トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

ルイ16世について想うこと その④

2018-01-27 21:40:21 | 読書/欧米史

その①その②その③の続き
 革命によりルイ16世の権威は損なわれたものの、フランス国民は国王への敬意をまだ失ってはいなかった。国王の権威や信頼が決定的に崩壊したのはヴァレンヌ逃亡が原因だった。フランス国王たる者が海外へ逃亡を図ったのみならず、外国の軍隊を率い進軍するつもりだったことが発覚しただけで、反革命行為と見なされて当然だろう。
 ヴァレンヌ逃亡に大いに尽力したのこそ、アントワネットの生涯の愛人フェルセンだったが、彼はルイ16世が1792年2月に語ったことを記録している。
私は機会を失った、それは7月14日だった。私は脱出すべきだった。私は逃げたいと思った。だが、どうにもならなかった(略)ついに機会を失ってしまった。残念だ

 1791年6月20日のヴァレンヌ逃亡から、ルイ16世が処刑されたのは僅か1年半ちかく後の1793年1月21日。しかし、彼が最後に真の王者に相応しい態度を見せたのは驚嘆させられる。一貫してルイ16世に厳しいツヴァイクさえ、こう述べている程。
いつもは耐えがたいその無感動が、決定的なこの瞬間にはルイ16世に一種の道徳的偉大さを与えるのである」「家族と別れるにあたって、情けないほどの弱虫、王らしからぬ王が、その一生に見せたことのない力と尊厳を実証したのである」(363頁)

 3年前にベルばらを再読した時にネット検索したら、「大人になってから読み直したら、むしろオスカル死後の方が面白かった」という意見を見かけたが私も同感だ。処刑前夜、ルイ16世がルイ=シャルルに語った台詞は泣ける。
ぼうや、よくおきき。とうさまは神のご意志で断頭台にのぼる。だからとうさまが死んでもけっして復しゅうをしようなどとは考えないと約束しておくれ。わかりましたね。それがとうさまの最後のお願いだ。さあ…とうさまの最後のお願いを守ってくれると手をあげて誓いなさい

 涙ながらに手をあげて父の願いを誓う7歳の息子の姿は痛ましい。尤もベルばらには描かれていなかったが、父の死から2年半後に僅か10歳で病死したのだから、この誓いも無駄に終わった。
 断頭台に登った時の最後は正に“漢”だった。ルイ16世が参考にしていたチャールズ1世が自分自身のことしか言わなかったのとは好対照。
わたしの国民たちよ。わたしは罪なくして死んでゆく。しかしわたしを殺そうとする者たちをわたしはゆるそう。わたしの血が祖国フランスの幸福の礎(いしずえ)とならんことを‼

 マリー・アントワネットはよく“悲劇の王妃”と云われるが、“悲劇の王”とルイ16世を呼ぶのはまず聞いたことがない。歴史を記すのは殆どが男性なので、やはり同性への見方は厳しいのだろうか?ベルばらにあるフェルセンとの最後の会見で、国王が言った言葉は考えさせられる。
わたしは知っている…亡命した貴族たちがわたしのことを決断力のない腰ぬけだとせめているのを。安全な場所から人を非難するのはたやすいことだ。いままでだれもわたしとおなじ立場にたたされた者はいなかった。いまやわたしは世界中から見すてられてしまった…

 ツヴァイクが何度も非難したように、やはりこの人物は国王や統治者には相応しくなかったのだ。確かにフランス革命という世界史史上稀な出来事に遭遇したのは悲運だったが、予測できないことが起きるのが政治の世界なのだ。平時であっても支配者たる者は、安全な場所からの非難に常にさらされる。批難に耳を傾けることも時に必要でも、聞きすぎるのは無用である。ルイ16世の嘆きは善良な小市民の感覚にちかい。
 もちろん同情の余地ならあまりにもあり過ぎる。元から国王にはなりたくなかったのに、生まれた家と夭折した兄のため、フランス国王に就かざるを得なかった。もし兄が生きていれば王になることもなかったし、革命が起きても外国に無事に亡命できただろう。

 善人だったのは間違いないルイ16世。その善良さが墓穴を掘ってしまったのは悲劇としか言いようがない。池田理代子氏もインタビューでは結婚するなら理想の夫と話していた。何しろ金持ちで優しいし、愛など何時かは醒める、と。この現金さには私も禿同と言いたくなる。
 現代の立憲君主制の国に生まれていれば、庶民的な王様として人気を集めたかもしれない。古い歌謡曲で恐縮だが、天知茂の「昭和ブルース」の歌詞「生まれた時が悪いのか、俺が悪いのか」を思い出してしまった。
■参考:「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク著、関楠生訳、河出書房新社)
「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」(加瀬俊一著、文藝春秋)

◆関連記事:「マリー・アントワネットの子供たち

よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る

98 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Re:無感動 その2 (mugi)
2022-01-30 22:04:26
>スポンジ頭さん、

>>それにしても、国王が家族を非常に案じている話をツヴァイクは一切書きませんでしたね。

 いくら王妃の伝記にせよ、この話が全く出ていないのは不可解です。革命前に王太子が病死した時は国王も悲しみに沈んでいたのに、国王の子煩悩さを書くと、「無感動」の設定が崩れるから?と勘繰りたくなりますよ。
 いくら無気力無感動でも、死刑になるかもしれない重圧は堪えるだろうし、国王の描写がとにかく雑すぎますよね。

>>逆に信仰心が政治や革命に対処する際の足枷になった事を考えると複雑な心境です。

 ルイ16世は国王よりも聖職者になるべき人物でしたね。尤も聖職者も革命時には信仰心があるほど、大変な受難を被りました。動乱期でもタレイランのような破戒僧は世渡りが巧みです。
返信する
無感動 その2 (スポンジ頭)
2022-01-30 10:42:21
> 死刑判決を受け、家族との最後の別れをした後では心身ともに憔悴するのは当然でしょうね。

 第一回目の死刑評決後、国王はクレリーに対しても家族の運命について心配する話をしていました。でも、あんな結末は予想していなかったのではないでしょうか。それにしても、国王が家族を非常に案じている話をツヴァイクは一切書きませんでしたね。

 クレリーによると、国王は裁判の最中に一切不平不満を漏らさなかったといいますが、これも、無気力無感動なのでしょうか。死刑になるかもしれない重圧はかなりな物の筈ですが。

>敬虔な信者だと処刑前でもこのような心境になれるとは、不信心者には驚くばかりです。

 初詣を行い、お盆はお寺に行く私にもこの心境は分かりません。信仰していてよかった、と国王は発言していましたが、逆に信仰心が政治や革命に対処する際の足枷になった事を考えると複雑な心境です。国王がヴァレンヌ事件に賛成する理由になったのは、カトリックの僧侶への政府の圧力ですし。タレイランのように、最後にちゃっかりと神と和解する方法が一番効率的だと、信仰心皆無の人間は思います。
返信する
Re:無感動? (mugi)
2022-01-29 22:42:21
>スポンジ頭さん、

 死刑判決を受け、家族との最後の別れをした後では心身ともに憔悴するのは当然でしょうね。そのような状況を省けば処刑前にぐっすり寝たり、食欲が衰えない等の描写では、最後まで無気力鈍感な人物だったという印象を読者に与えます。
 敬虔なカトリックと言われた国王ですが、フィルモン神父の記録からも本当に信仰が心の支えだったことが伺えました。敬虔な信者だと処刑前でもこのような心境になれるとは、不信心者には驚くばかりです。

 国王にとって最後まで残された家族のことは気がかりだったはず。現にルイ・シャルルは非業の死を遂げているし、妹も処刑されました。唯一生き残ったマリー・テレーズもとても幸福な生涯とは言えません。
 何故ツヴァイクが神父の記録を嘘だと一蹴したのかは不明ですが、そうでもしなければ「無感動」な人物という設定が崩れるからだった?

 死刑の評決の後、返って国王のほうが動揺せず、マルゼルブやクレリーを励ましていたことには泣けますよ。殆ど聖人のようです。これもツヴァイクにかかれば“無感動”ゆえとなるのでしょうけど。
返信する
無感動? (スポンジ頭)
2022-01-29 11:26:58
>処刑前にぐっすり寝たり、食欲が衰えないといった描写は、国王の無気力鈍感さを強く印象付けるはず。

 処刑場に同行したフィルモン神父も記録を残しているのです。別れが済んだ後12時半まで話をするのですが、その際は疲れている様子だったとか。ぐっすり寝るのは当たり前ではないかと思いました。あと、国王が起床して神父とともに祈りを捧げた際、信仰が心の支えで死も心地よく思えると国王が言っていたそうです。このような考えなら食欲も落ちませんよ。

 また、神父によると、家族との最後の別れの前に神父へ向かって国王は遺言状を読み上げるのですが、家族に関するところでは涙を流しながらも、自分に関する部分では一切何の感情も示さなかったとか。最後の別れから国王が戻ってきた際はかなり興奮して心を乱している様子だったとの事です。自分より家族の事を考えていたのがよく分かります。これのどこが無感動なのか、理解に苦しみます。ツヴァイクが神父の記録を嘘だと見做していても、マリー・テレーズの記録はところどころ使用していますし。

> しかし、クレリーの記録が正しいとすれば、動揺するマルゼルブを落ち着かせようとしているだけで、無気力鈍感とは正反対の人物像が浮かび上がります。

 マルゼルブは嗚咽して国王の足元に身を投げ出し、しばらくは口もきけなかったそうです。それに対して国王はマルゼルブを立たせると抱擁し、落ち着かせようとしたのでした。そして、マルゼルブが死刑の評決(第一回目)を伝えた際にも国王は一切動揺せず、逆に慰めていたとか。国王は8月10日事件で閲兵の際、本当に聞き苦しい演説をしたのでしょうか。とても同一人物とは思えません。

 マルゼルブが帰ったあと、ショックで心を乱しているクレリーを見て今度は国王が青ざめます。国王の様子を見て更に心が刺激されたクレリーが倒れそうになり、国王が彼の両手を強く掴んで「さあ、元気を出して!」と励まし、彼は倒れずにすみました。マリー・テレーズの記録でも、国王処刑後のクレリーは取り乱しているので、国王一家と会わせて貰えなかったそうです。クレリーにとっては本当にいい主人だったのでしょう。
返信する
Re:最後の別れ その2 (mugi)
2022-01-24 22:02:10
>スポンジ頭さん、

 司法大臣の死刑宣告時には本当に顔色も表情も一切変えなかった理由は不明ですが、単に「無感動」と片付けるにはあまりにも安易です。やはり物事に動じない国王の気質があったのやら。

 私も初めてツヴァイクを読んだ時、ひたすら無気力鈍感な人物の印象しかありませんでした。処刑前にぐっすり寝たり、食欲が衰えないといった描写は、国王の無気力鈍感さを強く印象付けるはず。
 しかし、クレリーの記録が正しいとすれば、動揺するマルゼルブを落ち着かせようとしているだけで、無気力鈍感とは正反対の人物像が浮かび上がります。

 最近は従来の国王像は見直されてきたかもしれませんが、未だにツヴァイクのつくり上げた「無感動」国王のイメージが強いでしょう。
返信する
最後の別れ その2 (スポンジ頭)
2022-01-24 00:01:41
 司法大臣の死刑宣告時には本当に顔色も表情も一切変えなかったのです。司法大臣が訝しんだと言う記録が残ってます。この時点で「無感動」と言うなら分かります。廃位を告げられた際も同様な態度ですが、ツヴァイクはこちらの場合は否定的に書いていました。ただ、死刑宣告時の態度に対して否定的な書き方はしづらいですから、死刑宣告時の様子を採り上げることはできないでしょう。

>このエピソードのひとつでも入れたら、国王への印象はかなり違ってくるはずです。

 ツヴァイクを読んだ人が、国王の事を愚鈍で鈍い人物だとネットで書いていました。確かに、ツヴァイクの書き方ではひたすら無気力鈍感な人物像です。
 国王が死刑判決を告げられた日より前ですが、クレリーの記録によると第一回目の死刑評決が出た際、国王は動揺するマルゼルブを落ち着かせようとしていて、イメージが全く異なるのです。

 処刑当日は、別れるのが辛いとマリー・アントワネットに伝えるよう涙を流しながら指示して、クレリーに結婚指輪を渡してます。しかし、ツヴァイクの描写はぐっすり寝たことや相変わらず食欲旺盛だった話しかありませんね。それにしても、長年不倫している妻と別れるのが辛い、と言うのも珍しいでしょう。
返信する
Re:最後の別れ (mugi)
2022-01-23 21:53:18
>スポンジ頭さん、

 家族との最後の別れで国王は涙を流していたのは当然だと思いましたが(ベルばらでも涙を流してます)、ツヴァイクは例によってスルー。涙を流し王妃に結婚指輪を渡す話も書かない。このエピソードのひとつでも入れたら、国王への印象はかなり違ってくるはずです。
 ここまで「無感動」な人物に仕立て上げたツヴァイクの心理こそ不思議です。

>>マリー・テレーズの回想録によると、父親は「すっかり変わっていた」との事です。

 変わってなければ、余程の「無感動」です。ストレスといった生易しいものではなく、神経が完全に狂ってもおかしくない重圧を受けていました。それでもツヴァイクの筆にかかれば、最後まで「無感動」だったという印象です。
返信する
最後の別れ (スポンジ頭)
2022-01-22 12:37:17
 マリー・テレーズが言うには、最後の別れで国王は涙を流していたといいます。また、クレリーが言うには、処刑当日、結婚指輪をマリー・アントワネットに渡すよう自分に命じた際に涙を流していたそうです。最後の別れで「無感動」だったようなツヴァイクの書き方は不思議です。確か彼は最後の別れに関して書かれた報告書は信用できないと評していましたが、ならば自分自身が記した最後の別れの場面は何に基づいているのか、と。

 マリー・テレーズの回想録によると、父親は「すっかり変わっていた」との事です。どのように変わっていたのか具体的に記されていないのですが、ストレスでやつれていたのでしょうか。
返信する
Re:遺骨発掘 (mugi)
2021-07-25 22:16:01
>スポンジ頭さん、

 古い墓の掘り起こしで、泥土が悪臭を発していたというお話は興味深いですよね。昔は土葬が多かったので、このようなケースは少なくなかったかもしれません。火葬が一般的になっている現代日本人にはもう想像できないでしょう。
 一応国王夫妻の遺体には生石灰がふりかけられていたそうですが、他の死体なら迂闊に掘り起こすと悪臭を発したかもしれません。

 いかにお上の命令と言え、国王夫妻の墓の発掘者は本当に大変でした。若くて処刑を見物していなかった世代なら動じないかもしれませんが、リアルタイムで革命を体験していたのであれば複雑な心境だったと思います。 
返信する
遺骨発掘 (スポンジ頭)
2021-07-25 01:03:38
 永井荷風が森鴎外の墓参りをする話があるのですが、鴎外の墓所近くで古い墓の掘り起こしがあり、泥土が悪臭を発していたと記載していました。夫妻の遺骨発掘に王族が立ち会わなかったのは、このような事があるからでしょうか。映画などでも視覚に訴える描写はありますが、嗅覚に訴える描写はあまりない気がします。

 …いずれにせよ、労働者は大変だったでしょうし、ある程度の年齢の労働者なら夫妻の処刑場面も見ていたはずですが、自分たちが熱狂してその処刑を見物した人物の発掘に関してどのように思っていたのでしょう。
返信する
Re:二人の遺言状 (mugi)
2021-04-22 22:16:03
>スポンジ頭さん、

 国王の手紙で塗り潰した箇所は今の科学では解読できなくても、将来は可能になるかもしれません。他にも解読で新たな史実が判明するでしょう。

 マリー・アントワネットの遺言状を改めて読み直しましたが、ちゃんと子に復讐を禁止していましたね。次はその個所から引用です。
「むすこが父の最後の言葉を決して忘れませんように。用心のために繰返せば、私たちの死の復讐をしようなどという気を決して起こさないように、ということなのです……」

 他にも夫と同じようなことを書いています。
「私は使徒の教えによるローマカトリックの信仰を抱いて死んでいきます」
「私の敵のすべてには、彼らのおかげでこうむったすべての禍を許します」

 このような心に来る個所をすっかり忘れていたのも、私が不信心な異教徒日本人だからでしょう。ツヴァイクも国王が亡命した弟たちを手紙で非難していたことを紹介していましたが、「恩知らずの行動をした人間」の具体名を挙げれば、弟も含め相当な数になったかも。
返信する
二人の遺言状 (スポンジ頭)
2021-04-21 21:21:05
> 塗り潰した箇所に何が書かれていたのか、いささか気になります。

 政治的な話ではないでしょう。妻の運命に関することだったので、塗りつぶしたのかもしれません。何しろ子どもたちにマダム・エリザベートを第二の母親として見るよう言っていますから。フェルセンとマリー・アントワネットの手紙の場合は手紙を書いたインクと塗りつぶしたインクに含まれる物質の違いを分析して解読しましたが、こちらは同じインクですから、その手法も使えなさそうです。

>そしてマリー・アントワネットも遺言状で息子に復讐を禁止していたのですか。

 遺言状で夫の言葉を引用して復讐しないよう言ってませんでしたっけ。しかし、この遺言を読んだのは娘だけなのですよね。マリー・アントワネットの遺言状をツヴァイクは評価していましたが、国王の遺言状はどうだったのでしょう。個人的には最初に読んだ際、かなり心に来るものがありましたけど。

 それにしても、国王が遺言状で書いた「恩知らずの行動をした人間」、の中には愚弟たちも入っている気もします。亡命した弟たちが勝手な行動をするのに対し、非難する手紙を送っていましたから。
返信する
Re:マリー・テレーズ (mugi)
2021-04-19 22:23:19
>スポンジ頭さん、

 塗り潰した箇所に何が書かれていたのか、いささか気になります。もしかすると現代の科学では解明できるかも。そしてマリー・アントワネットも遺言状で息子に復讐を禁止していたのですか。夫ほどではなくとも、彼女も敬虔なカトリックだった?

