その①、その②の続き
バスチーユ襲撃があった日、ルイ16世が日記に「何事もなし」と記していたエヒソードは世界史好きの間には知られている。マリー・アントワネットとの結婚の翌日も同じ一文を書いているが、公私ともに重要な日にも関わらず、この文句は何とも意味深いものを感じる。
実はバスチーユ襲撃前に国民議会から続々と使者がやって来て、パリの不穏な空気を伝えていたのだが、報告を受けても国王は適切な決断を下さなかった。ツヴァイクはバスチーユ襲撃日の王を辛辣にこう描く。
「例によって、無精で粘液質の、何ごとにも好奇心を示さないこの男は(明日にはきっと時機を失せずに何もかも聞けるだろう、と)十時には床につき、いかなる世界史的事件によってもゆさぶられることのない、鈍感な、昏々たる眠りにはいるのだった」(207頁)
革命への対応についても、ツヴァイクは皮肉混じりに批判する。「国王ルイ16世に禍したのは彼が革命を理解できなかったということではなく、その反対、つまり、この凡才が革命を理解しようと涙ぐましい努力をしたということなのである」(208頁)。例としてルイ16世の歴史好きを指摘、彼が王太子時代からの愛読書がデイヴィッド・ヒュームの『イングランド史』だったことを挙げている。殊に革命により処刑されたチャールズ1世の非命には深い印象を受けていたそうだ。
社会情勢が険悪化すると彼はこの箇所を反復熟読、これを反面教師にし、どうすれば一身の安全を保てるかを沈思した。その結果、大勢に逆らわず、譲歩によって危険を回避するのが良策だ、と信じるに至った。譲歩すれば革命は沈静化する、と安易に期待したのだ。これを以ってツヴァイクはこう述べる。
「しかしまったく種類のちがう革命から類推してフランス革命を理解しようとしたこの態度こそ、彼の禍を招いたものにほかならなかったのだ。というのは、支配者たる者は、世界史的な瞬間に、干からびた処方箋やいつも通用するは限らない先例に従って判断をくだしてはならないからである。天才の予言者的な眼光のみが、現在にあって、救いをもたらす正しい手段をさとることができ、英雄的に前進する行為のみが、混沌として迫ってくる荒々しい原始的なものの力をおさえることができる」(208-9頁)
バスチーユ襲撃の翌日、パリは極度の緊張状態となり、暴徒たちが街に繰り出しては気勢を上げる。市常任委員会と国民議会はこれに対し、国王がパリを訪問、今回の事変についてパリ市を処罰せぬことを公約する必要がある、とルイ16世にこもごも力説した。その結果、国王は王妃が反対したにも拘らずこれに同意、バスチーユ襲撃から3日後の17日、パリを訪問する。この時ばかりは最後まで諌止するアントワネットの訴えに耳をかさなかった。
パリを訪問したルイ16世は、捧呈された赤青白の三色章の帽子をにこやこに受け取り、直ちに被った。彼はバスチーユ司令官虐殺者を処罰することもなく、革命の三色章を着用することにより、テロや暴動を容認、合法化したも同然だった。
三色章を付ける国王に群衆は歓呼する。だが外国大使らは、国王万歳よりも国民万歳のほうが圧倒的に強かったのを注意深く見ていた。民衆が歓呼を浴びせているのは実は国王ではなく、支配者をこうも屈従させるに至った自分たちの力に歓声をあげていたのである。つまり、人民の勝利であり、国王の屈辱だったのだ。当時駐フランス公使を務めていたトーマス・ジェファーソンは、本国政府に次の報告をしている。
「こういうのを名誉ある罰金とでもいうのか。どんな君主も払ったことがないし、どんな人民も貰ったことがない」
「7月14日にルイ16世は、バスチーユを失った。次いで17日には自分の尊厳まで投げ捨てて敵の前で深く身をかがめたために、王冠が頭からころげ落ちてしまったのである」(213頁)と書くツヴァイク。彼は先に、「ルイ16世の悲劇は、教科書でも調べるように歴史を調べて、自分には理解できないことを理解しようとし、王者らしい態度をびくびくしながら捨てて、革命から身を守ろうとしたことにある」(209頁)と断じているのだ。
歴史作家による上記の意見は、歴史から学ぶということがいかに難しいか、よく表れていると思う。チャールズ1世はルイ16世よりも150年ほど前に処刑された英国王だが、国情の違いや当人の資質もあり、英国史の知識は役立つどころか禍を招くことになったのだ。歴史に学べ等と云うスローガンの何と虚しいことか。
同じく国王を処刑したにも拘らず、立憲君主制が現代まで続く英国と完全な共和制になった仏国との違いも興味深い。
