その一の続き
「解釈が難しい『コーラン』の原典ですが、多くの敬虔なイスラム教徒が努力して、『コーラン』を読んでいます。一部のエリートだけが『コーラン』の知識を独占しているということはなく、まして、隠蔽するということはありません。『コーラン』の知識は今も昔も、すべての人々に開かれています」(276頁)、と宇山卓栄氏は「Googleやネットがイスラム教徒の『コーラン』への接し方を激変させた」説を批判する。
しかし、文盲では『コーラン』は全く読めず、イスラム圏で識字率が低かったのは遠い昔ではない。さすがに現代は教育が普及するようになり、識字率も向上したが、それ以前は宗教権威やムッラーと呼ばれる聖職者の説教に従う他なかった。つまり、一部のエリートだけが実質的に『コーラン』の知識を独占していた時代が長く続いており、卑しくも世界史を読み解くのであれば、宇山氏がこれを知らないはずがない。
書物やネットでコーランが読めるようになった結果、その一で挙げたようにアズハル大学総長が相手でも全く躊躇せず、むしろ、イスラム教を歪曲しようとする不正な御用学者はどんどん批判しなければならない、と考えているようだ。何しろ日本の東大学長よりも権威あるはずのアズハル大学総長相手に、「無知蒙昧」呼ばわりした者までいたのだから。
タイイブ師の議論について、「シシ(エジプト大統領)の御用学者」という書込みがあったという。ネットを使いこなせる現代のイスラム教徒は、もはや「御用学者」が適当な議論で容易に騙せる存在ではなくなっていることが知れよう。
タイイブ師がТV出演した2日後、アズハル大は公式HPで、「タイイブ師は決して一夫多妻を禁じようとしているわけではない。『コーラン』やスンナの規範に反するような法を作ろうなどという意図は全くない」と釈明する声明を発表した。
もちろん、「人々がタイイブ師の議論を誤解しただけ」というのがアズハルの言い分だった。しかしアズハル総長のイスラム法解釈に対し、在野の一般大衆が噛みつき、それに対しアズハルが釈明するのは新しい現象という。
私的には、きちんと一般大衆に釈明声明を出したアズハルの姿勢には感心させられた。やはりイスラムの神の前の平等思想があるのやら。
対照的に日本の教育機関のほうが“後進的”ではないか。東大学長どころか私大の嘱託講師風情が、「一般国民としては、一次資料や直接体験に基づかない限り、自己流の安易な憶測で勝手気儘に発言しない態度が重要であろう」とブログでご高説を垂れる始末。この種の鼻持ちならぬ権威主義のルーツは儒教か。
アラビア語を母語としないイスラム教徒には、やはりコーランの読解はハードルが高いはず。ソマリア出身の女性アヤーン・ヒルシ・アリの自伝『もう、服従しない』には、学校以外にもコーランの勉強を続けたことが載っていた。もっとコーランを理解するため、英語版を買って読むがその結果、妻は夫に完全に服従せねばならず、もし従わなければ夫は女を打っても構わない(4-34)と明記されていたことを知る。
イスラム政治思想が専門の池内恵氏は当然原文でコーランが読めるが、アラビア語を母語とする人々にはそれは薬品の原液のように直接効いてくる、と記していた。私はもちろん邦訳でしか読めないが、やたら「言ってやるがいい」の言葉が使われ、異教への論難姿勢が全面に出ていると感じた。
SNSでは過激化するイスラム教徒ばかりではない。逆にイスラム教の異教徒蔑視、女性差別、同性愛嫌悪などの教義に幻滅、棄教したという匿名の書込みもかなり見られるそうだ。イスラムの教義では棄教者は殺害してもお構いなしだし、棄教したことが知れれば殺されずとも、自分や家族は迫害される。
棄教者の殆どに共通しているのは、イスラム教について無知だから棄教したのではなく、学んだからこそ棄教したという点。ネットや普通教育を通じ、近代的な男女平等や多様性という価値観に親しんだイスラム教徒には、それらとは全く相容れぬ啓示を神の言葉として絶対視するイスラム教は、時として耐え難く映るのは当然だろう。アヤーンもイスラムを学んで棄教したのだ。
スポンジ頭さんから、「著者(宇山卓栄氏)は中東には詳しくなく、付け焼き刃で本を書いたのではないでしょうか。」というコメントを頂いた。
宇山氏は、「イスラム教は寛容と不寛容の両面があり、その時代やそれぞれの指導者によって使い分けられ、一概に定型化することはできません。」とも述べていたが、この定義なら他宗教にも当てはまり、姑息なすり替えとしか見えない。
また宇山氏は、イスラム過激派が増大しているのはイスラム原理主義が進んでいるからではなく、貧富の格差の拡大や社会的困窮など極めて世俗的な要因に起因することが多い、とも書いている。イスラム全盛期でも貧富の格差は激しかったし、イスラムテロリストの大半は経済的に恵まれた出自である。
『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(ジョン・ミアシャイマー、スティーヴン・ウォルト共著 講談社)というノンフィクションがある。アメリカでは“イスラエル・ロビー”により、イスラエルに不都合な情報をメディアが報道されない状態になっていることを告発した書物だったが、実は“イスラム・ロビー”もあることを飯山陽氏は著書『イスラム教再考』(扶桑社新書)で紹介している。
例えば「アメリカ・イスラム関係評議会(CAIR)」は、アメリカではイスラムフォビアが蔓延し、イスラム教徒は不当に多くのヘイト犯罪や差別に遭っていると宣伝するイスラム系ロビーだが、この主張には捏造されたものも多く含まれているという。彼らの手法は、イスラム教に批判的な人物に次々とイスラムフォビアの汚名を着せ、社会的に抹殺しようと活動しているそうだ。
ならば、日本にも同類のロビーがないとどうして言えよう?厄介なのは既存メディアとリベラル派が“イスラム・ロビー”と連帯すること。潤沢なオイルマネーでイスラムに好意的な報道を垂れ流すことは、以前から行われているのだから。