 タンプルで良くない振舞だった人に対し、マリー・テレーズがどう対処したのか興味深いですね。復讐されずとも彼らは怯えていたと思います。シモンの未亡人もさぞ怖かったはず。
返信する
マリー・テレーズ (スポンジ頭)
2021-04-18 12:32:07
>3番目のリンク先では訂正箇所がありましたが、これがマリー・アントワネットに言及する箇所だったのでしょうか。

 そうです。単なる書き直しなら線を引けばいいのですが、塗り潰してあるので、表現に気を遣ってそのようにしたのだと思います。

> 国王はまさか息子が早死するとは思っていなかったのでしょう。

 マリー・アントワネットも遺言状で息子に復讐を禁止していましたから、夫婦とも同様に思っていたのですよね。

>娘に対して息子と同じく復讐の禁止、世話になった人々やその子供たちへの責務を説いていたら、彼女の人生に少なからぬ影響を与えていたかもしれません。

 マリー・テレーズはカンパン夫人がナポレオンの身内の教育をしていたので縁切りしてしまいましたが、ウィキによると、トゥルゼル夫人の娘やその夫、彼らの息子には宮廷に来るように言い、タンプルで良くしてくれた人には年俸を与え、その息子にも近衛兵の職を世話したそうです。

 また、かつて弟を預かったシモンの未亡人がフランスに帰国した際にまだ生存していたので、弟のことを調べに訪問したのだそうです。言いたいことが山ほどあったでしょうね。
 しかし、シモンの未亡人にしてみれば、白色テロを扇動した上に権力者として来る人物がかつて幽閉されていた際、自分の夫が監視していた上、その弟の幽閉に極めて深く関わっていた、とあっては気もそぞろになっていたのだろうと思います。
返信する
Re:遺言状の画像 (mugi)
2021-04-17 22:19:52
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 国王の遺言状はフランスの国立公文書館に保管されていましたか。たぶん王妃のそれも国立公文書館に保管されているのでしょう。

 遺言状の画像から国王はとても達筆ですよね。達筆と言っていたツヴァイクの評価は正しかった。3番目のリンク先では訂正箇所がありましたが、これがマリー・アントワネットに言及する箇所だったのでしょうか。

 国王はまさか息子が早死するとは思っていなかったのでしょう。娘に対して直接の言及が殆どなかったのも、それが原因のひとつだったかも。娘に対して息子と同じく復讐の禁止、世話になった人々やその子供たちへの責務を説いていたら、彼女の人生に少なからぬ影響を与えていたかもしれません。
返信する
遺言状の画像 (スポンジ頭)
2021-04-17 02:35:57
 こんばんは。

 遺言状の画像です。フランスの国立公文書館に保管されているものです。200年以上経過しているからか、画像の関係かいささかインクが薄くなっていますが、こんな感じです。また、遺言状では息子に対してかなりな量の言及をしていますが、マリー・テレーズに関しては直接の言及は殆どありません。やはり当時だと公の行動の主体は男性になるので、そのような結果になったのかと思いました。

https://servimg.com/view/18669219/3809
https://servimg.com/view/18669219/3810
https://servimg.com/view/18669219/3811
https://servimg.com/view/18669219/3812
返信する
Re:遺言状 その4の2 (mugi)
2021-04-13 22:37:12
>スポンジ頭さん、

 タンプルでも生来の無感動のため、返って宮廷時代よりも平穏に暮らしていたかのようにツヴァイクは描いていました。
 しかし、仮にも国王だった人物が激変した環境に動じなかったはずはないし、真っ当な感情を持ち合わせていました。自分や家族のことだけで精一杯のはずなのに、周囲や尽くしてくれた人々まで気遣っているのは、改めて素晴らしいと感心させられます。

 あの遺言状がもっと知られるようになれば、ツヴァイク伝への見方も変わってくるでしょう。親族や周囲の愛情が薄かったにも関らず、これほど慈愛ある人物になったのか本当に不思議です。もし外貌に恵まれていれば性格や人生、フランスの歴史も違っていたかも。

 確かにマリー・アントワネットの遺言状は対照的ですよね。遺される子供たちへの思いはあっても、息子には人にどう振舞うべきか一切書かれていません。息子が引き離されていたことも影響していたのやら。
返信する
遺言状 その4の2 (スポンジ頭)
2021-04-12 22:07:01
>「耐えがたいその無感動」のために処刑を平然として受け入れた印象の強いツヴァイク伝ですが、あの遺言状はそのイメージを根底から覆しますよ。

 タンプルでは無自覚・無感覚に暮らしていたような描写でした。しかし、人の態度に傷ついたり、感謝したり、ちゃんと真っ当な感情を示しています。大体、当人が不当な扱いを受けていると思っているにも関わらず、周囲に感謝しているのは立派と言えますが、何故かツヴァイクは触れません。それに、「私のために不幸になった人々の子供や親に対して私が神聖な負債を負っている事を忘れないように。」とは表現として直接的に言うのを避けているにせよ、要するに亡くなった人間の事で、彼らの親や子供に感謝し援助するように、と言う要請ですよね。ツヴァイクが国王の人間味の表現をここまで避けるのが本当に不可解です。遺言状の中身とツヴァイクの描写があまりにも違いすぎます。

 そして、両親や周囲の愛情が乏しかったにも関わらず、ここまで人の事に気を配れる人格を持つ事ができたのは驚きです。本当に外見で大損をしてますよ…。ルートヴィヒのような容姿があれば…。

 ただ、マリー・アントワネットは遺言状で息子に感謝の気持を人に伝えたり、面倒を見たりするよう書いていませんでしたが、あれは息子の置かれている状況が悪化したからなのでしょうか。
 
返信する
Re:遺言状 その4の1 (mugi)
2021-04-11 22:13:47
>スポンジ頭さん、

 フェルセンの様な王党派貴族はともかく、革命家さえあの遺言状を読めば人間として、父親として心に感じるものがあると思います。感想を口には出来ないにせよ、預かった役人も同じ思いだったでしょう。

 現代から見ればルイ・シャルルが国王になれるのは不可能だと分かっていますが、ちゃんと王政復古で弟たちが国王になっている。もしシャルルが生きていれば、王になるのはぼぼ確実だと思います。例え全文を読まなかったとしても、愚かという見方こそおかしい。フェルセンを持ち上げている某女史ですが、こちらの描き方も偏っているようですね。

「耐えがたいその無感動」のために処刑を平然として受け入れた印象の強いツヴァイク伝ですが、あの遺言状はそのイメージを根底から覆しますよ。ベルばらでも家族は号泣していましたが、実際には部屋に引き上げた後でも泣き叫んでいた。何とも悲しいエピソードです。

 やはり国王の従僕頭や取り次ぎ係は逮捕されていたのでしたか。そしてクレリーも逮捕されるのだから、ガマンが裏切るのは無理もありません。王妃にも監視側であっても味方になった人たちがいたのは幸いでした。

>>善人や幼い子供にフランス王家の矛盾が降りかかるのは何とも理不尽です。

 革命には理不尽さが付きまといますが、とりわけ犠牲になるのが善人や幼い子供なのはやり切れません。リヨンやヴァンデでも同じでした。そして生き残るのが国王の弟たちやタレイラン、フーシェのような連中。
返信する
遺言状 その4の1 (スポンジ頭)
2021-04-11 01:31:45
> 遺言状の最後の部分は見事としか言いようがありません。

 国王の遺言は家族への思いと、人に対する感謝と許しです。フェルセンが遺言状を「見事」と表現していても不思議ではありません。でも、国王の遺言はマリー・アントワネットと比較して知られていないのが残念です。遺言状自体はマリー・アントワネットに渡そうとしたのですがタンプル塔の役人に拒否され、役人が預かる事になりました。以前ユーチューブを見ていたら、フランスで王党派(?)の俳優(?)が朗読していました。

 前も書きましたけど、某女史はルイ・シャルルが国王になるための心構えを説いている部分で、国王になれると思っていたから愚か、と言わんばかりの文章を記していました。しかし、これを愚かというなら、息子に人の面倒を見るよう、恩返しをするよう、感謝するよう述べているのも同様です。だから、某女史は全文を読んだことがないのだと思ってます。

 ついでに、斜め読みした本によると、フェルセンは妹への手紙で「断頭台を登っている国王の姿が目から離れない」と言う意味の事を記しており、フェルセンも国王を軽んじていなかったのが分かって安心しました(某女史の本だと軽んじていたようにしか見えない)。

>素朴な文章からも人柄が伝わってきますが、完全にスルーしたツヴァイクは本当に罪作りです。

 「いつもは耐えがたいその無感動」を最後の別れでも発揮した事になってますが、この遺言を公開するとその描写が弱くなりますから。最後の別れを外から見ていたクレリーによると、何を言っているかは分からないものの、国王が何か話す、家族が泣き叫ぶ、落ち着いたところでまた国王が話す、そのような状態だったそうです。
 最後の別れの後、家族は部屋に引き上げたものの、それでもドア越しに泣き叫ぶ声が聞こえてきたとクレリーは記録していて、「マリー・アントワネットにとって最も悲しい場面だった事は間違いない」どころではないよなあ、と言う感じです。

> ド・シャミーとユーの両氏の両氏の名は初耳ですが

 彼らは従僕です。もともとド・シャミーは国王の従僕頭でユーは取り次ぎ係、タンプル塔でそれぞれ国王とルイ・シャルルに仕えることとなりましたが、逮捕され監獄送りとなりました。だからクレリーが従僕の中心となったのですが、彼も国王に仕えている最中に逮捕され、もう政府の行動は無茶苦茶です。

>監視側にも「繊細で思いやりのある人たち」がいたことはせめてもの救いです。

 マリー・アントワネットの味方になったトゥーランの名前もクレリーの記録に出てきます。クレリーは彼を警戒していたのですが、いつの間にか王家に寝返っていたのした。

>もしあの世で息子の死を見られたとすれば、その心痛は如何ばかりだったことでしょう。

 クレリーに自分の処刑後息子に仕えてくれるよう言うのですが、これも無駄。「胸も引き裂けんばかり」で神の試練と考えるでしょうが、善人や幼い子供にフランス王家の矛盾が降りかかるのは何とも理不尽です。
返信する
Re:遺言状 その4 (mugi)
2021-04-10 22:32:07
>スポンジ頭さん、

 シモンがルイ・シャルルの「教育係」になったのは、エベールの後押しがあったことをツヴァイクも書いていましたよね。革命政府にも「教育方針」に反対する人間がいたのは結構でも、実行されなかったのは悲劇でした。当時の十代は今より成熟していても、近親相○の取り調べに立ち会わせるのは酷すぎる。

 遺言状の最後の部分は見事としか言いようがありません。人は見かけによらずと言いますが、肖像画での印象とこの文章のギャップには驚くばかり。素朴な文章からも人柄が伝わってきますが、完全にスルーしたツヴァイクは本当に罪作りです。
 ド・シャミーとユーの両氏の名は初耳ですが、彼らも連座して幽閉生活を送ったのでしたか。監視側にも「繊細で思いやりのある人たち」がいたことはせめてもの救いです。

 彼らに感謝の気持ちを伝えるよう、これほど息子に訴えていたにも関らず、それは叶えられませんでした。もしあの世で息子の死を見られたとすれば、その心痛は如何ばかりだったことでしょう。
返信する
遺言状 その4 (スポンジ頭)
2021-04-09 22:50:20
> ツヴァイクの伝記にもシモンの手紙が引用されていましたね。このような粗野な人物がルイ・シャルルの「教育係」になるのだから、革命は非情です。

 流石に革命政府にも「教育方針」に反対する人間が出ましたが、エベールが強行したのです。ロベスピエールもこの辺りには気を配って欲しかった。子供を置く環境ではありませんよ。そして、マリー・テレーズが次に弟に会う時は近親相○の取り調べです。

> ガマンが毒殺されると思い込んでいたことは知りませんでした。

 これがなければ、裁判沙汰にならずに国外追放で済んだかもしれません。実際タンプル塔に幽閉された当時は裁判や死刑の話は出ていなかった訳で。

 そして、遺言状の最後の部分です。以下引用。

「私は、真の愛着と無私を示してくれた人々に、感謝の気持ちを示すことができるようになりたいと思います。一方では、本人あるいは彼らの親戚や友人に対して好意以外に示したことのない人々に忘恩や裏切りの態度を取られたときは本当に堪えました。しかし、他方では、多くの人々が私に示してくれた愛着や無償の好意を見て、私は慰められてきました。このような状況だからこそ、彼らには感謝の気持ちを受け取って欲しいと思います。私は彼らに感謝の気持ちを伝えたいのですが、今の状況では、私がもっとはっきりと話すと彼らを危険にさらすことになる。だから特に息子に頼む。折を見て彼らに感謝の気持ちを伝えるように。

私が息子にド・シャミーとユーの両氏の事をはっきり頼んでおかなければ、私は国民の感情を逆なですることになると思う。彼らは私への真の献身ゆえに私と共にこの悲しい幽閉生活を送り、その不幸な犠牲者と見做されていた。また、また、最後まで私と一緒にいてくれたクレリーの事も頼む。彼と一緒に暮らすようになってから、彼は献身的に世話をしてくれた。彼こそ最後まで私と共にいてくれた。コミューンのメンバーには、私の服、本、時計、財布、その他コミューン評議会に預けられている小物類をクレリーに渡してくれるようお願いします。

私を見張っていた人たちが、私に対してするのが当然と思ってやったひどい扱いや苦しみを、私は今でも喜んで許します。私は、繊細で思いやりのある人たちを見つけましたが、これらの人々は、彼らのものの考え方からくる冷静さが備わっています。

マルゼルブ、トロンシェ、ド・セーズの三氏には、私のために被った苦労と苦痛に対する私の感謝と感激をどうか受け取って欲しいと願います。

私は神の前に次のことを宣言し、神の前に出る準備をして終わります。私に問われているどのような罪も避難される謂れはありません。タンプル塔で二通作成。1792年12月25日。

ルイ」

以上です。

 正直、この遺言状を書く人物のどこが鈍感無感動なのか本当に分かりません。周囲の態度に相当参っていたものの、逆にこんな境遇でも支えてくれる人々に感謝する内容です。ツヴァイクは処刑日にぐっすり寝たとか、食欲は全く変化がなかった(ネットで読んだ話だと6,7人前)、とか、そう言う話だけ具体的に記していますが、王妃に関する部分さえ遺言状を紹介しなかったのは、彼の描き出す国王像と矛盾が生じるからだと思っています。
 しかし、肖像画を見ると暗君にしか思えない人物がこのような文章を書けるのは、意外と言えば意外です。
返信する
Re:遺言状 その3の1 (mugi)
2021-04-09 22:06:38
>スポンジ頭さん、

 フーシェの最初の妻は不倫をしなかったと思いますが、後妻は地位と金銭目当てで結婚したため、夫を裏切るのにためらいはなかったでしょう。それにしても伯爵令嬢でしたか。革命前からフランスは不倫は文化の国だし、後妻が特に淫奔という訳ではないかも。

 本当にオーストリアの大公との結婚が実現していれば、マリー・テレーズのその後の人生だけでなく、フランスの歴史も違っていたかもしれません。革命時のトラウマは生涯消えなかったにせよ、安楽な暮らしが送れたはずなのに残念です。

 ツヴァイクの伝記にもシモンの手紙が引用されていましたね。このような粗野な人物がルイ・シャルルの「教育係」になるのだから、革命は非情です。

 兄が内政外政でとても苦労しているのに、弟2人は国王になれば特権の頂点に立てると思い込んでいたようですね。だから王になるのは不幸とは思わず、王位を狙っていた。しかし王位に就いた時は時代は変わっていて、こんなはずではなかった……と戸惑ったことでしょう。
 ガマンが毒殺されると思い込んでいたことは知りませんでした。フランス宮廷では毒殺が横行していたという話がありますが、単なるうわさ話ではなかったのかも。

 王妃の裁判でも出鱈目な証言が多かったし、特に近親相○証言はその最たるものでした。端から死刑ありきの仕組まれた裁判だったため、非常識な証言でも取り上げたと思います。
返信する
遺言状 その3の1 (スポンジ頭)
2021-04-08 21:54:51
 フーシェは確かに愛妻家ですが、再婚の場合はお互い欲得ずくです。再婚相手の伯爵令嬢は相手の地位と金銭、フーシェは保身のためです。しかし、今回はフーシェの計算が外れ、警察大臣を解任され、ドレスデン公使としてドレスデンに転出した後追放です。メッテルニヒやウェリントンからも完全に見放されていました。

>マリー・テレーズが息子を産んでいれば歴史はまた変わっていたかも。

 本当に運が無いですよね。オーストリアの大公との結婚話もありましたが、これが実現していたら安楽な人生を送れ、子孫も持てたと思います。

 ルイ・シャルルを預かったシモンも出鱈目ながらも文章は書けました。シモンの事をクレリーは悪く書いていますが、王妃やマダム・エリザベートの評判は悪くなかったそうです。まあ、シモンの言葉をクレリーは一部伏せ字にしているので、粗野な言葉遣いの人間だったのは確かですが。

>国王になることは不幸と捉えているのは興味深いですが、これが先王であれば不幸とは思わなかったでしょう。

 愚弟二人も不幸とは思わなかったでしょう。でも、彼らが王になった時代はもはや貴族だけで政治をする時代ではなかったのです。

 ガマンの場合は不幸な誤解がありました。彼は毒殺されると思い込んだのです。王妃はガマンを警戒していたそうですが、国王は古くからの付き合いですから疑いませんでした。これに関して国王の不徳を言う人がいましたが、当人が同じ立場に置かれた場合、国王よりマシなっ行動をできるとは思えません。

>王党派と見られるのを恐れ、保身で嘘を述べた者も多かったと思います。

 マリー・アントワネットの裁判でも近親相○以外に無茶苦茶な内容の物があり、裁判の品格を下落させていましたね。でも、非常識な証言を取り上げる方もどうかと思いますが。
返信する
Re:遺言状 その3 (mugi)
2021-04-05 22:20:50
>スポンジ頭さん、

 フーシェは大変な愛妻家でしたよね。それでも妻に裏切られている。彼の最大の罪は弑逆や政敵への謀略よりもリヨンの虐殺でしょう。それでも子孫は公爵だから恵まれています。ルイ16世は子孫を残せませんでしたが、マリー・テレーズが息子を産んでいれば歴史はまた変わっていたかも。

 私も革命期のフランスの識字率は知りませんが、既に革命前、大量に印刷された王室誹謗のビラや風刺画を市民が見ていたので、意外に低くはなかったかもしれません。たとえ平民でも国王に仕える従僕ならば、ある程度の教養が求められたと思います。

 息子への言及で、「息子に勧告する」の言葉が2度使われていますよね。国王になることは不幸と捉えているのは興味深いですが、これが先王であれば不幸とは思わなかったでしょう。本当に生まれた時代に恵まれなかった。

 落ち目になれば従者でも離れていきますが、ガマンまでもが鉄の戸棚を密告したことは初めて知りました。それでも「不安や混乱の時代には、人はしばしば自制できない」と擁護していることに、改めて感心させられます。やはり国王よりも聖職者に向いている人物でした。

 宮殿の使用人たちが国王裁判で出鱈目な証言をしたというクレリーの記録ですが、当たらずとも遠からず、だったかもしれません。王党派と見られるのを恐れ、保身で嘘を述べた者も多かったと思います。まさに不安や混乱の時代には、人はしばしば自制できないのだから。
返信する
遺言状 その3 (スポンジ頭)
2021-04-04 12:32:52
>美徳の不幸とは小説の世界だけではありませんね。

 一応フーシェもリヨンの虐殺の罰を受けることもなく、子孫は公爵です。もっとも彼はフランスを追放されて異郷で没しましたが。再婚した妻にも不倫されましたし。弑逆はまだしも、リヨンの虐殺は非常にまずいと思います。

 「幽囚記」を読み直したら、クレリーが写しを作っていました>遺言状 だから、遺言状が公開されていなくてもクレリーが話すことはできますね。しかし、クレリーは平民でも読み書きができる階級だったのですが、貴族や聖職者を除いた当時の識字率はどの程度だったのでしょう。国王は処刑当日にクレリーが今後も王妃に仕えられるように役人たちに依頼していたのですが、彼もタンプルを去り、後に逮捕されます。彼がタンプルにいられたら、ルイ・シャルルももう少しマシな待遇だったかもしれないと思うと悲しいものです。

 そして、息子への言及です。以下、引用。

「息子に勧告する。息子が不幸にも国王になることになったら、すべては同胞の幸せのためにあることを忘れず、すべての憎しみや恨みを忘れ、特に私が経験している不幸や悲しみに関係することはすべて忘れなければならない。王は法律に従って統治することによってのみ国民を幸せにすることができる。が、同時に、王は必要な権威を持っていなければ国民に法律を尊重させ、自分の心にある善を行うことができない。そうでなければ、自分の活動に縛られ、少しも尊敬の念を抱かせることができず、有用どころか有害である。

息子に勧告する。状況が許す限り、私を慕っているすべての人々の面倒を見るように。その際、私のために不幸になった人々の子供や親に対して私が神聖な負債を負っている事を忘れないように。そして、私にとって不幸な人たちの中には、私と関わりがある人々の中に、私に対してあるべき振る舞いをしなかった人や、恩を仇で返した者がいることを知っているが、私は彼らを許す(不安や混乱の時代には、人はしばしば自制できない)。息子が彼らの不幸だけに考えを及ぼす機会を見つけるようにお願いする。」

 以上、息子への言及でした。息子への言及はもう少し続きます。

 自分の権威が保てなかった点が失敗だと認識しているのですが、認識していても行動を変更する難しさが分かります。また、落ち目だと仕方がないにせよ、周囲の人間の中には極めて不快な行動をする者がいました。鉄の戸棚を密告した錠前づくりの師匠のガマンなどを念頭に置いているのでしょうが、息子に対して恨みを持たないよう言っています。自分の立場が困難に見舞われているのに、彼らの立場を考えるよう遺言状で述べるのも、難しいものです。

 クレリーは宮殿の使用人たちが国王裁判の証拠集めで出鱈目な証言をした、と自分の記録で述べていますが、クレリーの主観もありますから、どうなのでしょうか。
返信する
Re:遺言状 その2の1 (mugi)
2021-04-03 21:38:07
>スポンジ頭さん、

 あれだけ信仰心の厚い人物やその家族が無残に殺され、特権を享受した生臭坊主どもが革命後も生き延びるのだから本当にやり切れません。このような坊主どもこそ地獄に落ちろ!と言いたくなりますが、彼らは天国や地獄など信じていなかったのでしょう。美徳の不幸とは小説の世界だけではありませんね。

 名門貴族による酷評はともかく、ツヴァイクが描いた国王像からも想像出来ないような遺言ですよね。そして妻に言及する箇所は、文章を書き直していることは初めて知りました。一方マリー・アントワネットの遺言状は殆ど夫に言及していませんよね。いかに義妹に宛てたにせよ、残される子供たちへの思いが中心でした。

 国王の遺言状が遺族にも読めたのは救われます。対照的にマリー・アントワネットの遺言は義妹が見ることはなかった。国王は遺言にせよ、処刑時に叫んだ言葉にしても見事としか言いようがありません。これで「鈍感」な人物でしょうか。
返信する
遺言状 その2の1 (スポンジ頭)
2021-04-02 23:06:56
>そして家族への言及には本当に泣かされます。しかし神は国王の家族に恵みを与えませんでした。

 実際、「神も仏もないよなあ」と言う感想はありました。彼の信心深さが逆に足枷となり、ほぼ全員が無残な最期を遂げてしまいましたから。それにしても、家族を残して処刑されるのは心残りだったでしょう。好き放題のタレイランは死に臨んでカトリック教会と和解し、天国行きの切符を手に入れました。人生は要領の良い者が勝ちですね。ロアンのような生臭坊主も天寿を全うしましたし。

>特に幼い息子の最後は酷すぎる。

 遺言状ではこの後、息子に対して、恨みを持たないように、とか良くしてくれた人々に感謝の意を伝えるように、と続くのですが、結局何の意味もない話になってしまいました。

 しかし、当時の名門貴族からどうしようもないレベルの酷評をされた人間が書く遺言には思えませんね。ツヴァイクが描くところのルイ十六世もこのような文章を書くようには見えない。家族との別れでも、あれでは何の感情も持ってないように読めます。妻に対して愛情を持っていた点はきちんと評価しても良さげですけど、何かにつけてケチを付けていますよね。

 実は遺言状でマリー・アントワネットに言及する箇所は、文章を書き直しているのです。元の文章が一部塗りつぶしてあり、読めなくなっています。表現に気を遣ったのですね。ヴェルモン神父は王妃が夫を愛していない、と言いましたが、愛されていないのに妻に対してこんな文章が書けるなら、気の毒過ぎますよ。

> この遺言状を家族は読めたのでしょうか?