その④に続く
NHKBSの古代ローマ特集は録画しましたが、まだ見ていません。同日にポンペイ特集も放送していて、こちらは見ました。ポンペイ特集でも当時の施設や家屋の装飾や調度品、円形闘技場などが紹介されていましたが、その高レベル文明に改めて感心させられます。
ゲストに「テルマエ・ロマエ」原作者が出ていたので、当時のテルマエの解説もありましたが、現代日本のスーパー銭湯以上ですよ。これほどの入浴文化がキリスト教によって消滅したのは本当に惜しい。
近頃の研究ではネロは再評価されているのですか。ネロが暴君にされてしまったのは当時の記録だけではなく、キリスト教徒迫害皇帝第一号だったことが大きいようです。ネロ以上にキリスト教徒を迫害した皇帝はいましたが、ネロが最初だったため、キリスト教が根付いてからアンチキリストの代名詞になりました。
『ローマ人の物語』でもネロは、芸術やスポーツを好んでいたことが記されていました。ただ、芸術レベルは「下手の横好き」に近かったとか。
私的にはキリスト教徒迫害よりも母殺しの方が罪が重いと思います。ネロの母はローマ史きっての悪女ですが、このような母を持ったネロもある意味悲劇でしょう。
NHKの衛星放送でローマ帝国の歴史をしていました。当時の装飾を施した探検や、円形闘技場の話が出ていました。到底2000年以上前の文明とは思えません。この番組ではありませんでしたが、金持ちは床暖房があり、窓ガラスが窓に嵌った邸宅に住んでいたのだそうです。現代じゃないですか。
その番組で驚いたのは、近頃の研究だと皇帝ネロが善意の統治者とされている事です。大規模な戦争がないのは外交の評価点、そして、特権階級と民衆の経済格差を埋める努力をしていたと言うのです。しかし、それ故に元老院の支持を失い、悪い記録のみ残ったのだと。確かに、当時字が書けるのは特権階級です。
もし、この評価が本当なら、2000年ぶりの復権です。子供の頃読んだSFジュブナイルで、タイムパトロールが失脚したネロと会話する場面があります。そこに登場するネロは、スポーツマンで芸術家で、良心で統治をしようとした人間でした。当時は創作として読んでいましたが、まさか、小説と同じ話が研究で出てくるとは思いませんでした。
現代の共産中国でも政府高官以下ネット民もこぞって、条約など紙きれというお国柄ですから。条約を守る考えは端からないのでしょう。確かに息子の方が父より罪が軽くても、2度も違約を行ったので金は過酷な対応をしたと思います。
一応易姓革命が認められ、前王朝なら幾らでも批判できますが、やはり宦官や佞臣に厳しいという印象があります。前王朝の皇帝を批判すれば、現皇帝としていることは変わりない……という事態にもなりますし。
フランスの大物政治家の中にはサルコジとは反対の見方をする人もいます。それでも未だにツヴァイクの評価がまかり通っているのは残念。再評価が定着するとしてもまだ先でしょう。
日本の学者も金に対する宋の違反を指摘していました。蛮族に不誠実でも構わないと判断したのは確かでしょう。ただ、父親よりはまだ罪が軽いでしょう。
> 中国史では基本的に皇帝は悪くないのに、全て宦官や佞臣が悪いとする歴史解釈が主流なのでしょうね。
水滸伝は宋朝に忠誠を誓う山賊、だから他の犯罪者と異なる、という話です。徽宗が悪人だと、話の構造上成り立たなくなります。それに、一応易姓革命が認められている国ですから、現政権以外なら批判はされていると思います。
>元フランス大統領サルコジさえ、「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」と言ったほどなので、
フランス語のウィキだと、一応再評価本を記した歴史家が複数並んでいました。これからその評価が定着するかどうかは分かりませんが、ツヴァイクの評価だけを評価としないで欲しいとは思います。
確かに旅三昧でも格安パックツアーではなく、皇妃としての優雅な旅でしたからね。マリー・アントワネットは旅行三昧はしなくても、プチトリアノンで少数のお気に入りと農民ゴッコや芝居に興じていた。後者は時代も悪かったと思います。
重昏侯とされたのは息子の欽宗で、徽宗は昏德公でしたか。確かに徳に昏い人物ですね。欽宗は父ほど日本では知られていませんが、官人の強硬論に影響されたといえ、息子の方も金に対し違約を行っています。
中華思想ゆえに蛮族には不誠実でも構わないと判断したのかもしれませんが、宋の皇族女性への酷すぎる扱いもそれが影響していたのやら。
