも現地人を同じクリスチャンとして親近感など寄せていないのが伺える。
聖地エルサレムには各国から巡礼が集まり、本にはロシア人巡礼者やブハラ(現ウズベキスタン)から来たユダヤ人の写真もある。決して裕福とは思えない服装だが、たとえ聖地で昇天することがあっても信仰深き人々には本望なのだろう。ベルと現地人との会話で、「神のご意思で」「神は誉むべきかな!」の挨拶が頻繁に出てくる。今より少しは迷信深かった当時の日本人さえ、神々の名を口にしていただろうか。改めて日本は宗教の重みが薄い国だと感じさせられた。
シリア地方はかつて古代ローマの属州で、ギリシア人もかなり居住していたこともあり、ギリシア・ローマ時代の遺跡の宝庫となっている。本には遺跡の写真が載っており、古代の神殿の多くは廃墟となっているが、それでも石の建築物は完全崩壊しておらず、ローマの建築技術の高さが知れる。
中東に侵出していたのは英仏のみならず、米国も1866年ベイルート(現レバノン首都)にアメリカン・カレッジを長老派ミッションにより創立している。この教育施設は後のベイルート・アメリカン大学の前身で、シリア地方のキリスト教徒子弟が学んでいる。周囲のムスリムには「アメリカかぶれのキリスト教徒ども」と白眼視する者も少なくなかった。19世紀後半、シリアのキリスト教徒の中にはアメリカに移民したり、出稼ぎに行き一財産を築いた後故郷に戻った者もいる。ドイツ在住のキリスト教徒シリア人作家ラフィク・シャミの物語の背景が伺えた。布教では英国国教会も負けていない。中東のキリスト教徒中心に布教、ある村のキリスト教徒をいく名か改宗させるや、それまで平和に暮らしていた村同士で旧教派と改宗組みとの間で争いが起きる。
欧米列強に煽られる形でアラブの間にはナショナリズムと反トルコ感情が台頭していたが、アラブは未だ部族社会そのものであり、諸部族はトルコよりも敵部族を憎悪していた。ベルはドゥルーズ派アラブ人のキャンプで、刀と短剣で武装した若者と少年の一団による儀式を目撃しているが、若者たちが刀を振り回しながら大声で歌っていた歌詞はこのようなものである。
-奴らを、奴らを!おお主よ、我らが神よ!敵どもを我らの刀の前に列をなして倒れさせたまえ!奴らを、奴らを!我らの槍に、奴らの心臓の血を飲み干せたまえ!赤子は母親の乳房から離せ!若者は立って、いざ行け!奴らを、奴らを!おお主よ、我らが神よ!我らの刀に、奴らの心臓の血を飲み干せたまえ…
部族間では襲撃・略奪が当り前であり、これぞ「良き男なりや、真の男なりや」と見なされていた。ただ、同じアラブという認識もあり、女子供を手に掛けることはせず、略奪に専念していた。いかに勇猛な遊牧民も子供は戦いに参加せず、残って自分たちの番が早く来るように祈りを捧げていた。20世紀初めでも中東には中世さながらの民族がいたのだ。
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