 処刑翌日に公開されたそうです。フェルセンも日記に「遺言」について「見事だ」と記していますし。ただ、フェルセンの日記は機械翻訳で読んだので、遺言状なのか、処刑時に叫んだ言葉なのか、今ひとつはっきりしませんが。 
返信する
Re:遺言状 その2 (mugi)
2021-04-02 21:29:03
>スポンジ頭さん、

 敵に対しても祈りを捧げていたのは感銘を受けます。真のクリスチャンとはこのような人物なのでしょうね。そして家族への言及には本当に泣かされます。しかし神は国王の家族に恵みを与えませんでした。特に幼い息子の最後は酷すぎる。子供たちに「私を偲んで味わうあらゆる苦労と苦痛に感謝するように」と言われても、その結果を知る現代人からみればやり切れません。

 この遺言状を家族は読めたのでしょうか?王妃のそれは何年も隠されたままでしたが。
返信する
遺言状 その2 (スポンジ頭)
2021-04-02 00:23:16
 次は家族への言及です。

以下、引用。

「私がうっかり傷つけた人々(誰をもわざと傷つけた覚えはない)や、私が悪い例を示したり道を誤らせたりした人々にお願いします。私があなた方に対して行ったという悪行を許してください。

慈悲の心を持っているすべての人々は、私の罪の赦しを神から得るために、私と共々祈っていただきたい。

私は、何の理由もなく私を敵に回した人たちを心から赦します。神よ、どうか彼らを赦し、また、誤った熱情や的外れな熱情によって私を非常に苦しめた人たちを赦したまえ。

私は、私の妻、子供たち、妹、叔母、兄弟、そして血のつながりや私と何らかのつながりがあるすべての人々を神に託します。特に神には、長い間私と一緒に苦しんできた妻、子供たち、妹に慈悲の眼差しを向け、私を失うことになっても、この儚い世界に留まる限り、神の恵みによって彼らを支えたまえ。

私は、私の子供たちを妻に託す。私は、妻が子供たちに注いできた母親としての優しさを疑ったことはない。とりわけ妻には子供たちを善良なキリスト教徒、誠実な人間に育てて欲しい。この世の栄華を(もしやむなく栄華を味わうことになろうと)危険ではかない物としてしか見ず、そして永遠という唯一の堅固で永続的な栄光に目を向けるようにするよう子どもたちを導いて欲しい。私の妹には、私の子供たちへ愛を注ぎ続け、彼らが不幸にして母親を失った場合には、彼らの母親の代わりになって欲しい。

私は妻に、私のために彼女が受けているすべての苦痛と、私が私たちの結婚の過程で彼女に与えたかもしれない悲しみについて、私を許してもらいたい。また、もし妻が自分自身を咎めるべきことがあると思っていても、私は妻に対して何も含むところはないと確信してよろしい。

私の子供たちにはくれぐれも言っておく。何よりも優先しなければならない神への義務を果たし、常に仲良くし、母上の言いつけを守り、母上が自分たちのために、また私を偲んで味わうあらゆる苦労と苦痛に感謝するように。また、叔母上を二人目の母とと見なしてくれるようお願いする。」

 以上、家族への言及でした。

 キリスト教徒ではない人間にとって身近に感じられるのはこちらでしょう。その後の運命を知っているので、神に祈るより武力の方が役立ったと思います。しかし、3年でほぼ全員が亡くなってしまうのですよね。また、自分の死後、妻が自分のことを悲しんでくれると信じているのも興味深いところです。
返信する
Re:遺言状 その1の3 (mugi)
2021-04-01 22:41:28
>スポンジ頭さん、

「小説 フランス革命」には遺言状の一部が引用されていましたか。そうとは知らず、作者の創作と思って読んでいる読者も多いと思います。完璧な伴侶などいませんが、国王にとって王妃の欠点は許容範囲だったのでしょう。にも関らず、不満を持たなかったことを欠点とするのは不可解です。

>>「裁く者にも裁かれる者にとっても悲劇(大意)」

 まさに国王裁判はそれなんですよね。裁いた者もまもなく処刑され、断頭台は逃れても自殺した革命家もいます。国王処刑に票を投じたことで後に糾弾され、社会的生命を絶たれたも同然だったケースも。端から政治的思惑ありきの裁判だったから、このような結果を生んだと思います。

 マリア・テレジアと国王の違いは、啓蒙思想にありましたか!ヨーゼフ2世も啓蒙君主として知られますが、母ほど評価されませんよね。ツヴァイクも母に比べそれほどヨーゼフ2世は評価していません。

 裁判開始となり、子供には母親が必要だから、と一人でいる決心をしたルイ16世には泣けます。そのようなエピソードは尽くカット、愚行を強調する一方、対照的にフェルセンを持ち上げるツヴァイクの心理は興味深いですね。ルイ16世=暗君のイメージはツヴァイクの影響も少なくないかも。

 教祖自体が迫害の果て不当に処刑されたのだから、キリスト教徒には殉教に憧れる気持ちがあると思います。イスラム教も殉教を讃え、殉教すれば天国行となります。但しこちらは戦闘的で、敵を道連れに名誉の戦死を遂げるのが望ましいようです。
 どちらにせよ日本人には違和感がありますが、戦死すれば極楽往生と信じていた戦国時代の一向宗に似た考えかも。
返信する
遺言状 その1の3 (スポンジ頭)
2021-03-31 22:18:04
> 佐藤氏の「小説 フランス革命」には国王の遺言状が載っていましたか。

 遺言状の一部が引用されていました。妻に関する事です。ツヴァイクは国王が王妃に対して不満を持たなかったことを欠点であるかのように書いていますけど。

>革命裁判は明らかに「現存するいかなる法律にも口実や手段を見出すことができない裁判」になるはず。

 一応立憲君主制となったフランスでは国王に不可侵性が与えられていたので、そもそも裁けるのか、と言う話にもなりますし。遅塚氏自身はこの裁判を人間が理想を求めて行動した姿、として評価しているのです(国王裁判で議員たちは顔出しで自分の意見を言い、後にそれなりの数が横死している為)。しかし、国王の不可侵性とヴァレンヌ事件で国王がとった行動がお互い対立しているので法律的にどのように扱うか、と言う問題や、ジャコバンもジロンドも法律ではなく政治的思惑でルイ十六世の運命を決めようとしている点に触れ、「裁く者にも裁かれる者にとっても悲劇(大意)」と言う書き方をしていました。
 もちろん、私が国王だったら自分が一人の人間ではなく政治問題として扱われるのは不快千万なので、「自分の身を勝手な思惑で自由にされてたまるか」と憤激してます。

>国母と慕われるマリア・テレジアもユダヤ人は迫害しており、彼女も信仰心の厚さで知られます。この違いは不思議ですが、ツヴァイクはユダヤ人解放政策をとったルイ16世に厳しい。

 マリア・テレジアと国王の違いは、国王が啓蒙思想にある程度親和性があったからではないかと思います。ツヴァイクはどうも大胆不敵な人間が好みだから、ルイ十六世に批判的なのでは、と言う気がします。それでもマリア・テレジアへの評価が極めて高いのも不思議ですが。また、国王がまともな行動をしたり、人間味がある部分は描かない、のも奇妙です。フェルセンの引き立て役と言う扱いだからでしょうか。裁判開始となり、子どもたちが父親のところへ行った場合は連絡防止の為母親に会えなくなるので、子供には母親が必要だから、と一人でいる決心をする辺りなど結構しんみりしますけど。
 しかし、ツヴァイクはフェルセンの扱いが実に甘いですね。金目当てのプロポーズをして失敗、とか、エレオノーラのような、友人の愛人を自分の愛人にした上に、露見してトラブル発生、とか触れませんから。

> カトリック教徒に限らず、大半のキリスト教徒は殉教と言う意識を持っていると思います。

 国王処刑は政治的なものだとしか思わなかったのですが、カトリックの信者の中にルイ十六世が殉教した、と言う考えがあったのは予想外でした。この辺りは初詣もお盆もクリスマスもやる日本人には想像できない考えです。
返信する
Re:遺言状 その1の2 (mugi)
2021-03-29 21:34:58
>スポンジ頭さん、

 佐藤氏の「小説 フランス革命」には国王の遺言状が載っていましたか。図書館から借りて見たで手元になく確認できませんが、すっかり忘れていました。引用するとしても最初の箇所はやはり省くでしょうね。

 絶対王政時代のフランスの裁判の実態は知りませんが、革命裁判は明らかに「現存するいかなる法律にも口実や手段を見出すことができない裁判」になるはず。革命前の主権者を裁くのだし、国王には到底認められないでしょう。遅塚忠躬氏でさえ裁判の正当性に懐疑的でしたか。

 ノンクリということもありますが、私自身これほどの信仰心は理解の外です。狂信と篤信は紙一重だと思いますが、あの時代にプロテスタントやユダヤ人解放政策をとった欧州の国王は他にいたでしょうか?国母と慕われるマリア・テレジアもユダヤ人は迫害しており、彼女も信仰心の厚さで知られます。この違いは不思議ですが、ツヴァイクはユダヤ人解放政策をとったルイ16世に厳しい。

 特権を貪っていた上級聖職者の中では、確かにタレイランは変わり種ですよね。タレイランは古い家柄の名門貴族の出で、「小説 フランス革命」で自分の家の方がブルボン家より古いと独白するシーンがあったような……
 しかし地方の下級聖職者には聖職者民事基本法を認めない者も多かったし、それがヴァンデ反乱に繋がりました。

 カトリック教徒に限らず、大半のキリスト教徒は殉教と言う意識を持っていると思います。尤も実践するのは極めて少数ですが。もしルイ16世が聖職者になっていたら、同時代の聖職者よりマトモだったと思います。しかし宗教組織は今も昔も隠ぺい工作に長けているし、発覚した性的虐待事件は一部かも。
返信する
遺言状 その1の2 (スポンジ頭)
2021-03-28 22:45:00
 遺言状は結構それなりの長さがあります。最初は神への告白で、佐藤氏の「小説 フランス革命」は日本人読者を意識したのか、最初の部分はないですよね?

>不当な裁判への憤りが伺えますね。

 法律論やら政治思想やらが複雑に組み合わさっていますから難しいところで、遅塚忠躬氏も「フランス革命―歴史における劇薬」で裁判の正当性の難しさについて触れていました。

> 残りは全て信仰の告白ですが、敬虔なカトリック信者はここまで真摯になれることに驚きます。

 この信仰心と言うのは私の理解の外です。しかし、信仰心で虐殺も発生しますが、国王はプロテスタントやユダヤ人解放政策を採っていますから、偏狭さはなかったのでしょう。聖職者民事基本法にしても「ローマ教皇が口を出すな」と言えればいいのですが、心から神を信じているのでそれが出来ない。本当に同情します。

 聖職者もどちらかと言えば特権階級に繋がる上級聖職者より、民衆と接する下級聖職者の方が革命を支持しており、タレイランは寧ろ変わり種です。教会が税金を取りながら民衆に還元するのが少なかったから、下級聖職者は革命を支持したのです。道徳心は非常に低いが政治的理性は極めて優れている、とメッテルニヒがタレイランを評したそうですが、タレイランは宗教の権威を下げた方がフランスの利益になる、と考えていたのかもしれません。

>キリスト教の慈愛の教えに従って殉教したとしか見えませんが、このような人物こそ聖職者に相応しかった。

 国王関連を調べていて分かったのは、実際に殉教と言う意識を持っているカトリック教徒がいる事です。そこまで多数とも思いませんが。実際カトリック教会で性的虐待事件が発生しているニュースとか見ると、国王の方がまともな聖職者になっただろうと思うのです。
返信する
Re:遺言状 その1 (mugi)
2021-03-28 21:59:04
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 ルイ16世の遺言状を紹介して頂きありがとうございました!確かにマリー・アントワネットの遺言状は全文紹介されていますが、国王の方はまず見たことがありません。私も初めて目にしましたが、これで大体3分の1程度ですか。はじめの「現存するいかなる法律にも口実や手段を見出すことができない裁判に掛けられています」から、不当な裁判への憤りが伺えますね。

 残りは全て信仰の告白ですが、敬虔なカトリック信者はここまで真摯になれることに驚きます。ルイ16世は本当に信仰心の厚い信者だったことが改めて解りました。
「(自分の意志に反していたにもかかわらず)手を貸してしまったことへの深い悔い改めを受け入れたまえ」は、聖職者民事基本法を裁可したことを悔やむ告白でしょう。

 一方タレイランのような高位聖職者が革命派となり、聖職者民事基本法を支持する始末。伝統的にガリカニスムが強かったにしても、フランスのカトリック聖職者たちの大半は革命に好意的だったとか。むしろ国王の方が真のカトリック信者だったというのは歴史の皮肉です。キリスト教の慈愛の教えに従って殉教したとしか見えませんが、このような人物こそ聖職者に相応しかった。
返信する
遺言状 その1 (スポンジ頭)
2021-03-27 23:34:41
 こんばんは。

 日本でマリー・アントワネットの遺言状は全文紹介されますが、決してルイ十六世の遺言状が全文紹介されることありません。「ルイ十六世幽囚記」からの引用を考えましたが、長い引用は翻訳者の権利を侵害する可能性があるとかで、フランス語原文を機械翻訳し、更に幽囚記を見ながら意味不明な部分にはある程度手を加えました。

 以下、遺言状の文章です。かなり長いので分割します。初めは神への祈りです。

「父、子、聖霊の最も聖なる三位一体の名において。本日は、1792年12月25日である。私、フランス王ルイ16世は、私の臣下であった者たちによって、私の家族とともにパリのタンプル塔に4か月以上も監禁され、一切の連絡手段を奪われ、さらに11日前からは、私の家族いかなる連絡をとることができずにいます。その上、人間の情熱のために結果を予測することもできなければ、現存するいかなる法律にも口実や手段を見出すことができない裁判に掛けられています。神だけが私の考えの証人であり、私が頼ることのできる人です。私はここに、神の前で私の最後の願いと気持ちを宣言します。

私は私の魂を創造主である神に委ね、その慈悲に受け入れてくださるようお願いします。その際、自分の功徳によって判断するのではなく、私を初めとする救う値打ちのない人間たちのために、自らを父なる神に生け贄として捧げられた私たちの主イエス・キリストの功徳によって審判を下したまえ。

私は、聖ペテロがイエス・キリストから託された力を途切れることなく継承してきた、聖なる母、使徒が創立したローマ教会の結びつきの中で死にます。私は、信経と神と教会の戒律、聖餐式と秘儀に含まれるすべてのことを、カトリック教会が教え、常に教えてきたとおりに、固く信じ、告白します。私は、イエス・キリストの教会を破壊する教義を説明するさまざまな方法において、自分が裁き手になると主張したことはありません。しかし、これまでも、そして神が私に命を与えてくださるならばこれからも、聖なるカトリック教会に結ばれた教会の上長たちが、イエス・キリスト以来続いている教会の規律に従って下す決定に従います。 私は、誤りを犯しているかもしれない兄弟たちを心の底から哀れに思いますが、彼らを裁くつもりはありません。キリスト教の慈愛の教えに従って、イエス・キリストにあって彼らをより一層愛しています。

神よ、私のすべての罪を許したまえ。私は、カトリックの司祭の手を借りる事が出来ない中、自分の罪を注意深く知り、嫌悪し、主の前でへりくだろうとしてきました。私が神に対して行った告白、特に、私がいつも心から一致しているカトリック教会の規律と信念に反する可能性のある行為に、(自分の意志に反していたにもかかわらず)手を貸してしまったことへの深い悔い改めを受け入れたまえ。もし神が私に命を与えてくださるならば、できるだけ早くカトリックの司祭の手を借りて、私のすべての罪を認め、懺悔の秘跡を受けるという、私の確固たる決意を受け入れたまえ。」

 以上、神への祈りでした。ここまでで大体3分の1程度です。タレイランなら笑い飛ばすでしょう。また、国王にとっては深刻な内容なのでしょうが、キリスト教徒ではない私にはその真剣さは理解できません。神を信じていなければ、助かったのでしょうけれど。また、「カトリック教会の規律と信念に反する可能性のある行為」と言うのは聖職者民事基本法の事です。本当に気に病んでいたのですね。これがヴァレンヌ事件の引き金になりましたし。しかし、解決するのはボナパルトの時代ですから、どうしたらいいのか、と言う感じですね。 
返信する
Re:怖い刑罰、他 その2 (mugi)
2021-02-07 22:33:12
>スポンジ頭さん、

 地続きで文化的な影響が極めて大きかったにも関らず、確か朝鮮では纏足は行なわれませんでしたよね。尤も李氏朝鮮時代の乳出しチョゴリは文化的な影響を受けたとは思えませんが(笑)。
 凌遅刑はベトナムでも行われていましたか。20世紀半ばのイラクでも、国王の親族や側近の遺体が公の場で酷く損壊されましたが、 死後なので凌遅刑にはならないし、まして死肉を食べていない。

「人肉宴会」という表現自体が凄まじいですよね。1960年代になっても旧社会と変わりない残虐さです。文革での犠牲者は名誉回復され、加害者は裁かれている、といってもごく一部でしょう。そもそも中共は学校で文革を教えていないはずだし、件のツイートは五毛か中共シンパなのやら。
 それにしても、かつて凌遅刑では肉一切れ一文で見物人に販売したとは恐れ入ります。このようなことをしていたのは中華圏だけでしょう。早めに死なせると執行人が罰を受ける場合もあったことは初めて知りました。これでは執行人はタフでなければ勤まりませんね。