中国史では基本的に皇帝は悪くないのに、全て宦官や佞臣が悪いとする歴史解釈が主流なのでしょうね。天啓帝が政治を任せた魏忠賢はwikiで見たら、とりわけ悪辣な宦官のようです。
魏忠賢は極めつけのワルですが、その専横を許したのは皇帝に外なりません。元フランス大統領サルコジさえ、「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」と言ったほどなので、中国のネットユーザーが趣味のために重税を掛けた暗君と見るのは無理もありません。
ただ、皇妃としての特権を持ってですからねえ。そうなると、別に旅行三昧でもなかったマリー・アントワネットが批判されるのはやり過ぎの感があります。
あと、徽宗のウィキを見直したら、重昏侯とされたのは息子の欽宗で、徽宗は昏德公でした。尤も、別に名称が違っても低レベルな点は変化ありません。徽宗は駄目ですが、欽宗は皇帝になったばかりで拉致ですから、その辺りは気の毒です。
水滸伝で徽宗は本来英明なのに悪辣な側近に目を眩まされていると言う設定ですが、実際は自分が悪政の親玉だった、と言うオチでした。上の人間が腐っていると、反乱を起こすしかありませんね。
宋の金に対する態度は不誠実ですし、中世は暴虐な時代ですが、皇族女性の運命は中世でも過酷過ぎると思えます。
明国の皇帝に天啓帝と言うのがいるのですが、この人の趣味は細工物の作成です。それだけなら良いのですが、政治を悪辣な宦官に任せたので政治は荒廃、そして清(この時代は後金)が勢力を増大する下地を作りました。見事な暗君です。
中国のサイトを見ていたら、この人とルイ十六世を趣味の点で同一視する書き込みがあり、「違う!」と思いました。少なくとも、国王が明国皇帝なら過酷な政治をしたり、自分の趣味のために重税を掛けたりしませんよ。宮廷費用の削減もしたでしょうし。
ルートヴィヒは実は政府要人に暗殺されたという説もありますが、状況からも無理心中を図ったとしか思えません。巻き込まれた医者は堪りませんが、「狂王」だからあまり非難されませんよね。
確か宝塚でもエリーザベトは舞台化されました。仰る通り中世ならのんびり旅もできませんし、近代の平和があったために旅行三昧がやれた。宮廷から逃げ出したくなる気持ちは分からなくもないですが、皇太子の心中も母の不在が影を落としていたのやら。
徽宗皇帝の桃鳩図は高校の世界史教科書に載っていました。文化人としては申し分なかったにせよ、まさに暗君でした。蛮族と見下していた金国皇帝に「重昏侯」という称号を与えられ、同情する漢族はいないでしょう。
徽宗皇帝親子には同情しませんが、拉致され、金国で性奴隷にされた皇族や貴族の女性は気の毒としか言いようがありません。
今なら、「一人で○ね!」とネットに書き込まれますね。医者やその身内にとっては大迷惑です。ルイ十六世は自殺を卑劣な事と見ていました。この点は国王の方が精神的に強いですね。ルートヴィヒの側にいるのは危険です。
> 無責任と言えば、ルートヴィヒが唯一心を許した女性エリーザベトも同じです。
彼女を主役にした芝居もありますね。ただ、中世なら即侵略されて悪評が立つだけでしょうから、まだ平和で余裕があるから同情されたと言えます。
宋帝国の徽宗皇帝は趣味の資金を捻出するために増税し、金国に二枚舌を使ったため、最後は金国に親子ともども拉致されそこで没しました。徽宗も趣味で国を傾けましたが、こちらに同情する人など聞いたことがありません。やはり民衆を絞るまでに至った事、外患を呼び込んだ事が原因かと思われます。金国皇帝に「重昏侯」と言うひどい称号を与えられたと言いますが、納得してしまいます。
確かに犯罪の経緯やその動機の解明も「後知恵の学問」に含まれますが、歴史と違い同時代を扱っているので行動研究がとても参考になります。
国王は子供の頃からヒュームの本を読んでいましたか。読書家であれば英国史を読んで役立てようとしたことは考えられますが、断言するには文献とか根拠が不可欠です。しかし作家だから許されてしまいますよね。
暗君と狂王では印象がかなり違いますよ。アタマは正常でもウマシカの前者に対し、後者は文字通り狂ってるので仕方ない……という見方があります。
ルートヴィヒの趣味は高尚でも国を傾けたのだから、ルイ16世とは比べ物にならないほどの暗君です。その死は未だに解明されていませんが、医師を道連れに自殺したと見る人は多い。これでも同情されるのは理不尽です。祖国が流血の事態にならなかったのが大だった?
