その①の続き
古代ギリシアでアテネと常に覇権を争っていたスパルタだが、後者と江戸時代の日本との比較は面白かった。二千年の時代差があり、西洋と東洋の地域差があるにかかわらず比較の対象にするのは、ただ一点のみの共通性にあるというのだ。それは社会の階層を固定化したことによって、三百年の平和を享受したという一点のみ。
ただし、環境は同じではなく、スパルタのサムライたちは対外戦争をせざるをえなかったが、日本のサムライはそれはしなくて済んだということである(41頁)、という箇所には思わず笑ってしまった。
尤もこの比較には少し異論がある。江戸時代の社会の階層を固定化とは士農工商制を指しているのだろうが、スパルタの奴隷階級であるヘロットがどれほど功績があったとしても、スパルタ市民になれただろうか?
対照的に日本では非武家階層にしばしば苗字帯刀が認められている。スパルタと違い日本は支配層と非支配層が同民族であり、スパルタの社会階層の固定化はインドのカースト制により近いのではないか。
アレクサンドロスと樽に住む哲学者ディオゲネスとの逸話も当然取り上げられ、「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語った話はよく知られている。しかし、著者はアレクサンドロスであることに自信を持っている彼が、このようなことを言うはずはない、と否定、こう述べていた。さすが大学時代に哲学科で学んだだけあり、感心させられた。
「おそらく、どこかの哲学者まがいがでっちあげ、権力者に文化の匂いがするや喜んでそれを特筆する癖のある、後の知識人が広めた話だろう」(199頁)
エジプトが支配者のアケメネス朝ペルシアに常に反抗的だったことへの説明も考えさせられた。著者はその背景に宗教を挙げている。ペルシア人が信仰するゾロアスター教を一神教と書いているのは正確ではないし、この宗教にも複数の神々がいる。
ただ、ゾロアスター教徒のペルシア王ではエジプト人の信じる神々の「子」にはなる訳にはいかない。これはエジプト人からみれば、自分たちの統治する正当な権利を持っていない支配者となる(290頁)、とあったのにはハッとさせられた。例証として後のローマによるエジプト支配を挙げ、エジプト人がローマを正当な支配者として受け入れたのは、ローマ初代皇帝が死後に神格化されたカエサルという「神の子」だったから。
それまで私はエジプトがペルシアに反抗的だったのは、当時でも古い歴史と高い文明を誇る前者が、騎馬が得意なだけの東方の蛮族とペルシアを見ていたこともある…と想像していた。しかし、宗教が問題だったというのは目からウロコだった。但しペルシアは異民族の宗教には寛容であり、元から民族宗教であるゾロアスター教を押し付けることはなかった。
ペルシア側もエジプト支配には気を使っていたはずだが、民族宗教がネックになっていればどうしようもない。著者のいうとおり、広大な国の統治は、軍事力や警察力だけでは絶対に長続きしないのだ。
ペルシアの王都ペルセポリスに入城したアレクサンドロスが、壮麗な王宮を炎上させている。逸話では酩酊した大王が遊女タイスに唆され、衝動的に火をつけたとされていたが、実際は意図的かつ計画的に行っている。ペルシア戦争時、アテネの都市全体を炎上されたことへの報復として。
尤もアレクサンドロスは、ペルシア戦争の“戦犯”であるペルシア王ダレイオス1世やクセルクセス1世の墓所には手を出さなかったそうだ。「生前の行為がどうあろうと、死者への冒涜行為には絶対に手を染めなかったのも、彼の性格なのだ」と著者は称賛している。
但し無血入城だったはずのペルセポリスでは、一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたことがwikiに見える。この酷い出来事は本には記載されてなかったが、やはり東征時にはこのような残虐行為がしばしば行われていたのだ。カエサルによるガリア戦争時と同様に。
その③に続く
◆関連記事:「ギリシアとペルシア」
「ギリシアの女、ペルシアの女」
江戸時代は鎖国しているワケで(一部例外を除いて)外国との交易はナイ。これは完全な『閉じた系』なのである。
侵略や略奪がナイ、よって今ある資源を有効活用するしかナイので ”リユース・リサイクル・リソーズ” が徹底している。ヒトが排泄したものはシステム的に "しもごえ" として肥料に還元され、育った野菜が市場に出回る・・・今の "全て下水に流す" システムより、よほど洗練されている。セトモノが割れれば ”焼き継ぎ” で再生、着物は次々と仕立て直す(カンタンに反物に戻る仕立て)、といったように"エコ"の考え方が徹底していた。
この ”安定したゼロ成長社会” というものこそ、人類が今後目指すべき道ではないかと思うのです。
江戸時代の日本が決して楽園だった訳ではありませんが、『究極のエコ社会』だったという説には同感です。これも鎖国でできたからこそ可能だったし、陸続きの大陸諸国では不可能だったと思います。
現代のグローバリズムには様々批判がありますし、鎖国とは正反対の社会観ですよね。しかし、地球規模でのグローバル社会が進む今、”安定したゼロ成長社会”の実現は難しいかもしれません。第三世界は安定しない国も多い。