 改めて読むと、むやみやたらと掘り返した墓掘り人の鍬が固い層に当たり、それで発見の手掛かりになったという描き方はおかしいですよね。多くの遺体が埋められているし、生石灰の固い層から出てきたというだけでは正確さを欠いています。伝記では半ば朽ちた靴下止めと白っぽい塵……と感動的な表現で締めくくられていますが、この描き方が問題ですよね。

>>子供の頃、腰縄を付けられた人間が大通りで現場検証(?)に立ち会っているのを見て驚いたことがあります。

 私は未だに目にしたことはありませんが、現代の現場検証ではもうないのでしょうね。

 フーシェ最大の犯罪はリヨン虐殺事件だと思います。現在のリヨンが「極右の産地」だったとは知りませんでしたが、まさかフーシェの影響?
返信する
怖い刑罰、他 その2 (スポンジ頭)
2021-02-07 00:46:12
>私的には凌遅刑が朝鮮でも行われていたという一文に驚きました。

 地続きで文化的な影響が極めて大きいですから。ウィキのベトナム語版を参照したら、こちらでも凌遅刑を行っていました。日本では鋸挽きが一番の重刑ですが、刑罰として採用した江戸時代では形骸化してました。

>当時「人肉宴会」と呼ばれたそうですが、凌遅刑の一種に思えます。

 実際えげつない内容ですよね。先日ツイッターで文革での犠牲者は名誉回復され、加害者は裁かれている、と言うツイートを見ましたが、犠牲者はともかく、加害者が裁かれていたらこんな農民の発言やチワン族の記事はでませんよね。確かに何人しか裁かれていなくても「裁いた」事になりますけど。

 中国語の凌遅刑に関するウィキを読みましたが、肉一切れ一文で見物人に販売したとか、改めて読むと凄まじいですね。20世紀でも執行後に「食べた」記録があります。また、切る部位の順番も決まっているのですが、早めに死なせると執行人が罰を受ける場合もあるとか、執行人の精神も心配になるレベルです。

>むやみやたらと掘り返したことになっています。

 掘る場合の深度もある程度当たりを付けないといけないのではないでしょうか。遺体を次々投げ込んでいた場合は、土が被せられた遺体の上に別の遺体が積み重なる状況になりませんか?場所が正しくても、浅い深度で埋められた別の遺体が出てきた場合、「これは違う」とその場所での発掘が中止になりそうですけど。

 国王の遺骨は王妃よりもう少し深い場所で発見されたような。だから、どの深さまで掘る予定にしていたのか、と思いました。また、遺体を埋めた人間に立ち会わせたりもしなかったのでしょうか。記憶が曖昧になっているにせよ、通常は立ち会わせそうですが。子供の頃、腰縄を付けられた人間が大通りで現場検証(?)に立ち会っているのを見て驚いたことがあります。

>狡猾な陰謀家という外面とは違い過ぎる面とのギャップには驚きます。

 リヨンで虐殺事件を引き起こしていますからねえ。ちなみに、一昨年辺りに見たニュースだと、現在のリヨンは「極右の産地」だそうです。
返信する
Re:怖い刑罰、他 (mugi)
2021-02-03 22:58:16
>スポンジ頭さん、

 凌遅刑を紹介した画像AとBは、確かに服装が清朝様式ですよね。清朝は1912年まで続きましたが、毛沢東時代としてはオールドファッションに見えます。私的には凌遅刑が朝鮮でも行われていたという一文に驚きました。

 ベストセラー『マオ』には文革時代、広西チワン族自治区で行われた処刑が記されています。農民が元地主の息子であるという以外、何の罪もない少年の胸を公衆の眼前で平然と切り開いたのです。当時「人肉宴会」と呼ばれたそうですが、凌遅刑の一種に思えます。
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/daedbed8dade1d0ced8eb4bf9e395267
 なお広西チワン族自治区では最大15万人の犠牲者を出したとされているそうです。
https://www.afpbb.com/articles/-/3086883

 死体を踏んで血を出す処刑をしていたのはイタリアの一地方で、欧州諸国全てではなかったのですね。一部だったとしても、19世紀前半にこのような処刑が西欧で行われていたことに私も驚きました。

 ツヴァイクの描写では、死体が次々と運ばれてくるため墓掘り人は墓に一々しるしを付けている暇がなく、十字架も王冠もないので、むやみやたらと掘り返したことになっています。この箇所を読めば、生石灰のおかげで偶然発見できた印象を受けますよ。読んでいる時は不自然さに全く気付きませんでした。

 遠藤周作がツヴァイクを読んでいたのは確実でしょう。ツヴァイクの国王の描き方には不満を持ち、そのため違う描き方になったのかもしれませんね。ツヴァイクには「人に愛される」という見方は出来なかったのです。
 ツヴァイクは国王の鈍重さを強調、処刑前日にもで平静でいられたのはこの性質のため、と結論付けていますが、その見解は歴史家にも影響を与えています。しかし近頃のフランスの歴史家には、「複雑で傷ついた心を抱える男性」と捉える向きも出てきたのは良かった。

『エロイカ』にも妻一筋の理由として、「どうせ私はこんな顔だからな」という場面がありました。しかし派手に浮気するブサメンもいるから、内面は良かったのでしょう。さらに友人を助けたりもしていたことは知りませんでした。狡猾な陰謀家という外面とは違い過ぎる面とのギャップには驚きます。
返信する
怖い刑罰、他 (スポンジ頭)
2021-02-02 23:22:47
 凌遅刑は人体損壊を時間を掛けて行う刑罰ですから、見かけも磔より残忍になりますね。その解説を読みましたが、清朝の写真を毛沢東時代と言っていませんか?人のかぶっている帽子が清時代の物に見えるのですが。

 執行後に死体を踏んで血を出す処刑をしていたのはイタリアです。どこの地方かは忘れました。日本でも遊女が処刑見物に客を誘う手紙があったような。処刑は昔の人の娯楽ですよね。しかし、欧州だとルイ・フィリップの時代はよほど近代化された印象があるのですが。

>石灰層が埋葬場特定の決め手になったという描き方でしたね。

 そもそもそこに至る場所の特定はどのようにして行われたのか、と言う疑問があって然るべきなのですが、読んでいる際は一切思いませんでした。ツヴァイクはやはりストーリー展開が巧みです。

> しかし遠藤周作は、国王が息子に誓わせた場面を涙を浮かべながら書いていたことは知りませんでした。

 馬鹿にしたり見下したりする気にはなれなかった、との事。ツヴァイクを意識しているような書き方です。田舎貴族の息子に生まれていたら、一生を人に愛されながら終わっただろう、と書いていました。ツヴァイクはつまらない仕事をさせた方が戴冠式で国王になるより幸せだったろう、としていましたが、「人に愛される」と言う視点は一切ないですね。愛される値打ちのない人間、と言う事でしょうか。

 私の印象ですが、国王は人に愛されたい、と言う感情を恐らく人一番持っていたはず。斜め読みしたフェルセンの話を記載していた本によると「複雑で傷ついた心を抱える男性(本の文章)」との事です。国王について調べだしてから私が感じた国王のイメージと一致します。近頃のフランスの歴史家はこのような見解なのだと思いました。ツヴァイクのマリー・アントワネット伝だとこのような感じはありません。

>尤も陰険そのもので、印象は良くありませんでしたが。

 愛妻家で子煩悩、外と内の顔が全く異なります。あと、ツヴァイクのフーシェ伝にはありませんでしたが、彼は友人を助けたりもしていたとかで、これは意外でした。政治と関係ない場所ではまた違う顔があったのでしょうか。そして彼に敵意を持っているマリー・テレーズを非難していたとかで、この厚かましさは真似ができない、と思いました。
返信する
Re:更に最期の話 (mugi)
2021-02-02 21:50:10
>スポンジ頭さん、

 好奇心に負け、つい凌遅刑の写真を見てしまいましたが、磔より遥かに衝撃的でした。こちらこそ本当にモノクロでよかった。この刑は朝鮮半島でも行われており、詳しく解説している記事があります。
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12626651774.html

 西欧の死刑囚の死体処理方も残酷ですね。ルイ・フィリップの治世は1830-48年までなので、19世紀になっても死刑執行人が踏みつけ、喉から血を出す死体処理が行われていたのでしたか!執行が見られる部屋が貸し出されるほどなので、物好きな見物人は少なくなかった?

 wikiのルイ16世を改めてみたら、「密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った」の文章がちゃんとありました。ツヴァイクはこれに全く触れておらず、石灰層が埋葬場特定の決め手になったという描き方でしたね。
 またルイ18世は、兄の墓の場所を一度も亡命中に訪ねたことはなかった、とも書かれていましたが、さもありなんという印象でした。

 墓標のない墓というのは、やはり不名誉の証でしたか。国王夫妻は革命政府からすれば重罪人なので、軽蔑・侮辱を示す意図があったと思います。

 オスカルとジェローデル、アンドレの泥沼の三角関係を描いた二次作品があるようですが、本作ではストーリー的におかしくなりますよね。それであっさり身を引いて退場させたのかもしれませんが、貴族としての美意識もあったという指摘にはハッとさせられました。当時の貴族は焼きもちは下賤の者がやることと思っていた、とベルばら作者も言っていたのを思い出しました。

 マリー・アントワネットの日記では、私もそれほど感情の動きはなかったし、涙は出ませんでした。「小説フランス革命」も同じです。
 しかし遠藤周作は、国王が息子に誓わせた場面を涙を浮かべながら書いていたことは知りませんでした。遠藤周作ならば感情移入しやすい人物だったかもしれませんね。対照的にツヴァイクは一貫して冷ややかです。ツヴァイクは嫌いなタイプにはとことん冷たくなるのやら。

 私がジョゼフ・フーシェの名前を知ったのは、ツヴァイクの伝記での翻訳者による解説からです。ツヴァイクの他の作品名が挙げられていて、その時は殆ど印象はなかった。しかし池田理代子氏の「栄光のナポレオン-エロイカ」に登場していたので憶えました。尤も陰険そのもので、印象は良くありませんでしたが。
返信する
更に最期の話 (スポンジ頭)
2021-02-01 01:46:47
>その写真を見たことがありますが、モノクロで本当に良かった。

 磔はまだ見られました。しかし、前にも書きましたけど、モノクロでも凌遅刑の写真は無理でした。ただ、日本のウィキでもクリックした後ですが、凌遅刑の写真が見られるようになっていました。

>血を絞り出すのは遺体処理を楽にするためだったのでしょうか?

 喉を切り裂いての死刑ではなく撲殺だったかな?とにかく執行後、死刑執行人が踏みつけて喉から血を出すのです。見物人が大勢いて、執行が見られる部屋の貸し出しがあったりします。しかし、そんな死体の処理方法は聞いたことがありません。モンテ・クリスト伯はナポレオンの百日天下からルイ・フィリップの時代までなのですが、ルイ・フィリップの時代にもそんな処刑方法があったので驚きます。

> 国王夫妻が埋められた場所は、見物させる為に目印として木を植えていたことも初耳です。

 日本のウィキです。ツヴァイクの話では石灰を振りかけた話はありましたが、発掘前に場所を特定できた理由説明はなかったですよね。掘って石灰層に当たればマリー・アントワネットが埋まっている場所だと言う話だったはず。しかし、兄の墓の場所を一度も亡命中にルイ十八世が訪ねたことはなかった、と言うのは本当なのでしょうか。最初読んだ時はえらく薄情だと思ったものです。兄の刑死の知らせを聞いても涙が全く出なかった、と言う人物だからあり得ますか。

>王妃がどこに埋められていたのか聞いても、教えられる現地人はいなくなっていた、と。

 英語のウィキを見たら、墓標もなく地中に埋められていた、と言う描写でした。殺人犯が遺体を地面に埋めて隠すのと方法としては変わりません。実際、墓地がある土地を所有していた人物も、夫妻が埋められている場所をはっきりとは知らなかった、との事です。墓標のない墓を説明した英語のウィキによると、そのような墓は軽蔑・侮辱を示す可能性があるとの事。
 また、ブルボン家がある意味忘れ去られた状況で、ナポレオンからジョセフィーヌの侍従長の地位を提示されながら拒否して逃亡したクレリーの忠誠心の堅固さを改めて認識しました。

> ジェローデルってアンドレにあまり嫉妬心を見せていませんよね。身の引き方もあっさりしているし、この辺りが子供の頃から不思議でした。

 泥沼路線だとストーリー上差し支えますが、それはさて置き、子供の頃からオスカルと接して執着しているアンドレと違い、貴族としての美意識から身を引く考えを示したのかもしれません。それはそれで貴族が魅力で庶民に勝てない、となりますが、深入りしても自分の体面を傷つける、と言う判断あったでしょう。

> それにしても、国王の最後に涙した読者がいたことは驚きました。心に来るものがありましたが、涙まではでませんでした。

 確かに、極めて少数だと思います。私自身、作者の一番のお気に入り登場人物はルイ十六世だと知って驚きましたから。あれほど魅力的な登場人物が他に大勢いるのに。

>同じ作品を見ても、本当に感想は様々です。

 読んだ年齢は当然子供ですし、年齢により同じ作品でも感想は異なるでしょう。実際、マリー・アントワネットの日記で作者と対談した方が夫妻の最後の別れの場面で涙を流したと言われていましたが、こちらは「ああ、この台詞は遺言状の言葉を流用したものだ」とか思いながら読み、それほど感情の動きはありませんでした。また、「小説 フランス革命」だと国王は自分の死を納得して受け入れていたので、湿っぽさよりある種の爽やかさを感じました。要するに国王がそれで救われていたからですが。

 遠藤周作の「マリー・アントワネット」の昔の版だと作者後書きがありました。それによると作者はルイ・シャルルに復讐しないよう誓わせる場面を涙を浮かべながら書いていたと言う話があり、後書きの他の部分も合わせると、作者はルイ十六世に感情移入していたことが分かります。同じ作家でもツヴァイクの態度は冷ややかで、遠藤周作は共感していました。ツヴァイクは基本的に弱い人間は嫌いなのだと思ってます。とは言うものの、彼も死刑判決を受けた後の国王の態度についてはさすがに非難できませんでしたが。

 ジョゼフ・フーシェの名前を知ったのもこの後書きで、作者はツヴァイクの伝記を推薦していました。フーシェの名前が後書きに出てきた理由は、国王が復讐の連鎖を止めようとしてルイ・シャルルに誓わせたのに、娘のマリー・テレーズは父の言葉を聞こうとしなかった、と言う文脈からです。父の言葉を聞かずにマリー・テレーズがフーシェを毅然とした態度で追い落とした、と書いていて、私が後年フーシェの伝記を読んだのもこの後書きが切っ掛けです。
返信する
Re:ベルばらでの最期 (mugi)
2021-01-27 21:52:37
>スポンジ頭さん、

 そういえば、幕末の欧州への日本土産の一つは磔にされた罪人の写真でしたね。その写真を見たことがありますが、モノクロで本当に良かった。当時は見世物感覚だったのでしょう。
 イタリアでも1840年代は公開処刑だったのはともかく、罪人の死体を死刑執行人が踏みつけていたことは知りませんでした。血を絞り出すのは遺体処理を楽にするためだったのでしょうか?

 国王夫妻が埋められた場所は、見物させる為に目印として木を植えていたことも初耳です。確かツヴァイクの伝記では、何年か後にパリを訪れたドイツ人のエピソードがありました。王妃がどこに埋められていたのか聞いても、教えられる現地人はいなくなっていた、と。

 ニコライ2世一家の遺骨がDNA鑑定されたのは知っていますが、何といってもロシアですからね。つい疑いたくなります。私もwikiで処刑の実態を初めて知りましたが、皇女にも何度も銃剣を刺していたとは酷すぎる。荷馬車で処刑場に連行されたにせよ、フランス革命の方がやはり人道的です。

 ジェローデルってアンドレにあまり嫉妬心を見せていませんよね。身の引き方もあっさりしているし、この辺りが子供の頃から不思議でした。
 それにしても、国王の最後に涙した読者がいたことは驚きました。心に来るものがありましたが、涙まではでませんでした。同じ作品を見ても、本当に感想は様々です。
返信する
ベルばらでの最期 (スポンジ頭)
2021-01-26 22:32:52
>公開処刑が当たり前な社会では、子供にも悪影響があるでしょう。

 幕末の欧州への日本土産の一つは磔にされた罪人の写真です。これが土産物になる時点で、当時でも今と感覚が異なっていると分かります。モンテ・クリスト伯に、喉を切って処刑した罪人の死体を死刑執行人が踏みつけて血を絞り出す場面があります。時代背景は1840年代のイタリアで、この処刑を見物しに大勢の人間が集まります。ましてあの当時では。

> 王族ばかりか名だたる革命家の遺骨も発見されない有様です。

 流れ作業でギロチンに掛け、共同墓地への投げ込みですから。国王夫妻の遺骨が発見できたのは、埋められた場所を見物させる為に目印として木を植えていたからです。ブルボン家が帰還しなくても最終的に改葬はされたでしょうが、更に長い年月が必要になったでしょう。

>一応裁判を行った後に処刑したフランス革命

 フランス法務省のサイトに国王夫妻に関する裁判の解説があり、仰天したことがあります。本当にフランス法務省のサイトか思わず確認しました。今の政府は革命政権の正当な後継者と言う観念を持っているのですね。日本の法務省のサイトに、「朝敵」として処刑された旧幕臣の裁判解説なんてないでしょう。
 でも、そうすると、国王夫妻は今でも法律上は犯罪者の扱いなのでしょうか・・・?

>ソ連邦崩壊後にニコライ2世の遺骨が発見されたそうですが、果たしてホンモノでしょうか?

 DNA鑑定で決定しています。他、アナスタシアも生存説が否定されましたね。しかし、ウィキで処刑場面を読むと、フランス革命より野蛮になってますよ。マリー・アントワネットのコンシェルジュリーが人道的に見えます。フランス革命もナポレオンが出てきて収拾できなかったらどうなったか分かりませんけど。

>>>何かに対する対決姿勢を一切見せないキャラは彼だけでは?
> この指摘にはハッとさせられました。ベルばらでこのようなキャラは確かにルイ16世だけでした。

 最終巻以外はお笑いキャラの面もありましたけど、妻とフェルセンの不倫話もグッと飲み込み、密告シーン以降は最後まで触れませんでしたね。マロン・グラッセや彼女に好意を持っていた画家も対決姿勢は示しませんがそこまでの主要キャラではありませんし。ロザリーも貴族を罵る場面があったと思いますし。身を引くと言うならジェローデルですが、彼はアンドレと対決していますし、そもそも婚約すらしていません。自分の死すらも受け入れて憎しみなどは見せませんでしたね。

 子供の頃ベルばらを読んだ際、オスカルがバスティーユ攻略で戦死した時は身分制が崩壊したと言うある種の高揚感があり、王妃の最期も劇的に感じました。しかし、唯一涙を流して読んだ場面は、国王がルイ・シャルルに復讐しないよう誓わせる場面から最期の場面だけでした。国民の幸せを祈って首を落とされる場面は心に来るものがありましたね。一番人気のオスカルの最期で涙を流さず、こちらで涙を流すのは珍しい事でしょうが。
返信する
Re:命日なので その3 (mugi)
2021-01-24 22:32:28
>スポンジ頭さん、

 当時は幼い子供に処刑見物をさせるのが当たり前だったようですね。尤も禁止したところで子供は好奇心が強いため、のぞき見していたと思います。公開処刑が当たり前な社会では、子供にも悪影響があるでしょう。

 かなり前、NHK BSでヴァレンヌ事件を扱ったフランスのドラマが放送されましたが、どうも国王の顔立ちが違っているような……おそらくこのテーマのドラマは他にも制作されていると思います。国王への再評価が増えてきたのはいい流れですよね。

 王族ばかりか名だたる革命家の遺骨も発見されない有様です。一応裁判を行った後に処刑したフランス革命と異なり、ロシア革命は問答無用で子供を含めた王族を虐殺しました。ソ連邦崩壊後にニコライ2世の遺骨が発見されたそうですが、果たしてホンモノでしょうか?