◆関連記事:「もう、服従しない」
「イスラエル・ロビー」
「自爆テロリストの正体」
「福沢諭吉たちの見たエジプト」
「イスラムシンパからのコメント」
漢字と儒教(四書五経)、ラテン・キリル文字とキリスト教(聖書)、アラビア文字とイスラム教(コーラン)、梵字系文字と仏教(経典)。
識字率が上がることで宗教権威の知識独占が崩れ、宗教改革が起こったりします。
なお、恋文のために文字が普及した文明があるらしいですw
西欧の宗教改革は活版印刷の発展により、聖書が広く一般にも読めるようになったためでした。
ただ、イスラム圏では識字率が上がっても宗教改革に繋がるのか、かなり難しいように思えます。教祖が「最後にして最大の預言者」なので、宗教権威の知識独占が崩れても宗教改革どころか、ISの様なイスラム主義者がこの先も台頭しそうです。
恋文のために文字が普及した文明ですが、必ずしもロマンばかりではなく自己宣伝の手段でもありました。恋文によってコネや社会的地位をゲットしたのだから結構醒めています。
こちらはネットで読んだ話ですが、おそらくミャンマー北部と思われる地方は「キリスト教徒」が多いのです。しかし、カルト化しており、民族紛争も絡まって混沌とした蛮地となっています。中途半端にヨーロッパ文明が入った結果か衛生観念も出鱈目ですし、やってくる「宣教師」も人格的に問題があり、宗教関連は体系的に導入しないと混乱を齎すだけだと感じました。なお、その地域はカトリックに対する敵意・蔑視があります。
戦国時代に来日した宣教師たちは福音書の邦訳に取り組んだそうですが、禁教の影響があるのか、文献は断片的にしか残っていないようです。それでも訳稿焼失の前後、その写本が各地の教会で読まれていたとか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8
以前プロテスタント棄教者の方から、「確かカトリックでは、聖職者の指導なしに個人で勝手に聖書を読み進めることが禁止されていたはず」というコメントを頂きました。第2バチカン公会議(1962-65)までは一般信者が直に聖書を読むことを、カトリックでは好ましく思っていなかったようです。
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/8972b67eadb9fbe193ac84dfc034dd55#comment-list
ミャンマー北部のキリスト教徒で検索したら、カチン族の記事がヒットしました。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/25758/20180705/myanmar-christian-kachin-people-60-churches-bombed.htm
ミャンマーのキリスト教徒ではカレン族が知られていますが、カチン族までいたとはややこしい。全員とは言いませんが、東南アジアに宣教に来る白人には結構小児性愛者が多いらしく、そのために「宣教師」になる者がいるとか。
日本のプロテスタントもカトリックに対する敵意・蔑視があり、ネットで悪口雑言を書き込む者もいます。そのくせマザー・テレサは布教にちゃっかり利用するから始末が悪い。
そうすると、戦国時代のカトリックはレベルが高い人間を日本に送り込んで来ていましたね。
また、山賊が出てガソリン運搬車を襲い、軍も手を焼いているとか、高等教育を行える言語ではないので貧しさから抜け出せないとか、武装していなければ身の安全が保てないとか、パキスタンや南米がマシに思えるレベルです。実際、欧州人でも低レベルすぎるここの生活には耐えられないそうです。音楽も単調な音を好み、複雑な音楽は駄目だとか。
ちなみに「カチン族」に関しては、子供の頃に読んだ子供向け戦争体験本に出てきました。著者の記す話が本当かどうか分かりませんが、カチン族は首狩り族とされていました。そして、その子供向けの本を、戦争体験者だった父が読んでいました(体験者と言っても徴兵を受ける年齢ではないです)。
ミャンマーに来たアメリカの「宣教師」はプロテスタントでしょう。ひと口にプロテスタントと言え弱小カルトも多く、教理がバラバラなのです。アメリカ本国でもこれがキリスト教?と言いたくなるようなカルトは少なくないようです。
対照的にカトリックは組織化されており、第三世界に伝道する前には現地語を学ぶそうです。ザビエルはじめ戦国時代に来日した宣教師は質が高かった。もし同時代にアメリカのような「宣教師」が来ていたら、全く相手にされなかったと思います。
韓国人「宣教師」も伝道に熱心ですよね。キリストの弟を称するだけで異端そのものですが、本当に韓国のキリスト教団体はカルトばかり。宣教先の少女に性的暴行する不届き者が後を絶ちません。
2007年7月、アフガンでタリバンによる韓国人拉致事件事件が起きましたが、これも韓国の宣教活動で現地入りした結果です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/2007%E5%B9%B4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%8B%89%E8%87%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
台湾の高砂族もかつては首狩り族とされていましたね。ならば多民族国家ミャンマーに同類がいても不思議ありません。
ttps://twitter.com/marukwamy/status/1451903101129003020
宣教師といえば、聖書に通じていると一般日本人は思っていますが、東南アジアに宣教にくる「牧師」は「アメリカン底辺クソ伝道師の縮小劣化版」ぞろいだった。
「お前は神の言葉を疑うのか?」など教条的ムスリムそっくり。