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トルハン・ハトン/全世界の帝王を名乗った女

2009-01-20 21:11:33 | 読書/中東史
 母の実家が有力家系で、その結び付きが強いのは子供にとって強力な後ろ盾を持つこととなる。だが、時にそれが裏目に出て、思いもかけぬ災難を招くこともある。前日記事にしたジャラールッディーンの祖母と、その息子アラーウッディーン・ムハンマドの関係がそうだったように。実家が良すぎると、生涯それを鼻にかける女もいるのだ。

 アラーウッディーンの母トルハン・ハトンは、カンクリというテュルク系部族の王族の出自だった。ホラムズ帝国はオアシス都市に基礎を持つ国家ではあったが、その武力は主に北方のテュルク系遊牧騎馬民に依存しており、中でも特に有力なのがカンクリ族。そのためトルハン・ハトンは単なる后妃以上の勢力を振るっていた。東洋史学者の岩村忍氏は彼女を武則天(則天武后)や西太后みたいな女、と表現していたが、少なくとも内政を安定させた前者より国を破滅させた後者に近い。

 ハトンの夫はホラムズ帝国第6代スルタンテキシュ。もちろんムスリム君主ゆえ、妻は彼女1人ではなかったが、最有力のカンクリ部族の女なら、他の后妃とは別格だったのは想像が付く。彼女の産んだ息子アラーウッディーンがスルタンに即けたのも、母の実家の強力な後押しがあったことだろう。
 夫の死後、ハトンの権勢はますます強くなり、アラーウッディーンの他にもう1人の君主がいるような有様だった。彼女はホラズムが新たな領土を加える毎に、そのかなりの部分を己自身の直轄地とし、中央政府には直属の大臣7人を置いていた。ハトンの命令書には、「世界と信仰の保護者にして全世界の女性の帝王なるトルハン」と記した印を押す。また自らホーダヴェンド・ジハーン(世界の王)と称していた。

 このような次第だったので、実子であるアラーウィディーンはしばしば母と衝突、不和となるのは避けられなかった。ハトンからすれば、誰のお陰でスルタンになった、位の気持はあったのだろう。チンギスの侵攻により息子が西方に逃亡した時も、ハトンは依然として首都ウルゲンチ(現ウズベキスタン)に留まっていた。さすがにアラーウィディーンもアム川の防御線を撤退する際、母后に急使を遣わし、共にマーザンダラーン(現イラン)に難を避けてはどうかと勧めた。
 チンギスは既にアラーウッディーンと母后の関係が必ずしもうまくいっていないことと、ハトンの貪欲さを知っており、彼女に対し使者を派遣した。降伏するなら、肥沃なホラーサーン地方(現イラン)を領土として提供する、という条件をつけて。

 ハトンはチンギスの提議に回答はせず、ウルゲンチを撤退することにする。彼女は撤退に先立ち、ホラムズ帝国が征服、捕虜として首都に監禁していた多数の君主や領主を尽く、アム川に投げ入れ、殺害した。その中にはセルジューク朝のスルタンやバルフ(現アフガン)、バーミヤーン(同)の王も含まれていた。仏教国・西遼の討伐者としてイスラム世界で名を上げた息子の足を引っ張るばかりか、たっぷり顔に泥を塗っている。

 ハトンはアラーウッディーンの後宮の妃妾や息子を伴ってウルゲンチを逃れ、アルボルズ山脈(現イラン)の峻厳な山中にある城塞に立て篭もったが、モンゴル兵に包囲され降伏した。アラーウッディーンの多くの妃妾はチンギスの命により、息子チャガタイやモンゴルの将軍に与えられたという。
 かつてホーダヴェンド・ジハーン(世界の王)を名乗ったハトンは、モンゴル人の本拠である外モンゴリアカラコルムに送られ、その地で生涯を終えた。たとえカラコルムでのハトンが貴人としての扱いを受けても、生まれながらの王族である誇り高い彼女にはさぞ屈辱だっただろう。実質的には異教徒の野蛮人の奴隷なのだから。

「父方の叔父より、母方の叔父が優しい」というモンゴルの諺があり、母方の親戚の方が頼りになるという意味である。ムスリマゆえ、ハトンに「老いては子に従う」との儒教的道徳観はなかったにせよ、幾つになっても子供は子供。儒教圏も実際は、「老いても子を従える」女が少なくなかったのではないか。古今東西、やはり母は強し。
■参考:『西域とイスラム』(世界の歴史5巻、岩村忍編集、中公バックス)

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