 ロココ時代は男性もお洒落を心がけ、化粧する時代でしたからね。それが一転して戦争と流血という男性優位時代となります。日本も平安時代から鎌倉武士の時代を迎えています。男性メイクを白眼視しない現代日本も、この先どうなるのやら。

>>何かに対する対決姿勢を一切見せないキャラは彼だけでは?

 この指摘にはハッとさせられました。ベルばらでこのようなキャラは確かにルイ16世だけでした。婚約者に捨てられ自殺したアランの妹もいましたが、重要キャラではないですよね。
返信する
命日なので その3 (スポンジ頭)
2021-01-24 01:56:09
>実際に国王を処刑しても、惨事は収まるどころか激化したのだから。

 国王処刑が皮切りになって、大勢の人間がギロチン送りになりますから。それにしても、あの映画で小さな女の子に処刑見物をさせているシーンが有りましたが、今なら非難轟々間違いなしですね。

> 一方で再評価ヴァージョンも制作されている。

 あれは10年ほど前に制作されたヴァレンヌ事件のドラマです。ごく一部しか見ていませんが、どうもパリから一旦離れ、モンメディを拠点としてフランスを改革しようとした、と言う筋のようです。
 先日フランスの密林を見ていたら、「Louis et Antoinette」と言う本が出ていました。説明を読む限り、再評価の流れの本です。

> 処刑から22年後に再び日の目を見ることになったのは痛ましいですが、二度と日の目を見られなかった人物に比べれば恵まれていると思います。

 何しろマダム・エリザベートやルイ・ジョゼフ、ルイ・シャルルも遺骨は発見できませんでした。共同墓地へ次々と遺体を投げ込むのですから、無理もない事です。その拡大版がロシア革命ですが。
 
 優美なロココの時代からナポレオンに象徴される戦争と流血の時代となりますが、ヨーロッパの君主国もまさか自分たちの土台を揺るがす事態になるとは思わなかったでしょうね。もし、ナポレオンがあれほど戦争を好まなければ、欧州は今でも身分によって権利が異なっていたのでしょうか。

 しかし、ルイ十六世はベルばらで唯一、敵(自分を殺そうとする相手)の幸せを祈って死んでゆき、作品に登場するキャラクターとしては極めて特異ですね。何かに対する対決姿勢を一切見せないキャラは彼だけでは?オスカル・アンドレ・アランは身分制度に反発し、マリー・アントワネットは処刑場で民衆と対決し、後年のフェルゼンも民衆を敵とした結果惨殺されています。
返信する
Re:命日なので その2 (mugi)
2021-01-23 22:20:09
>スポンジ頭さん、

 ベルばらでは息子に復讐をしようとは考えるな、と誓わせていました。「un peuple et son roi」なら、革命派を皆殺しにして父の無念をはらせ、と誓わせそうなキャラです。実際に国王を処刑しても、惨事は収まるどころか激化したのだから。このような国王像にした映像作家の動機は不明ですが、かなり王族に敵意を持っているのやら。

 一方で再評価ヴァージョンも制作されている。国王への解釈ではフランス人の見解も二分傾向があるようですね。

 処刑から22年後に再び日の目を見ることになったのは痛ましいですが、二度と日の目を見られなかった人物に比べれば恵まれていると思います。ロココの時代は鬘の時代とも言われ、虚栄が蔓延ったと非難する向きもあります。しかし華やかな宮廷文化は現代にも影響を与えていますから、一概に否定はできません。
返信する
命日なので その2 (スポンジ頭)
2021-01-23 00:30:45
>それにしても「un peuple et son roi」の国王は見るからに悪人面ですよね。

 ルイ・シャルルに対して革命派を皆殺しにして王権を取り戻せ、と言っていても驚きません。あの人相ならそんな発言をする方が自然です。一部だけしか見ていない上にフランス語が分からないので、どのような意図であのようなギロチン台上の演出をしたのか全く想像がつきません。ギロチン台の上で立腹しているような描写もありますし。ただ、あのラストだと国王を処刑しても将来の展望は開けたりしない、と言う事を暗示しているようです。

>首を切り落とされても、しっかり目を開けていた。

 怒りと無念さの混じった演出かもしれませんし、フランスの行く末を見届ける、と言う意志の現れかもしれません。

> 一方フランスのドラマはもっと善良そうな顔立ちでした。

 再評価ヴァージョンですから、聡明な雰囲気にされています。「自分」の肖像画の前に立つ場面がありましたが、史実の国王がスマートな時代に描かれた肖像画だったので、最初見たときは思い切り大笑いしました。あの俳優だと後年の肖像画は使えませんよね。

 そして、実際の歴史では、処刑後に簡単な祈りをされた後に地中深く石灰をまぶされて埋められ、再び日の目を見るのは22年後となります。神聖ローマ帝国も消滅、鬘をかぶる習慣も廃れ、ロココの時代は遠くなっていました。
返信する
Re:命日なので (mugi)
2021-01-22 21:54:14
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 そういえば昨日はルイ16世の命日でしたが、すっかり忘れていました。それにしても「un peuple et son roi」の国王は見るからに悪人面ですよね。首を切り落とされても、しっかり目を開けていた。これほど人相の悪い国王像にした意図は分りません。

 一方フランスのドラマはもっと善良そうな顔立ちでした。こちらの方がベルばらにちかい国王像ですが、映像作家によって国王の描き方が違ってくるのも面白いですね。
返信する
命日なので (スポンジ頭)
2021-01-21 21:46:26
 こんばんは。

 本日は命日なので、ルイ十六世の最期のシーンを。

 まず、「un peuple et son roi」 から。こちらは平行世界におけるフランス革命です。しおらしさは皆無、ギロチン台の上から周囲を睥睨しています。どう見ても事破れて処刑される革命家、言葉の本来の意味で確信犯として大勢の人間を殺害してきたテロリスト、反乱を指導して被害を与えたので首都で処刑される王党派の頭目にしか見えません。
https://www.youtube.com/watch?v=PD7mELxlAwI

 こちらはフランスのドラマで、12:09からです。私はごく一部しか見ていませんが、最初誰か分かりませんでした。
https://www.youtube.com/watch?v=avSsS18wsOg

 ベルばらからは考えられない国王像です。
返信する
名無しへ (mugi)
2020-06-01 22:19:37
 私は基本的にHNなしのコメントは受け付けない方針だが、今回はあえてレスしよう。

>>ソースがツヴァイクとベルばらだけで

 記事の最後に参考として「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」(加瀬俊一著、文藝春秋)を挙げているが?この個所だけで記事をロクに読んでいないことが丸わかりで笑えた。名無しも端からイチャモン目的なのがバレバレだが、記事をマトモに読まずして堂々と語れる神経こそすごい。

>>むしろスポンジ頭さんのコメントを本文にされればいい。

 その①、その②でちゃんとスポンジ頭さんのコメントを本文に引用している。貴殿は読解力欠如というより、重度難読症のようだ。

「偏った見解」「史実が曖昧な部分」というが、具体的にどの箇所か提示するのが筋。これでは訂正のしようがないし、「偏った見解」というのも貴殿の偏った主観に過ぎない。

>多角的な視点と知識をもって資料と情報を精査した上で発信する責任が発信者にはあると思います。

 文章もロクに読めない者ほど、勿体ぶった説教が十八番らしい。ならばコメンターにも多角的な視点と知識をもって資料と情報を精査した上で発信する責任があるが、ブログ開設する気概もない名無しは気軽な無責任発言が常。

 大体「多角的な視点」で書かれた歴史書などあるのか?「中立な視点では歴史は絶対書けない」と言った歴史作家もいる。尤も文体には見覚えがあり、8年4か月前の記事に書込みした「ネモ」とやらにそっくり。今回も最後の一文には読点がなく、何時もの癖が出たようだ。
 この程度の記事さえ読めぬ難読症風情が、エントリー削除を要求するとは笑止千万。不思議なのは私の方だ。
返信する
Unknown (不思議なのですが)
2020-05-31 19:22:09
この情報溢れる時代において、ソースがツヴァイクとベルばらだけでここまで堂々と語れる神経がすごいです。
物事の見方や情報源が片寄りすぎでは?
フランス革命やルイ16世について検索で来た人が、偏った見解を正だと勘違いしないよう、エントリーを消すか、史実が曖昧な部分を訂正していただきたい。
むしろスポンジ頭さんのコメントを本文にされればいい。
多角的な視点と知識をもって資料と情報を精査した上で発信する責任が発信者にはあると思います。
返信する
Re:家族との別れ その2 (mugi)
2019-03-03 22:12:11
>スポンジ頭さん、

 まさに八月十日事件の最中の居眠シーンこそ、国王の不甲斐なさの典型でした。初めて読んだ時は中二だった私さえ、よくこの非常時に食っちゃ寝できるな~、と呆れましたよ。あれでは国王の威厳皆無な描き方です。
 しかし、ツヴァイクの資料の使い方を知ってしまうと、以上の描写にも疑問を感じてしまいます。とにかく作者はとことん国王を愚物にしたいようです。

 吉川トリコ、中島万紀子両氏の対談サイトは面白いですね。ネットスラング満載の文体や現代的なフェミニズム観が結構あるのはご愛嬌ですが、名古屋の女性観が保守的だったのは意外でした。東北も「結婚しない女は人に非ず」「子を産まぬ女は人に非ず」みたいな圧力がありますから。
 アントワネット人気が高いのはアメリカと日本だけじゃない?、という話が出ていますが、英国でも好感はあるように思えます。
返信する
家族との別れ その2 (スポンジ頭)
2019-03-03 11:24:20
>夫の不甲斐ない姿勢には苛立つシーンはありましたが、

 八月十日事件の最中、議会の記者席に押し込められながら大食し、挙句の果てに居眠る様を見たマリー・アントワネットが屈辱感を持つ場面がありましたね。あれを見たら王妃が愛想を尽かしたと思いますよ。仮に私が傍にいたら、「国王なんだから威厳を見せてくれ」「寝るんじゃない!」、「アホか!」と心の中で罵ってます(・・・それにしても本当に記者席で大食いしたのでしょうか。史料の扱いの話を読んでから心配になってきました)。タンプル塔でも威厳を見せる王妃に、受身無自覚で日常を過ごす国王と言う扱いでしたから。

 だから、最後の別れの場面で「二人の距離が近づいていた」と書かれても、今まで書かない理由は何か?と思えてくるのです。

> 最近、『マリー・アントワネットの日記』(吉川トリコ)を読んでいますが、本当に面白い。国王はベルばらよりも良く描かれています。
http://www.shincho-live.jp/ebook/nami/2018/09/201809_14.php

 この本、本屋で先日少し立ち読みしました。文体は何ですが、かなりしっかりした内容ですよね。校正大変だったろうなあ。著者対談を見ると、著者自身が気に入っているのです。確かに貴族たちからは笑いものにされていましたが、現代の感覚で見ると常識人に思えます。
返信する
Re:家族との別れ (mugi)
2019-03-02 22:53:16
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 マリー・アントワネット伝の国王処刑前夜のシーンを改めて読み直したら、仰る通り王妃の心理描写があまりありませんよね。さらにはルイ・シャルルに復讐はしないと誓わせる場面もなし。ベルばらでは最大の見せ場のひとつで、返って劇画の方が具体的な描写がされています。
 自分は男の子だったら良かったのか、というマリー・テレーズの質問も初めて知りました。それへの対応だけで国王の父性愛と人間性が感じられるのに、その場面もカットされていたのとは……

 アントワネットの母親宛ての手紙に、夫を「かわいそうな人」とあったことには長々と描かれていても、革命後の夫婦関係への具体的な描写はなしでしたね。夫の不甲斐ない姿勢には苛立つシーンはありましたが、作者がここまで感情移入を拒否するのは不可解です。
 最近、『マリー・アントワネットの日記』(吉川トリコ)を読んでいますが、本当に面白い。国王はベルばらよりも良く描かれています。
返信する
家族との別れ (スポンジ頭)
2019-03-02 12:52:31
 こんにちは。

 ツヴァイクが国王一家の最後の別れを描く際、具体的に表情やその場の様子に関する描写をしているのは国王だけです。悲しみに暮れる王妃の具体的な描写を回避する目的で、読者の視線を国王に向けせさたように思います。

 伝記を読んでいると、手紙などではっきりと心の交流が描かれているのはマリー・アントワネットとフェルセンだけで、国王夫妻の間の交流に関してはツヴァイクは言葉で説明するだけですね。国王に対する王妃の感情を実例を挙げて説明する場合は、夫を軽んじているか、情けなく思っているかのマイナス面だけですよね。革命後は苦難が二人の距離を近づけていたといっても、具体例はなし。

 国王にしても善人とは言うものの人間味を感じる描写は殆どなく、感情移入を拒否するキャラクターとして描かれています。ルイ・シャルルに復讐はしないと誓わせる場面もありませんでしたし。まだ宮殿にいた頃、自分が生まれる際男の子だったら良かったのかと質問したマリー・テレーズに「そんなことはない」と言って抱きしめたそうですが、このような描写があれば印象は全く異なったでしょう。遺言状の「良い母親であることを疑ったことはない」と言う言葉も結構心に刺さるのですけど。

 ここまで国王をツヴァイクが拒否した理由は何だったのでしょう。
返信する
Re:1890年台初頭のパリ (mugi)
2018-12-23 22:14:02
>スポンジ頭さん、

 1890年代初頭のパリ市内の様子は面白いですね。女性の服装は簡素になったもののまだドレスで、コルセットで体を締め付けている。その百年後、ミニスカートで闊歩する姿を想像できたでしょうか?
 当時の馬車は現代のタクシーと同じですが、仰る通り、意外に少ないですよね。道路の「落とし物」があるため、数は少ない方がよかったかも。

 パリ万博の動く歩道は、NHK「映像の世紀プレミアム」で見て知っていました。既に動く歩道が作られていたのは驚きますが、広場では廃れてしまいましたね。あの速度では直に歩いた方が早いことも原因だった?

 太陽王の統治期間は70年以上で長かったですよね。次のルイ15世も60年近く。ルイ14世の死から百年も経たず、革命で国王処刑が行われることは本当に予想できなかったはず。
返信する
1890年台初頭のパリ (スポンジ頭)
2018-12-23 13:19:35
 フランス革命から大体100年後のパリ市内。馬車は走っているものの、男性の服装は鬘から帽子に変化しています。服装も白黒フィルムのせいか地味です。馬車も現代の車の数を考えると、そこまで多くはありません。ただ、道路横断は結構危険に見えます。そして、道路の「落とし物」がいささか気になります(笑)。革命時代の本を読んでもあまり意識しませんが、当時の道路や街道は専用の清掃人が必要だったでしょう。
https://gigazine.net/news/20181222-19th-france-paris-movie/
https://www.youtube.com/watch?v=NjDclfAFRB4

 コンコルド広場も出ていますが、よく整備されていて血なまぐさい処刑場のイメージはありません。そして、驚いたのはパリ万博の動く歩道。あの頃からそれなりのものはあったのですね。見ている範囲では立派な服装の人間が多いようですが、労働者階級は昼間出歩く暇がなかったからでしょうか。

 そして、ルイ十四世の死去が1715年、ここから100年でナポレオン失脚・ブルボン朝王政復古、を迎えると知った時は驚愕しました。ルイ十四世なんて、ナポレオンの時代からすると遥か過去に思えていたんですが。太陽王も、自分の子孫が100年経たずに一旦別の人間に玉座を受け渡していたなんて想像できなかったでしょう。
返信する
Re:社団国家 (mugi)
2018-09-22 22:31:37
>スポンジ頭さん、

「社団国家」と云う用語も初耳ですが、近年は絶対王政の時代を「社団国家」という枠組みで理解することが主流になったようですね。啓蒙付でも「専制君主」や「絶対王政」という名称自体、イメージが良くない。これでは何やら専制君主が絶対権力を振るっていたような印象を受けますが、貴族は意外と反抗しています。
 ルイ16世の肖像画で、一番目のリンク先にあったものは最も知られているかもしれませんね。それにしても、あれで二十歳でしたか!現代でも老け顔は珍しくありませんが、貴族たちに容貌をおぞましいといわしめたのは、この老け顔だったのやら。

 wikiの「国家」には江戸時代の日本も、「さらに権力に関しても、幕藩体制における各藩が独自の軍事機構を持ち、幕府の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった…」の解説がありました。不穏な動きをすれば、早々に藩は取り潰しになったというイメージがありますが、 藩内内政にそれほど干渉が行われていなかったとは。

 建前上は法の下の平等を謳っている中国ですが、実際は都市と農村の格差が激しく、都市に出稼ぎにきた農民は酷く差別されていることは、意外に日本では知られていませんよね。
 都市住民には農民を同じ中国人という観念は全くなく、何かと差別されているのは農村戸籍という制度も影響しているかもしれませんね。日本でも都会人が地方出身者を蔑視することは珍しくありませんが、ここまでの差別はない。改めて中国社会は、血族以外は異民族同然であることが伺えました。

 考古学者でもあったロレンスですが、学生時代は数学も優秀な成績を収めています。だからエンジニアの仕事もやれました。ロレンスが開発に携わった船艇は極秘の内に建造され、彼の死の3年後の1938年5月24日に進水しています。ホバークラフトは軍事目的以外にも救難・救命用にも使えるし、ロレンスが関わったのは先ず高速救助艇の開発でした。
返信する
社団国家 (スポンジ頭)
2018-09-22 13:01:58
>中世並みの封建制度が結構残っていた

 「社団国家」と言うのだそうです。下のウィキはその説明です。三番目のリンクは「現代的な基準外の国家」と言う項目に説明があります。私はフランスの絶対主義の国王権力は江戸幕府より遥かに強いのかと思っていたのですが、違うのですね。それにしても、一番目のリンク先にあるルイ十六世の肖像画、どう見ても二十歳には見えません。こんな新入社員がいたら管理職と誤解されます(笑)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E5%B0%82%E5%88%B6%E5%90%9B%E4%B8%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%8E%8B%E6%94%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6#%E7%A4%BE%E5%9B%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%AB%96

 ルイ十六世が制度を改革する前、フランスの農奴は土地から離れても以前の領主の支配を受けていたとかで驚いたのですが、ふと、中国の農村戸籍も似てないだろうかと思いました。農村戸籍の持ち主(要するに農民)は都会に出てきても農村戸籍のせいで都会のサービスは受けられず、都会戸籍の持ち主より一段低い位置にいると言う制度です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9D%91%E6%88%B8%E7%B1%8D

>ナポレオン(3世ですよね?)

 すいません。初代をイメージしていました。100年単位で見ると近いと思ったので。もう平成も終わろうとしていますが、昭和世代から見た明治時代と今の世代から見た戦後昭和は同じ程度の隔たりなんだと感じました。

>ホバークラフトの前身になる船の仕事に関与していました。
 
 そんな頃からホバークラフトの開発があったのかと驚きましたが、ホバークラフトの考え方は19世紀後半には出ていたのですね。ウィキによると、今はホバークラフトは民間では廃れているものの軍事用としては却って用途が広がっているとかで、やはり軍事目的から開発が始まったそうです。軍事目的は本当に応用の幅が広いですね。
返信する
Re:革命開始時期 他 (mugi)
2018-09-09 21:48:31
>スポンジ頭さん、

 やはり現代でも、バスティーユ襲撃がフランス革命開始とする史観が主流でしたか。リンク先の記事にあるイギリス革命との比較や「複合革命論」という見方は興味深いものです。国王に抵抗した貴族たちは結果的には墓穴を掘ったのだから、現代人から見れば滑稽かつ悲惨そのものですが、殆どの人間は哀しいことに将来は見通せないのです。

 現代から百年前の画像も考えさせられました。人物像では真っ先にアラビアのロレンスが登場していますが、ナポレオン(3世ですよね?)没落後からさほど経過していない時代の人間という指摘にはハッとさせられました。地方は違っていたかもしれませんが、シャーロック・ホームズの時代から僅か30年程度で、ロンドンから馬車が一掃されたのも驚きます。

 革命前後及びブルボン復古後の人間が毒ガスマスクに機関銃を持つドイツ軍兵士を見たら、ほとんど宇宙人に思えたかもしれませんね。アラビアのロレンスも晩年は高速の救助艇の開発に興味を持ち、ホバークラフトの前身になる船の仕事に関与していました。

 世界初の戦車と日本の10式戦車(この名は初めて知りました)の動画も興味深いものです。戦車といえば Mark I のようにゴロゴロゆったりと走行するというイメージが強いのですが、現代はこれほど高速で走るようになりましたか!

 カラー映像で蘇る東京の風景は素晴らしい。やはりカラーは風情がより強調されます。河北新報では昭和30年代の仙台駅前のモノクロ写真を掲載していたことがあります。懐かしいですが、半世紀ちかく前はこれほど現代と違っていたことがモノクロでも実感できました。

>さて、私達の時代を100年後の人間が見て、何を思うのでしょうか。

 科学技術の進歩の速度はあまりに早く、今から百年後の世界のことは想像がつきません。現代の我々が200年前の人間を見て、感じている思いに近いかもしれませんね。
返信する
革命開始時期 他 (スポンジ頭)
2018-09-09 13:34:20
>時代が変わると歴史観も変わりますが、1789年7月14日フランス革命勃発、というのは過去になりつつあるようですね。

 調べてみたら、今でもメインの考え方はバスティーユ襲撃がフランス革命開始なのですが、貴族の反抗を開始時期と捉える考え方もあるのだそうです。いずれにせよ、特権を削減しようとする国王に対して抵抗した貴族や高等法院は最終的にフランス革命を呼び寄せて亡命したり解体されたりするので、後世から見ると滑稽かつ悲惨ですが。

>この考え方は「複合革命論」につながります。つまり最初の動きが次の革命を生み出したのだから、様々な人々によって革命は構成されたのだ、という考え方です。
ttps://blog.goo.ne.jp/kantosekaisi/e/b4c0c3fffe13148ef0334877ab8e4fe5

 そして、フランス革命後約130年後、そしてブルボン復古約100年後の風景です。たった一世紀程度でこの違い。やはり、一気に時代風景が変わってしまったのだと思います。
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/9216876.html

 ロンドンは車が走っているのですが、今と比較すると台数は本当に少ない。そして、シャーロック・ホームズの時代から30年程度なのにも関わらず、馬車が全く見当たりません。自動車自体は1760年代のフランスで発明されたものだそうですが、さすがにその頃は実用的ではありませんでした。アラビアのロレンスの写真もあります。それぞれ受け取り方があると思いますが、ロレンスがナポレオン没落後からそこまで経過していない時代の人間と言うのもいささか驚きです。

 毒ガスマスクに機関銃を持つドイツ軍兵士の写真ですが、革命前後及びブルボン復古後の人間がこの兵士の姿を見ても、そもそも装備の意味が理解できなかったでしょう。18世紀初頭の人間が19世紀初頭の兵士を見ても装備が理解できないとは思えないので、科学技術の進歩の速度が加速しているのだと分かります。
http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/0/f/0f051316.jpg

 そして、世界初の戦車の進撃です。現代から見るとやはりぎこちないのですが、当時としては恐るべき新兵器だったはず。
https://www.youtube.com/watch?v=M7K485WdBTo

 こちらは日本の10式戦車。100年も経過せずに軽々と安定して高速で走り回る性能を持つようになります。
https://www.youtube.com/watch?v=1Z35NCyL29o

 最後に、100年前の東京の風景。明治維新後50年経過した風景でもあります。江戸から見ると異国のような状況、現代から見ると、まだ落ち着いた感もあります。池波正太郎が戦後の東京の町並みを批判していたのも分かる気がします。そして、ここに写っている少年たちを待ち受ける運命を思うとやり切れません。教科書では1ページで済む話でも、様々な人間の生活があったと実感できます。
https://www.youtube.com/watch?v=Qndcio-NjYY

 さて、私達の時代を100年後の人間が見て、何を思うのでしょうか。
返信する
Re:読んでいる最中 その2 (mugi)
2018-08-29 21:31:19
>スポンジ頭さん、

 時代が変わると歴史観も変わりますが、1789年7月14日フランス革命勃発、というのは過去になりつつあるようですね。7月14日は現代でもパリ祭の日ですが、かつて貧しい民衆の反抗から始まったと解釈されたのは、マルクス史観の影響もあったのかも。

 18世紀後半になってもフランスで農奴がいたこと、そして中世並みの封建制度が結構残っていたことも、今回初めて知りました。貴方のコメントは毎回教えられることばかりです。
 貴族を上回る税金面での特権を持っていたのが聖職者でしたか。この辺りは日本とも似ており、明治での廃仏毀釈に繋がりました。明治政府の煽動ばかりではなく、江戸時代に特権を得ていた寺に民衆は怨みを抱いていたのです。とかく宗教団体はがめつい点で東も西も変わりない。

 今回のルイ16世の知られざるエピソードは、またも興味深いですね。オルレアンを追放したこともあったとは知りませんでした。「それは合法だ、なぜなら私が望むからだ!」とは、ベルばらの何時も鷹揚でお人よしのイメージとはかけ離れています。「朕は国家なり」を発揮することもあったとは。

 佐藤賢一氏の『小説フランス革命』シリーズを今読んでいるのですが、国王はツヴァイクとは違う複雑な性格の人物に描かれています。佐藤氏も参考文献のひとつに「1789年-フランス革命序論」を挙げていました。
返信する
読んでいる最中 その2 (スポンジ頭)
2018-08-28 23:57:13
 >え、1787年がフランス革命の開始とする学者もいるのですか??

「フランス革命―歴史における劇薬」に年表があるのですが、その年表欄を引用すると、

(引用開始)
一七八七 名士会議開催、貴族の反抗で王権の麻痺(フランス革命始まる)。
(引用終了)

とあるのです。私は「近頃は1787年からフランス革命開始になっているんだ、知らない間に変わっていたんだ」と思いました。とにかく、貴族が国王から権力を奪おうと反抗したのがフランス革命の始まりとされていました。貧しい民衆の反抗から始まった、と言う話ではないのですね。

 そして、「1789年-フランス革命序論」によると当時の土地所有形態は複雑で、貴族絡みで土地の所有者が二重になっていたりするのです。貴族の土地に対する特権もひどいもので、今から見ると、まともな所有権の確立がされていません。日本の太閤検地は土地の所有権を整理したものですから、16世紀の日本の方が土地所有関係に関しては先進的なのではないかと思った程です。貴族の領地における権力も強く、絶対王政のイメージとは違う封建制度が結構残されているのです。封建制度を採っている江戸幕府将軍の権力の方が大きいのでは?と、考えたくらいです。
 また、聖職者は貴族より税金面での特権を持っていて、社会の安定上かなり問題があり、彼らの収入がもっと貧困に喘ぐ人間に再分配されていれば革命時に教会に対する襲撃も弱まっていたのでは、と思うレベルでした(フランス革命序論の翻訳者あと書きを見ると、1939年の時点で教会は革命に反感を持っていた、との事)。
 他、ロシアより遥かにマシなものの、農奴もいました。自分が死んだ場合、同居の子供がいない場合財産を領主に取り上げられるのです。しかし、それでもルイ十六世のおかげでルイ十五世の時代より農奴の置かれている状況は改善されているのですね。

 フランス革命とは中世レベルの制度を制度・思想とも近代レベルに変更した事件に思えてきました。

 >ベルばらではオロオロした国王が、「どうしたらよいのだろう王妃…」とアントワネットに相談するシーンがあり、

 「1789年-フランス革命序論」の中で、自分の命令に反抗する高等法院と対決する国王は「それは違法です」と主張するオルレアンに激怒して「それは合法だ、なぜなら私が望むからだ!」と反論します。弱腰と言われるルイ十六世でもこう言う発言をする辺り、やはり専制君主で現代人とは感覚が異なるのだと思わされました。ついでにオルレアンは追放されました。

 ルイ十六世は意外に短気で激しい面があり、貴族と話していてゴブレットを床に叩きつけたりしたエピソードがあります。そして遺言状の中で息子に対して「不幸にして国王になったら・・・」。ツヴァイクに描かれている人物像より複雑な性格の持ち主です。

 「1789年-フランス革命序論」はまだ読み始めたばかりですが、優れた本だと思います。ただ、私の知力ではポツポツと読むばかりです。
返信する
Re:読んでいる最中 (mugi)
2018-08-28 21:48:06
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 え、1787年がフランス革命の開始とする学者もいるのですか??おそらく現代の日本の世界史教科書でも、バスティーユ襲撃を革命の勃発と記述されていると思いますが、この本は読書メーターでも高評価です。
https://bookmeter.com/books/35913

 革命前は絶対王政というイメージが強く、太陽王ほどではないにせよ、まだ国王の権力は衰えていないと思っていました。しかし、実際は国王の権力はそれほど強くなかったのですか。確かに高等法院を押さえられなかった有様なので、“絶対王政”ではありませんよね。
 1788年8月15日、国王の申し入れた新税と借金への許可を拒んだパリ高等法院の判事たちが、怒った国王と王妃によりトロワに追放される出来事がベルばらに描かれています。これでパリは騒乱状態となりますが、反国王派の貴族らが先頭に立ち、煽り立てていたのです。民衆の反発に折れ、結局9月20日、トロワに追放された高等法院の判事や貴族はパリに召し返されます。

 ベルばらではオロオロした国王が、「どうしたらよいのだろう王妃…」とアントワネットに相談するシーンがあり、王妃が対処を提案する描き方でした。まるで王妃の発案であるような印象ですが、この漫画は殆どツヴァイク史観の受け入りでしょう。
 国王は若い頃は食が細かったそうですね。しかし、この時代のフランスは難問山積、さぞ国王はストレスが溜まっていたのは想像に難くありません。ストレス解消にやけ食いというのは現代庶民も同じですが、国王の重圧は庶民とは比較になりません。
返信する
読んでいる最中 (スポンジ頭)
2018-08-27 21:15:58
 こんばんは。

 「フランス革命―歴史における劇薬」の読書案内に紹介されていた「1789年-フランス革命序論」と言う本を読みかけています。「歴史に~」はフランス革命序論を実に分かりやすくコンパクトにしたものだと分かりました。
 そして、「歴史に~」に掲載されていた年表では1787年がフランス革命の開始とされており、きっかけはバスティーユ襲撃だと思っていたのでいささか驚きましたが、実は当時のフランスは意外に国王の権力が弱く、貴族(特権階級)たちが1787年に国王の改革に反抗したのがきっかけでフランス革命となったと知りました。単に庶民の生活が苦しいから、と言う理由だけが革命の引き金になったのではないのですね。

 そして、この貴族の反抗の一翼を担ったのが首飾り事件に登場する高等法院です。ツヴァイクはルイ十六世が首飾り事件の際、高等法院を解散させなかったのを弱腰と非難していましたが、実は1788年に司法改革の一環としてパリ高等法院を国王は解散させました。しかし、解散させる際は軍隊が出動した挙げ句、その後は国中で騒乱となり、結局パリ高等法院は復活してしまいました。貴族特権擁護の立場である高等法院を専制に反抗するものと誤解した民衆が支持したからです。実際、この高等法院は国王の改革の妨げになっており、これがなければ改革もまだスムーズに行き、立憲王政に軟着陸できたかもしれません。ツヴァイクは国王の弱腰を非難しましたが、すぐ解散できる存在ではなかったのです。
 この司法改革を行ったのが例のマルゼルブで、彼は再び大臣に就任し、法服貴族であるにも関わらず国王の側で改革をしようとしたのですが、司法改革は挫折しこの度も辞任することとなりました。

 ルイ十六世は無能だ無気力だと言われていましたが(このフランス革命序論でも意志の弱さや非社交的で権威なく周囲から嘲笑されている点を指摘)、自分なら到底耐えられない重圧だと思いました。そして、この本には書かれていませんが、国王はこの頃ストレスから今で言う鬱病になり、異常な量の食事をしたり、王妃のところで泣いていたとかで、どこが鈍感なのかと感じた次第です。
返信する
Re:告発 (mugi)
2018-08-14 22:16:34
>スポンジ頭さん、

 国王が裁判の最中、娘の事を考えて涙を流していたとは、今回初めて知りました。やはり国王も父親であり、ルイ16世は子煩悩だったようで、家族との別れにさぞ苦しんだことでしょう。いくら「マリー・アントワネット伝」にせよ、国王の内面への描写がなさすぎるし、鈍感で何事にも激しい感情を持てない、という描き方に終始しています。

 私が見た風刺画はギルレイ作の、「パリ風の夕食 あるいは 1日の疲れのあとで一息いれるサン・キュロットの家族」という絵です。
http://www.fotolibra.com/gallery/1287323/un-petit-souper-a-la-parisienne-gillray/
 幼い子供までが貪り食っていて、いくら何でも誇張過ぎる、と思っていましたが、暴徒が貴族の館を襲撃、その主の心臓を食べる事件があったことは初耳です。18世紀の欧州でも飢えではなく、憎悪でここまでやるのは驚きました。王一族も死後には心臓が保存されていたし、心臓には拘りがあるようですね。

 ツヴァイクは国王の裁判の様子を描いていませんが、8月10日事件の責任まで問われていたとは驚きます。それでも処刑時には一応馬車で護送されましたが、王妃は農夫の使う荷車についた梯子に座らされて処刑場におくられました。悪名高い王妃でも、命がけで弁護する人がいたのは救いです。
返信する
告発 (スポンジ頭)
2018-08-14 00:37:02
>ここまでくるとマリー・アントワネット伝、何処までが史実なのか、分からなくなります。

 使用する史料にもよりますから一概には言えないのですが、ツヴァイクは国王の人間味が見える部分はあえて記載していないのではないかと思うことはあります(裁判の最中、娘の事を考えて涙を流したり、とか)。

 人○を食べる話ですが、プティフィス氏の「ルイ十六世」(現在積ん読中)では、貴族の館を襲撃した暴徒が、殺した貴族の心臓を食べる事件が記載されています。サン・キュロットの風刺画は事実なのです。食料がなくて人○ならまだしも、単に殺した相手ですから、異常心理ですね。

 国王裁判では33件の容疑で告発されるのですが、その中には8月10日事件もあり、裁判の議長から「8月10日に流血の事態を引き起こした」と尋問された国王は「それは私ではない。最後まで私は自分を守る。それは私ではない!」と憤激しながら否定しています。国王にしてみれば、襲ってきた相手から流血の責任を問われたら立腹するでしょう。
 この罪状認否の際は弁護人はまだ存在せず、国王は一人で全ての件について反論します。ツヴァイクの描き出す国王像は鈍感で何事にも激しい感情を持てない、と言う扱いですが、イメージが違うな、と言う印象です。そして、それでも王妃の裁判より扱いが遥かにまともなので、急速に政治状況が悪化したのだと分かります。

 王妃は2名の弁護士が付きますが、後に1名は恐怖政治の中逮捕されるものの、テルミドールのクーデターで命拾いしました。残りの1名は総裁政府の時代に王党派と見做されたのか植民地に流刑され1年後に没しました。弁護士も命懸けです。
返信する
Re:テュイルリー襲撃 (mugi)
2018-08-13 22:08:23
>スポンジ頭さん、

 一般に動植物は人間よりも毒物への耐性が強いようですね。福島でもイノシシが急増、空き家となった人家に侵入していたとか。

 マハーバーラタを実写化したインドのテレビ番組があったそうで、もしかすると動画はそれかもしれません。かなり高視聴率だったそうです。ラーマーヤナも大河ドラマ化され、ヒロインを演じた女優は知名度を活かし、選挙のキャンペーンに動員されたこともあったとか。

 ツヴァイクの「8月10日」、またも脚色があったようですね。国王がだらしない恰好でしどろもどろの演説をすれば、衛兵もバカにするのは当然ですが、実際は無言だった??ここまでくるとマリー・アントワネット伝、何処までが史実なのか、分からなくなります。

 wikiによればスイス人傭兵は600名が殺され、うち60名は降伏した後の殺害とあります。彼らの遺体が損壊され、損壊には女性も加わりました。しかし、食べた者までいたのですか!これではシナ人と変わりないですね。9月虐殺事件で、人肉を食べているサンキュロット一家への風刺画がありました。風刺画特有の誇張と思っていたら、本当に食べていたとは……

 生まれた時から宮殿暮らしの国王には軍隊教育もなく、流血を避けようとして返って惨事を大きくしたのは悲劇でした。それを以って事件の流血の責任を問われたというのだから、まさに勝てば官軍。
返信する
テュイルリー襲撃 (スポンジ頭)
2018-08-12 21:43:59
 ヒ素は土壌により植物に対する被害が軽減される場合があるそうです。鉛に関してはイノシシの耐性が意外に大きいのかも知れません。

 マハーバーラタの実写版ってあったのですね。日本語字幕が付いていたのには驚きました。有志の字幕でしょうか。ガンジス川から女性が登場したらいきなり結婚を申し込む、と言うのは飛躍していないか、と思わずツッコミましたが、前世からの約束のようなものだったのですね。

>ツヴァイクのアントワネット伝にも「8月10日」という章があり、国王の不甲斐なさを強調する描き方になっていました。

 ツヴァイクはルイ十六世がだらしない格好で衛兵たちに腰砕けの演説をして馬鹿にされる場面を入れていましたが、英語のウィキを見たら、だらしない格好で閲兵をして衛兵たちが罵声を浴びせているのですが、無言で宮殿に戻っていました(出典あり)。情けないとしてもツヴァイクより相対的にマシなのです。ツヴァイクの話はどこから出たのでしょうか。

 そして、よく読み取れないのですが、フランス語のウィキを見ると、当日の午前四時にマリー・アントワネットがパリ市(?)の人間を呼び出し、国王と王室は議会に避難することを希望していると伝えてます。最初から防戦するつもりはなかったのでしょうか。

 その後、8時から戦闘となりますが、防衛を任せられていた衛兵隊は攻撃側に寝返り、スイス衛兵のみが攻撃側と対峙します。攻撃側は相手に降伏を申し入れ、緊張が溶けかかる場面もあるのですが、8時45分に火蓋が切られ(どちらが攻撃したかは不明)、騙し討ちされたと思った攻撃側はスイス衛兵が降伏しても虐殺するのです(人○まで食べたとか!)。国王は戦闘の音が聞こえてきたのでスイス衛兵に降伏するよう指示するのですが、時すでに遅かったのでした。とは言うものの、ツヴァイクの健忘症呼ばわりは酷すぎると思いますが。

 そして、九月虐殺とは異なり、女性たちは助かりました。まだ、理性が働く面もあったようです。

 スイス衛兵に対する国王の降伏命令書。急いで書かれたのが分かります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Insurrection_of_10_August_1792#/media/File:Louis_XVI_order_to_surrender_10_August_1792.jpg

 議会側は形勢が不明な時は国王を王として扱っていたのですが、形勢が決定した時点で王権の執行停止を決定しました。

 この戦闘を目撃していたナポレオンは後に国王が馬に乗って出撃すれば勝利していた、と言ったとかで、国王の軍隊教育のなさや流血を避けようとする考えが傷口を大きくしてしまったのだと思いました。

 後に国王裁判でルイ十六世はこの事件の流血の責任を問われました。無理筋ですが、これこそ政治裁判と言うものですね。
返信する
Re:ゾーンルージュ (mugi)
2018-08-11 21:39:34
>スポンジ頭さん、

 カラパイアは私のお気に入りサイトですが、この記事は見逃していました。コメントにある通り、私もフランスにこんな場所があったことは知りませんでした。この記事を読むと、広島・長崎の汚染被害も実は小規模なものだったのかとすら思えてきます。
 ただ、21世紀初頭でも極端に危険なレベルの砒素が含まれている汚染地帯でありながら、深い森になっているのは興味深いですね。肝臓に異常な量の鉛を持つイノシシが生きていたのも。

 オウム真理教幹部には『ムー』愛読者が多かったと聞いています。私も学生時代はよく見ていましたが、この雑誌の愛読者でもカルトに入信した者は極一部でしょう。マハーバーラタの実写版があり、動画でも一部見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=rd1aGriElBQ

 昨日はちょうどテュイルリー宮殿襲撃事件の日でしたね。ツヴァイクのアントワネット伝にも「8月10日」という章があり、国王の不甲斐なさを強調する描き方になっていました。
返信する
ゾーンルージュ (スポンジ頭)
2018-08-10 22:15:51
 第一次世界大戦で毒ガスなどの被害を受けたフランスの地域紹介です。ダウンフォール作戦が決行されていた場合の日本の姿だったのかも知れません。これでもかつてない程の被害なのに、二十年後の第二次世界大戦は世界が滅びるレベルの兵器が開発されたのだから恐ろしい事です。
http://karapaia.com/archives/52193942.html

 超自然現象を扱う雑誌のムーは今でも健在だとかで驚きましたが、確かにインドの想像力豊かな叙事詩はこの雑誌が飛びつきそうな内容が盛りだくさんですね。ただ、あの手の雑誌をネタとして読めない人が読むと、結構おかしな方に進みそうですが。ラーマーヤナとかインドの富豪が映画化しませんかね。

 そして、本日はテュイルリー宮殿が襲撃され、国王一家がタンプル塔に移送される事になる運命の日でした。
返信する
Re:150年 その2 (mugi)
2018-08-09 23:25:18
>スポンジ頭さん、

 前回150年という年月を指摘されたのは、このような理由があったのですね。ワーテルローの戦いなど、両軍が平原に布陣するという典型的な陸戦ですが、それから半世紀後の南北戦争も同じ戦が行われています。現代からみれば、何ともクラシックな戦に見えるでしょう。自分で山野を駆け巡る、鉄板で覆われた大砲が登場するのは南北戦争から50年後です。
 よく十年一昔と言われますが、この十年の進歩の速度もフランス革命時とは比較になりません。いわゆる専門家の予測も外れまくっていますから。

 インドの叙事詩には空を飛ぶ乗り物(飛行機)らしき飛行車“ヴィマーナ”が登場します。他にも戦車や原爆を思わせる武器が出てくるし、古代インド人のファンタジーには圧倒されます。だから古代核戦争のテーマとして、雑誌『ムー』が好んで取り上げるのでしょう。
http://www.asyura2.com/sora/bd9/msg/385.html

 ダウンフォール作戦の全容を初めて知りました。本当に恐ろしい。仰る通り独ソ戦レベルでは済まず、もし実施されていれば、こちらの方が「史上最大の作戦」になったでしょう。日本本土上陸作戦では大規模な化学兵器の使用も検討されていたのですね。ベトナム戦争の枯葉剤はその延長に見えてきます。
 意外だったのは「Xデー」の日程が、完全に日本軍に読まれてたこと。日本軍は暗号解読が全くダメというイメージが定着していますが、堀栄三のような軍人がいたことも今回初めて知りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89
返信する
150年 その2 (スポンジ頭)
2018-08-08 21:47:58
 第一次世界大戦は人類全体が二つの勢力に別れて戦った初めての戦争ですが、ワーテルローの戦いから100年経過していないのですよね。あまりにも変化が激しすぎます。

 150年と言う年月について考えた理由は、ツヴァイクが使用したマリー・アントワネットとマリア・テレジアの書簡はその時点で未公開部部があった訳で、こちらは「歴史的人物だから伏せる必要もないのに」と思った事がきっかけです。考えてみると、マリー・アントワネットの伝記を書いた時点ではまだ150年も経過しておらず、日本で言えば皇族関係のプライベート部分にあたるので「それは無理か」と思い直しました。ましてや露骨そのもののヨーゼフの手紙など更に駄目か、と思いました。

 フランス革命時点で、125年後の戦争では空は空を飛ぶ乗り物(飛行機)に乗って戦い、陸は自分で山野を駆け巡る、鉄板で覆われた大砲(戦車)に乗って戦う、と言っても誰も信じなかったでしょう。
 そして、156年後には瞬きする間に大都市が消滅し、10万人が死ぬ武器(原爆)が投入される、と言う話に至っては鉄格子付きの病院にいる人間の妄想と思われた事でしょう。

>ダウンフォール作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6

 世界の戦史でも類を見ないレベルの計画ではないかと思いますが、これが実行されていたら、日本は人の住めない地域になっていたのではないでしょうか。独ソ戦レベルではない気がします。そして、そんなレベルの戦争がなされると言う事自体、この150年で兵器の能力も物資などの生産能力も異常に向上したからできる事です。

>日本という国が果たして存在しているのか気がかりです。

 私達にできる事は、存在できるような基盤を作って守ることだけです。本当に10年先もどうなるのか分かりません。
返信する
Re:150年 (mugi)
2018-08-07 22:03:06
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 仰る通りフランス革命勃発から第二次世界大戦発生までが、ちょうど150年でした!今回のコメントで初めて気付きましたが、近代以降の150年は、それ以前よりも変化が激しい。明治維新発生から日本の敗戦までは77年目。日本も世界も激動の時代でした。

 本当に現代から150年後の世界は想像もできません。もう生きていませんが、日本という国が果たして存在しているのか気がかりです。
返信する
150年 (スポンジ頭)
2018-08-06 23:31:02
こんばんは。

 今年は明治維新150年なのですが、よく考えるとフランス革命勃発から第二次世界大戦発生までが150年でした。第一次世界大戦までは125年。兵器も大幅に変化しました。何しろ戦車に飛行機です。そして、明治維新発生から日本の敗戦まで80年も経過していません。やはり、フランス革命以降の歴史は同時に世界中を巻き込むレベルになってしまったのだと思いました。

 今から150年以降の歴史は想像もつきません。
返信する
Re:遺骨 (mugi)
2018-07-22 21:23:51
>スポンジ頭さん、

 なぜ王家の棺だけに石灰と思っていたのですが、遺体の分解を早めるためだったのですか。この辺りに革命政府の“暴君”一家への強い憎しみが表れていますね。尤もツヴァイクの伝記では、そのため掘り返してみたら固い層に当り、王妃の遺体発見に繋がったとなっています。
 紹介された版画からは壮大な式典に見えますが、実際に棺に入っている遺骨はごく一部に過ぎなかったはず。実質的には「ルイ十八世の戦勝記念式」だったし、親族の遺骨の欠片でも利用するのがプロヴァンスという王族でした。

 プロヴァンスが兄より両親や周囲から可愛がられたのは、表面的には愛想が良かったこともあると思います。総じて弟は兄より甘え上手だし、人付き合いが良いタイプが多いですよね。まだ中高生の時分から自分の利益のために裏で立ち回っていたというだけで、元から策謀に長けていたといえます。

 フーシェやタレイランも利用した挙句、放り出すのだから大したもので、政治家としては兄より優れていたと思います。ナポレオンは「ルイ16世から実直さを引き、機知を足したもの」と評したとか。ナポレオンよりも恐ろしい敵は叔父のはずですが、王族のマリー・テレーズには判らなかったのでしょうね。
返信する
遺骨 (スポンジ頭)
2018-07-21 22:48:29
>発見されたのは遺体の一部

 顎骨が見つかり、これがハプスブルク家の特徴を示すものだったので王妃の遺骨と特定されたそうです。国王はその翌日でした。男性の骨の一部と靴のバックルだったはず。石灰は遺体の分解を早めるために使用したとか。

 こちらは、サン・ドニ聖堂に改葬される両名の棺を運ぶ行列を描いた版画です。二人の犠牲の上で王座に就いたルイ十八世の戦勝記念式とも言えるでしょう。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_transfer_of_the_coffins_of_King_Louis_XVI_of_France_and_Wellcome_V0042355.jpg

 とにかく、プロヴァンスに関してはいろいろ国王関連を調べるにつけ更に印象が悪化、よく両親も周囲も、ルイ・オーギュストを無視してこちらを可愛がったものだと思いました。まだ中高生の時分から自分の利益のために裏で立ち回り、それをマリー・アントワネットからマリア・テレジアに手紙で報告される有様で、兄が刑死したと言う知らせを受けても嘘泣きすら出来なかったとか。親や周囲の愛情が逆にプロヴァンスを増長させたのだと言う印象です。

 マリー・テレーズはナポレオンを嫌っていましたが、本当の敵はこの叔父ですよ。
返信する
Re:エランシ墓地 (mugi)
2018-07-21 21:22:43
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 wikiのカミーユ・デムーランには、「遺体は同志とともにエランシ墓地に埋葬されたが、後の道路拡張で墓地が閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている」とあり、ついでにカタコンブ・ド・パリにも目を通しました。先に案外カタコンベあたりにでも埋葬~と言ったのは、カタコンブの解説を見たためです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AA

 マダム・エリザベートは兄夫婦と同じマドレーヌ墓地ではなく、エランシ墓地に葬られたとは知りませんでした。「権力者と罪人が紙一重で入れ替わる時代」とは言い得て妙ですね。
 ツヴァイクのアントワネット伝に、墓堀人は埋葬時に王家の棺には生石灰を振りかけておくように命じられていたことが載っており、そのため彼女の遺体が発見されたというラストでした。アントワネットの遺体は半月も野ざらし状態で、発見されたのは遺体の一部に過ぎなかったのも、集団埋葬では当然でしょう。それでも身元不明に終わったマダム・エリザベートよりマシです。
返信する
エランシ墓地 (スポンジ頭)
2018-07-20 23:16:18
 こんばんは。

>案外カタコンベあたりにでも埋葬されたりして。

 本当にそこへ移送されていました。最初エランシ墓地と言うギロチン刑死者が葬られる墓地に遺体は埋葬されたのですが、後にカタコンベに移送されたのだそうです。エランシ墓地にはルイ十六世の妹、マダム・エリザベートも葬られ、王政復古時にルイ十八世が探させたのですが、見つかりませんでした。

 当時の埋葬方法は持ち物を取り去り服を剥いでから、複数の人間を葬ることができる4.5mほどの穴に入れる、と言うものだそうで、これでは身元不明になるだけだと思いました。かのカミーユ・デムーランやロベスピエールもエランシ墓地に葬られていました。もう、権力者と罪人が紙一重で入れ替わる時代としか言いようがありません。
返信する
Re:一言 (mugi)
2018-07-14 21:29:30
>スポンジ頭さん、

 裁判中のマルゼルブの回答、本当に「漢」でしたね。王族の方が性格面では浅ましく、ナポレオンもマリー・テレーズを「ブルボン家唯一の男性」と揶揄したほどです。この「漢」がマリー・アントワネットの口出しで辞職していたとは知りませんでした。にも関わらず弁護人を引き受けたのだから、忠臣の鑑でもありました。

 マルゼルブの遺体は行方不明ですか。あの時代は処刑が多すぎたので、行方不明となる遺体も多かったことでしょう。案外カタコンベあたりにでも埋葬されたりして。
返信する
一言 (スポンジ頭)
2018-07-14 11:19:35
>本当に国王の弟たちより遥かに高尚な人物でしたね。

 マルゼルブは裁判中に「陛下」と言う言葉を使うんですね。だから、聞き咎められて「シトワイヤン、法律で禁止されている言葉を使った理由は?」と尋ねられ「あなた方に対する、そして私の死に対する軽蔑の念からです」と回答します。よく堂々と回答したな、と。

 マルゼルブは貴族身分としては下級だと思うのですが、王族のプロヴァンスやアルトワより遥かに人格が高潔で、正義・勇気・慈愛の正しく「漢」ですね。
 ルイ十六世の治世の最初に大臣を務めますが、マリー・アントワネットが口出しをして辞職となったとかで、往復書簡の注釈にも誠実な大臣を失ったことが記されていました。そのような人物が緊急時に弁護人になってくれた事を王妃はどのように思っていたのでしょうか。

 処刑時は、家族が処刑されるのを見届けた後処刑となったそうです。偶然なのか、故意なのかは分かりません。マルゼルブの遺体は共同墓地に葬られたのか、行方不明だそうです。
返信する
Re:読んでみました (mugi)
2018-07-09 21:34:19
>スポンジ頭さん、

 ついに『フランス革命―歴史における劇薬』を読まれましたか。前に紹介された書評サイトの中に、「「血まみれの手からの贈り物」などの表現は、中高生に向けてテロを扇動するかの如くである」といった辛口の批評があったためイメージが良くなかったのですが、貴方のコメントでまた印象が変わりました。とにかく読まなけば分りませんよね。
 大衆が貴族による報復を恐れていたという説は納得できます。反革命が成功すれば、ロベスピエールのような指導者は真っ先に処刑されたはず。その協力者も同じ運命だから、犠牲者を大量に出す政治闘争となったということですね。

 フランス革命2百周年目で、フランス国内でも革命称賛一色ではなく、批判的な見解が出ていたことは知っていました。ベタ記事扱いにせよ、河北新報の国際面でも載っていたはず。フランス国歌ラ・マルセイエーズさえ、歌詞が残酷という意見もあったようです。恐怖政治やヴァンデー鎮圧のような虐殺はやはり肯定できないでしょう。
 同じ頃、英国首相だったサッチャーがフランス革命の惨事を非難、英国にはそんなことはなかった、と自国を称える発言をしていました。ミッテランがそれに反論したはずですが、その内容は憶えていません。

>>結局大規模な流血がなければ政府と国民の権利義務を明確にした国家というものは成立しないのか、とも思いました。

 この意見は興味深いですね。その意味では大規模な流血があった中国やロシアは、政府と国民の権利義務を明確にした国家が成立したと言えるかも。尤も21世紀でも両国では国民の義務は明確にしていても、権利は??状態ですが。

 死刑判決を受けてもルイ16世が動じなかったのは、スゴイですよね。そしてあのエベールが国王の姿を見て涙を流したというエピソードは初めて知りました。ツヴァイクのマリー・アントワネット伝でエベールは散々こき下ろされていますが、こちらも鵜呑みには出来ない?

 マルゼルブの関連サイトの紹介を有難うございました!本当に国王の弟たちより遥かに高尚な人物でしたね。悪い奴ほど生き延びるのは何処の国も同じなのやら。トクヴィルについては前に記事にしています。
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/cff0c6d210f61cdd2240923cb4fc5b79
返信する
読んでみました (スポンジ頭)
2018-07-08 19:48:58
 「フランス革命―歴史における劇薬」を読んでみました。さすがに要点を抑えてあって分かりやすいです。フランス革命があのような惨憺たる状況を発生させたのは、大衆と革命が結びつき、自分たちが貴族に報復されるのではないか、と言う大衆の恐怖の念がその一因との事です。また、それらが結びついた原因は、ロベスピエールのような、どちらかと言うと身分的に民衆に近い立場のブルジョアたちが革命防衛や民衆に対する同情の念から結びついて行ったのですね。

 結局革命政府は外国との戦争が好転した結果、厳しい政治に対する反動が来てテルミドールののクーデターとなるのですが、ロベスピエールは革命遂行のために次々と反対者を切り落として支持基盤を狭めてしまった結果、身の破滅を招きました。

 著者はフランス革命を評価する立場ですが、ヴァンデーの反乱や恐怖政治で大量の犠牲者が出たこともきちんと記載しており、フランス革命は最初から犠牲者を出す条件を含んでいたのであのような展開になったという理解をしています。この本は20年前に描かれた本ですので、今は違うのかも知れませんが、フランスではどちらかと言うと、「革命の最初は良かったが、後に悪くなった」と言う理解をしているとの事です。

 そして、日本ではフランス革命をフランス人が無条件で肯定しているように見えますが、フランスでは200周年を祝う行事がフランスで行われようとした際に、フランス人から「恐怖政治など祝えるか」と言う反発が出たので、「人権宣言」を祝う、と言う話にして革命を祝ったのだそうです。また、雑誌でも「ロベスピエールは有罪か」と言うタイトルでロベスピエールを論じたそうです。中江兆民もフランス革命は評価していても、国王処刑や恐怖政治は忌避し、ロベルピエールを断罪、「自分が国王処刑現場にいれば、国王を抱えて逃げる」と言う意味合いの言葉を生前語った、と言う話を紹介していました。

 結局英国も日本も大衆を巻き込まなかったので流血の惨事は避けられた、と言う結論ですが(アメリカも大衆が英国派を攻撃する状況ではないですよね)、その結果国民の権利の点で取りこぼしが出た、と言う辺りになると、結局大規模な流血がなければ政府と国民の権利義務を明確にした国家というものは成立しないのか、とも思いました。

 著者は革命を評価しながらも、負の面も目配りして分かりやすく革命の力学を述べている印象を受けます。

 そして、この著作とは関係ありませんが、国王裁判で死刑が決定した際、国王は別室にいました。そして法務大臣や弁護人、そして「あの」エベールが別室に向かい、涙を流す弁護人を見た国王は「その涙で分かった、よくやってくれた、親愛なるマルゼルブ」と礼を言い、法務大臣が死刑判決を言い渡すものの、その表情を変えることは一切なかったそうです。しかも、国王をペール・デュシェーヌ上で酔っぱらいだの暴君だの豚だのと、散々侮辱したエベールまで死刑判決を聞く国王の姿を見て涙を流したというのは・・・。何かあるとダメっぷりを発揮するルイ十六世のイメージとは異なりますね。ツヴァイク、この話を知っていて最後に纏めたのでしょうか。

 マルゼルブと一家皆殺しになった弁護人で、ルイ十五世と十六世のもとで大臣を務めた法服貴族です。当人の思想は開明派なのですが、亡命してたものの、裁判になった際フランスに帰国し志願して弁護人となりました。ただ、子孫に生き延びたものがいて、フランスの政治家・思想家のアレクシ・ド・トクヴィルと言う人物が出ています。
 こちらはマルゼルブの紹介です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%AF%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%96

ttp://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/08/blog-post_17.html

 人間の値打ちは土壇場で分かりますが、こういう人物が非業の最期を遂げるのは悲しいことです。
返信する
Re:復讐を禁じる場面 その2 (mugi)
2018-06-23 21:33:09
>こんばんは、スポンジ頭さん。
 
 フェルセンとルイ16世の違いは、名門貴族と国王という立場もあると思います。前者には自分の国民という考えはありません。やはりルイ16世も遺言状を遺していたのですね。私は未見ですが、息子に「恨みつらみは忘れること」と書き遺していたことはあまり知られていないでしょう。

 レ・ミゼラブルは小学生の時、子供向けに書き直したものを見ただけで原本は未読です。原作に登場した元国民公会議員のお話は興味深い。国王夫妻の処刑を喜んで見物していたのはフランス国民だったのに、王政復古時代となるや様変わり。大衆は何時の時代も気まぐれですね。
 先日読んだ『小説フランス革命Ⅱ』では、ミラボーが女の無定見を蔑み、「女という生物は、大衆の権化なのだ」と独白するシーンがありますが、耳が痛い、、、

 マリー・テレーズが父をカトリックの聖人にすべく活動したことは知りませんでした。聖人となったルイ9世にあやかってかもしれませんが、プロテスタントやユダヤ人に寛容では無理でしょうね。迫害した方が得点になります。
返信する
復讐を禁じる場面 その2 (スポンジ頭)
2018-06-22 22:46:50
 こんばんは。
 
 民衆を憎んで結局殺されたフェルセンと、憎しみを否定しようとしたルイ十六世の違いはどこにあるのかと思いまして。革命家も自分の国民と言う点では変わりませんからあんな発言が出たのかと。
 裁判中に書いた遺言状(まだきちんと読んでいませんが)でも息子に「恨みつらみは忘れること」と言う意味の文章を書いているのですけれど、全ては無駄となりました。マリー・アントワネットの遺言状は有名ですが、ルイ十六世の遺言状は滅多に見ませんよね。
 
>革命家を熱狂的に支持したのはフランス国民でした。

 小説、レ・ミゼラブルの中に元国民公会議員が登場し、当人は国王死刑に反対したものの、革命終了後は周囲から国王殺しの一員として忌み嫌われる、と言う場面があるそうです。しかし、国王は国民が望んだため死刑になった訳で、この辺りはいかなる感情の変化かと思いました。

>父から復讐を禁じられなかった娘は、まさに復讐に憑りつかれる人生を送ることになりましたね。

 自分にとって可愛らしい娘があんな行動をするとは思いも寄らなかったのでしょう。マリー・テレーズの行動を父が喜ぶはずはないのですが、そう言って彼女を納得させることができる人間はすべてこの世からいなくなっているので、どうしようもありません。

 彼女は父親をカトリックの聖人にすべく活動したのですが結局失敗したそうで、こんな発想は日本人には出てこないものだと思いました
返信する
Re:復讐を禁じる場面 (mugi)
2018-06-18 21:39:29
>スポンジ頭さん、

 成る程、ルイ16世が幼い息子に復讐を禁じたのは、対象が自分の国民相手になるからという解釈ですか。私は単純に革命家たちと思っていましたが、革命家を熱狂的に支持したのはフランス国民でした。父から復讐を禁じられなかった娘は、まさに復讐に憑りつかれる人生を送ることになりましたね。
返信する
復讐を禁じる場面 (スポンジ頭)
2018-06-17 22:26:27
 復讐を禁じた話ですが、ルイ・シャルルが復讐するとしたら自分の国民相手になりますから、国民を保護する義務があるフランス国王としてルイ十六世は復讐を禁じたのではないか、と言う気がしてきました。いずれにせよ、その国民が自分の死を願い、自分の身内を破滅に追いやるのですから悲劇ですが。
返信する
Re:ノワイユ伯爵夫人他 (mugi)
2018-04-29 21:30:43
>スポンジ頭さん、

 ノワイユ伯爵夫人の処刑は1794年6月でしたか。王妃より8カ月後ですが、テルミドールのクーデターがそのひと月という所に、「劇薬」のまわりの早さが表れていますね。反革命のレッテルを貼り、政敵や不平分子を抹殺するやり口は、その後の中露の革命の先駆けとなりました。

>>革命家の中には世界中に革命を輸出し、日本も共和国にしようとする向きもあった、との事ですが、そんなもの「大きなお世話」です。

 未だに革命実現の夢を見ている者は、ネットでも見かけます。匿名ゆえの冗談が大半かもしれませんが、日本の場合は革命の理想よりも反日が最大の目的でしょう。この類は日本人にもいるはず。

 フーシェは何と貴族となり、「オトラント公爵」と名乗ったのですか。さらに結婚式にルイ18世を招待し、彼も応じたという神経が凄まじい。欧州の王侯貴族の強かさを改めて知りました。あまつさえ、フーシェの子孫はスウェーデン貴族になっていたのだから、言葉もありません。wikiにあるフーシェの晩年も興味深いものがあります。
「晩年は家族と友人に囲まれた平穏な生活を営み、人が変わったように教会の参拝を欠かさなかったという。フーシェは死ぬまで敵対者の個人情報を手中に収め、保身に成功した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7

 トゥルゼル公爵夫人が無事に生き延びていたのは驚きました。ランバル公妃は無残な最期を遂げましたが、彼女は王妃の同性愛相手と思われていたことがあるのでしょう。トゥルゼル公爵夫人を連れ出した人物のことが気になりますが、おそらく王党派だったのやら。
返信する
ノワイユ伯爵夫人他 (スポンジ頭)
2018-04-29 11:27:23
 ノワイユ伯爵夫人は王妃処刑後の次年、1794年6月27日に処刑されています。反革命の罪状だったようです。あと一月でテルミドールのクーデターが発生し、ロベスピエールたちが処刑されて恐怖政治の終了を迎えますから残念な事です。息子の一人は開明派貴族だったのですが、革命が急進化したので亡命しました。反革命で処刑とは、文革やロシア革命を連想させるパターンです。
 革命家の中には世界中に革命を輸出し、日本も共和国にしようとする向きもあった、との事ですが、そんなもの「大きなお世話」です。

 このテルミドールのクーデターにロベスピエールと対立していたフーシェが関わっており(ツヴァイクの小説だとまるで彼が一人で暗躍して話を纏めたようになっている)、生き残った彼はナポレオンの下で軍用物資の横流しなどをやって富を蓄え、貴族に成り上がり「オトラント公爵」と言う称号を名乗ります。革命時には戦費捻出のため他人の財産を掻き集め、反革命の罪でリヨンの人間を大勢処刑していた人物が成り上がるのをリヨンの人間が見れば苦い思いがあった事でしょう。 そして、ブルボン朝復帰時代に再婚(ブルボン朝復帰直前に最初の妻を亡くしている)しますが、その結婚式にルイ十八世を招待し、ルイ十八世は結婚の証人として一番目に結婚証書に署名する、と言う事態となります。自分が死刑に賛成した人物の弟を結婚式に招待し、また弟も招待に応じる、と言う辺りが不気味です(プロヴァンスにとって兄は邪魔者でしかありませんから心理的負担はなかったでしょうが)。その後、失脚してフランスを追放されますが、子孫はスウェーデン貴族だとかでこちらも驚きました。
 
 ちなみにヴァレンヌ事件で同行したトゥルゼル公爵夫人は後に投獄されますが、なぜか九月虐殺の数日前に何者かによって連れ出されていたので助かりました。ロベスピエール失脚後も逮捕されたり、ナポレオン時代にも監視されたそうですが、王妃に忠実に仕えた人物が生き残るのも時代の不思議さです。大勢の貴族が亡命する状況でも最後まで付き従っていたのは立派です。
返信する
Re:読んでみようかと (mugi)
2018-04-28 22:25:36
>スポンジ頭さん、

 岩波ジュニア新書からフランス革命史が出ていたのですか。中高生向きに書かれた入門書でも、レビューからはやはり岩波らしい印象を受けました。ひらり庵氏のレビューでは、「フランス革命を「悲惨にして偉大」「人間の魂の叫び」と定義」していたそうで、私的には何だか興醒めさせられました。この類の学者が学生運動を煽ったのかも。
https://bookmeter.com/reviews/64000724

 著者を検索したら、wikiにも載っていました。1932年10月生まれでは納得ですね。革命と云うだけで入れ込む世代だから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%85%E5%A1%9A%E5%BF%A0%E8%BA%AC

 国王お気に入りの従者ならともかく、バスティーユ襲撃での襲撃側の掛け声が「国王万歳」だったことは初めて知りました。本当に歴史ではブラックジョークに不足しません。
 さらにノワイユ伯爵夫人も夫婦でギロチンとなったことも、今回知りました。時期は王妃より後でしょうか?王妃に免職されてから反王妃派になったことは、ツヴァイクの本で知っていましたが、反王妃派でも処刑されたとは悲惨ですね。それがフランス革命という「劇薬」でした。
返信する
読んでみようかと (スポンジ頭)
2018-04-28 11:20:09
 ギロチン大会になったフランス革命ですが、この本を読めば原因の一端が分かるかも知れません。読んでみようかと思っています。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)
https://bookmeter.com/books/522719

 そして、私が購入した国王再評価本のジャン=クリスチャン・プティフィス氏著作、「ルイ十六世」はハードカバーで分量が多いので外出先で読めず、つまみ読みをしているのですが、革命の虐殺話を少し読んだだけで吐き気がしました。国王お気に入りの従者の一人は九月虐殺で死んでいるのですが、死に際に「国王万歳」と言ったと言うのが悲しいところです。ちなみに、バスティーユ襲撃でも襲撃側の掛け声が「国王万歳」だったとかで、悪い冗談としか思えません。

 マダム・エチケットこと、ノワイユ伯爵夫人も夫婦でギロチンとなりました。王妃に免職されてから反王妃派になったそうですが、身近な人物を敵にしてしまったのはまずかったと思います。

 それにしても、手当たり次第にギロチンに掛けられていく感じですね。
返信する
Re:裁判 (mugi)
2018-03-18 22:02:48
>スポンジ頭さん、

 ツヴァイクはアントワネットの裁判の様子は詳しく描いているのに、国王の場合は省略して最後だけを記述していましたね。テュイルリー襲撃時での交渉も記載なし。これだと読者は、優柔不断で真の王者に相応しくないという印象しか受けません。これこそがツヴァイクの狙いだったのでしょうけど、見事に成功しました。

 そして国王の弁護士の1人は、彼自身や秘書2人と共にギロチンで一家皆殺しとなっていたとは知りませんでした。本当に酷い時代でした。
『世界の歴史21/アメリカとフランスの革命』(中央公論)を最近読んでいますが、私の学生時代の世界史の教科書ではアメリカは「独立戦争」だったのに、「独立革命」と呼ばれるようになってきたのですね。アメリカ独立革命では英国への忠義派に対する処刑など行われなかったのに、その影響を受けたはずのフランス革命ではギロチンがフル稼働です。この違いは何故でしょうね。
返信する
スポンジ頭 (裁判)
2018-03-18 13:01:55
>しかし、彼が最後に真の王者に相応しい態度を見せたのは驚嘆させられる。

 裁判の最中は堂々と受け答えをしていて、筋金入りの革命家、マラーでさえ感嘆している記録が残っています。ツヴァイクは優柔不断で腰砕けになる部分しか殆ど記載していませんが、こうなると本当はどんな人物だったのか、と言いたくなります。ギロチン台上でも立派な態度を保っていましたし、テュイルリーが最初に襲われたときにもあのような手合相手に毅然とした態度で交渉していたのは前に記載していた通り。

 優柔不断とは選択肢が複数ある場合に生じますが、逃げ道がない場合は一気に化けるタイプでしょうかね。王妃が裁判で採った態度はよく紹介されますが、国王の場合はあまり見ませんね。

 あと、国王の裁判に付いた弁護人は三明ですが、そのうちの一人は弁護人になったのが祟り、後に自分自身や秘書二名と共にギロチンで一家皆殺しとなっています。無茶苦茶な時代です。
返信する
Re:wrong time wrong place (mugi)
2018-02-11 22:19:56
>こんばんは、スポンジ頭さん。

 あの逃亡事件での危機感の無さには本当に驚きます。まさに遠足そのものだし、快適な馬車と食事を求めているのは、世の中知らずの王侯ゆえと思いましたが、プロヴァンスは成功している。この違いはいったい何でしょうね。
 そしてテュイルリー宮殿に暴民が押し寄せた時、一人で交渉して三時間も粘ったエヒソードは初めて知りました。これでは「情けないほどの弱虫、王らしからぬ王」とは正反対です。肝が据わっていなければやれないし、それもツヴァイクならば鈍感、無感動ゆえにとでも言いそうですね。さらに国王は海上分野に極めて強かったことも初めて知りました。

 私もツヴァイクレベルで批判する気には到底なれません。ただ、外国人の見方は違うようで、8月10日事件の対応を非難、「何が無実のうちに死ぬ、だ」と言っている人もいたのですね。過失が問われる対応だったのは確かでしたが。「wrong time wrong place」は言い得て妙ですが、生まれてくる時間や場所を選べないのが人間です。

 メアリー伝もツヴァイクの主観が露骨に表れているようですね。仰る通りメアリーはイングランド王位請求権を放棄しておらず、ヘンリー八世の私生児に過ぎないエリザベスより自分の方がイングランド女王に相応しい等の陰口を言っていたならば、警戒されて当然でしょう。実際にエリザベス暗殺を謀ったバビントン事件もあり、ウォルシンガムが功を奏した形です。
 それにしても、「もっといい王冠があれば躊躇なく取り替えていただろう」には驚きます。これに違和感を覚える日本人の方が、世界では少数派なのやら。

 メアリーは数か国語を話せた教養ある女性だったし、彼女の三番目の夫ボスウェルもかなりインテリでした。ならば詩のレベルが非常に高いのは当然でも、真贋論争があるものでしたか。
 スコットランド史には全く浅学ですが、イングランドに比べても貴族同士の権力闘争は内ゲバに近いように見えます。何故イングランドのように支配層がまとまらなかったか、不思議でなりません。エリザベスと違いメアリーの周囲に、セシルやウォルシンガムのような優れた臣下がいなかったのは不幸でした。尤もメアリーの場合、有能な臣下を使いこなせたのかは疑問です。
返信する
wrong time wrong place (スポンジ頭)
2018-02-11 08:59:39
 おはようございます。 

>本当は外国亡命ではなかったにせよ、「夜逃げ」では印象は最悪です。

 そうです。だから夜逃げするなら夜逃げらしくさっさと逃亡して欲しかった。ピクニックをやっている場合ではないでしょうに。プロヴァンスなんか逃亡に成功してますから、この危機感のなさは何かと。このやり方の拙さは頭を抱えたくなります。帰宅するまで遠足、と言う言葉がありますけれど、国王たちにこの言葉を送りたい。自分でももっとうまくやれると思った程です。それに、個人感情としてプロヴァンスが生き残った事が不快かつ残念でなりません。

>「いつもは耐えがたいその無感動が、決定的なこの瞬間にはルイ16世に一種の道徳的偉大さを与えるのである」「家族と別れるにあたって、情けないほどの弱虫、王らしからぬ王が、その一生に見せたことのない力と尊厳を実証したのである」

 こちらも、鈍感だから立派に見えた式の記述ですね(苦笑)。テュイルリー宮殿に押し寄せた暴民に対して国王が耐え抜いた時と同じ言い方。これも今回初めて知ったのですが、国王はフリジア帽を被るとか、酒を飲め、とか言う条件は受け入れたものの、根本的な条件、解任されたジロンド派大臣の復帰とか、拒否した法案の受け入れなどは徹底的に拒否し、一人で交渉して三時間粘ったところで、市長が現れやっと一段落ついた、と言うオチなのだそうです。こんな手合に対して一人で三時間も渡り合う勇気などありません。議会も怯えて状況を放置していたのですね。大体鈍感な人間が「余は恐怖を凌駕している」と言って交渉に臨むものでしょうか。

 要するにツヴァイクは賞賛したくないが実際賞賛せざるを得ない場合、捩れた言い方をしているように見えます。

  >ツヴァイクが何度も非難したように、やはりこの人物は国王や統治者には相応しくなかったのだ。
  >もちろん同情の余地ならあまりにもあり過ぎる。

 同情と批判は両立しますが、ツヴァイクはこと国王に関しては本当に情け容赦がないですね。ツヴァイクの作品を読むと、理由は何であれ逆らう人間が好きに見えるのですけれど、国王は流された感があるから駄目なのですかね。
 実際国王の場合、善意と優柔不断の相互作用で自分自身だけでなく、大勢の人間を無残な結末に叩き込んでますから、フランス革命のような激動期の君主に向かないのは確かです。外国のサイトを見たら、最後にテュイルリー宮殿が暴徒に襲われた8月10日の事件で国王が採った対応を非難して「何が無実のうちに死ぬ、だ」と言っている人もいましたし、事故の裁判に例えれば、過失が問われる対応、と言う意見もありました。確かになあ、と思わざるを得ませんでした。

 但し私の場合、とてもツヴァイクレベルで批判する気にはなれません。決して鈍感な人間ではないし、視察先の病院で入院者の悲惨な状況を見て涙も流すのに、何故、あんな無感動、無感覚な人物として造形をしたのか理解できません。

>もし兄が生きていれば王になることもなかったし、

 これも今回知りましたが、国王の長男の名前は亡くなった兄の名前を受け継いだものです。国王は両親のお気に入りで活発な兄の影をずっと背負い込んでいたのですね。個人的には海軍大臣、王弟ベリー公、ルイ・オーギュスト、と言うのを見たかった。実は国王、海上分野に極めて強く、この分野では優柔不断が発生しないので(だから食事と睡眠と狩猟と錠前製作にしか興味を持たないと言う扱いは誹謗レベルだと)。

 また、外国のサイトで国王を指して「wrong time wrong place」と言っていましたが、その通りと思います。絶対王政の時代でも、祖父の時代なら天寿を全うし、国家を繁栄させることが出来たかもしれません。

 >ツヴァイクのメアリー・スチュアート伝も未読ですが、読んだ人の話によれば、「エリザベスがメアリーを虐めたのは、精神的、肉体的な抑圧からくるヒステリー症状だ」と貶していたとか。

 ここでもエリザベスの「女性としての肉体的欠陥」を出してました。ツヴァイクはこの手の「心理学的分析」が非常に気に入っているようです。要するに、エリザベスが子供を出産できるような肉体を持っていたら、あれほど敵意を持たなかったはずだ、と主張しているのですね。何でもメアリーがエリザベスにこの手の手紙を出したとかで、ツヴァイクははっきりと内容を書いていませんでしたが、どのようなものか仄めかしていました。エリザベスの場合は幼少からの苦難の連続で、イングランド王位請求権をメアリーが放棄していないから故の防御作用だと思うのですが。

>そしてメアリーが、スコットランド国に愛着を持っていなかったことは知りませんでした。母親がフランス大貴族だし、子供時代からフランスで暮らしていたため、野蛮なスコットランドには愛着が持てなかったのやら。

 ツヴァイクが書いていたのですよ。「もっといい王冠があれば躊躇なく取り替えていただろう」と。このメアリーの考え方には驚きましたが、国家レベルで政略結婚を繰り返してきた欧州と、その土地で基本的にずっと領地経営をしてきた日本人の感覚とは異なるのですね。

 たしかに、スコットランド貴族は野蛮で利害関係でお互い集合離散を繰り返して殺し合い、読みながら同時代の日本の戦国時代の方がましだと思った程です。殺し合いの結果、最後はメアリーと対立した領主たちも残ってなかった、とツヴァイクは語っていました。

 ツヴァイクはメアリーが三番目に結婚した相手に対して書いたという「小箱の手紙」と言うのを出してきて、詩のレベルが非常に高いから本物だと主張し、その詩に書かれている相手への情熱を称揚していました。この辺り、フェルセンとマリー・アントワネットが最後にテュイルリー宮殿で会った晩の内容を主張するのと同じ発想だと感じました。この人は、許されない状況で燃え上がる愛とか情熱とか非常にお気に入りなのですね。ちなみに、この手紙集、英語のウィキを見たら、真贋論争が今でもある、とのことでした。
返信する
Re:雑感 (mugi)
2018-01-28 22:01:10
>スポンジ頭さん、

 wikiにもこんな記載がされています。
「ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた」「最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ (Montmédy) の要塞に決まった」。地図を見ると本当に国境の町でした。

 本当は外国亡命ではなかったにせよ、「夜逃げ」では印象は最悪です。実際に国外に逃亡した王侯貴族も多かったし、オーストリア女の実家を当てに逃亡したと思われるのは当然でしょうね。この出来事は「衝撃をもって喧伝された」ため、国王の海外逃亡と喧伝した革命側の新聞は多かったと思います。

 ツヴァイクのメアリー・スチュアート伝も未読ですが、読んだ人の話によれば、「エリザベスがメアリーを虐めたのは、精神的、肉体的な抑圧からくるヒステリー症状だ」と貶していたとか。そしてメアリーが、スコットランド国に愛着を持っていなかったことは知りませんでした。母親がフランス大貴族だし、子供時代からフランスで暮らしていたため、野蛮なスコットランドには愛着が持てなかったのやら。
 貴方は違うようですが、それでもメアリーは男性に好まれますね。会田雄次氏も「私は女王のくせに本当の恋愛に生きようとしたメアリーが好きです」と言っていた。やはり恋多き美女に男性は弱いようで。

 ツヴァイクの性格か、書かれた時代の風潮の為かは不明ですが、歴史を後世から裁く傾向が強いように感じられます。
返信する
雑感 (スポンジ頭)
2018-01-27 22:09:16
 ヴァレンヌ事件ですが、実際はモンメディと言う場所に行こうとしていたのです。外国逃亡じゃなかったんですよ。外国に行くのは国王としてあり得ないと。

 ツヴァイクはメアリー・スチュアートの伝記を書いた際、彼女に非常に肩入れしているのが分かるのですが、彼女はスコットランド国に愛着を持っていなかったのです。責任感なら遥かにルイ十六世の方がありますよ。正直メアリー・スチュアートには同情しかねます。エリザベス女王の方がずっと交換が持てます。

 ツヴァイクは国王を非難しますが、歴史の渦中にある人物を、後世歴史を知っている人間が非難するのは限度があると思います。
返信する