無責任と言えば、ルートヴィヒが唯一心を許した女性エリーザベトも同じです。帝国情勢が不安定なのにしょっちゅう旅行で不在でした。国政は全て国王に任せ、旅先で無政府主義者に刺殺されますが、これで同情されるヒロインになりました。
歴史は後世から見た行動研究ですから。似たようなものに犯罪の経緯やその動機の解明もあります。
> ツヴァイクの描き方では死刑評決のずっと前から英国史を読んでいたような印象ですが、後では本から革命への対処を学ぶことは無理です。
子供の頃からヒュームの本を読んでいましたから、当然英国史も読んでいたはず。ただ、私の狭い知識だと、英国史を読んで役立てようとしたと言う話はツヴァイク以外読んだことがありません。ツヴァイクは断言していますが、文献とか根拠はあるのでしょうか。
> 革命の動乱やフランスの混乱は自分の努力が足りなかったからか、と国王がクレリーの前で嘆いていたことは初めて知りました。
そうです。家族の運命や自分を頼りにしている人たちに対する心配をクレリーに向かって述べ、努力不足だったのか、と嘆くのです。ツヴァイクは国王が無自覚に王座に座っていたと言う言い方ですが、実際は違いました。翻訳物は翻訳者の表現にかなり左右されますが、ツヴァイクの国王の描写は、精神の働きが常人より乏しく、単に労働で肉体を動かしているだけの人物にしか見えないのです。
>容貌に恵まれていると、テーマパークみたいなお城に引きこもり、現実逃避しまくりの暗君でも「狂王」となります。
ルイとルートヴィヒは同じ名前ですが、容姿は比較になりません。そして、ルートヴィヒは個人の趣味で国を傾けましたが、高尚な趣味ですから大勢の人に迷惑を掛けても同情されるのです。
ウィキを見たら、ノイシュヴァンシュタインは王室費で建設を始めたものの資金不足で借金し、更にバイエルンの国庫から負担させようとして政府と対立したとあって呆れました。個人の趣味での浪費ですから、完璧に暗君です。無責任過ぎます。前任者の失政を背負い込んで何とか打開しようとしたルイ十六世が笑いものになるのは理不尽です。
それに、マリー・アントワネットが非難される理由も分からなくなってきました。彼女の贅沢が国を傾かせた訳ではありません。彼女の費用は夫が支払うのですから、王室費の範囲内です。結局、バイエルンが何とか踏み留まって流血の事態にならなかったから、ルートヴィヒは同情されるのでしょうか。
19世紀におけるドイツ歴史学会のフランス革命の認識は興味深いですが、もしピューリタン革命で国王側が譲歩し、逆にフランス革命はあまり譲歩しなかったとしても、国王処刑には至らなかったのやら。結局歴史は後知恵の学問だと思いました。
ツヴァイクの描き方では死刑評決のずっと前から英国史を読んでいたような印象ですが、後では本から革命への対処を学ぶことは無理です。
革命の動乱やフランスの混乱は自分の努力が足りなかったからか、と国王がクレリーの前で嘆いていたことは初めて知りました。とかく暗君呼ばわりされるルイ16世ですが、国王の矜持は持ち合わせていましたね。本人は努力したにせよ、最悪の事態となったのは悲劇です。
そしてタンプルに来てから何と250冊の本を読みましたか!元から読書家にせよ、これはすごい。ルイ16世くらい見かけによらない人物は珍しいかも。容貌に恵まれていると、テーマパークみたいなお城に引きこもり、現実逃避しまくりの暗君でも「狂王」となります。
> 社会情勢が険悪化すると彼はこの箇所を反復熟読、これを反面教師にし、どうすれば一身の安全を保てるかを沈思した。
大学名は失念しましたが、とある大学の紀要がネットで公開されており、その内容は19世紀におけるドイツ歴史学会のフランス革命の認識に対するものでした。その中で、ピューリタン革命は国王側が譲歩しなかった事、フランス革命は譲歩しすぎた事が国王処刑に至った理由とドイツの歴史学会は考えていたとありました。そして、クレリーの記録によると、第一回目の死刑評決後、国王はクレリーにヒュームの英国史を持ってこさせるのですが、それはチャールズ一世が処刑された部分でした。だからツヴァイクは英国史を読んで革命に対処したと言う考えを記したのだと思いました。
意見としては妥当ですが、それを自分の意見としてではなく客観的な内容として断言するのは違う気がします。
しかし、死刑評決後、同じ身分、同じ運命の人間の話を読むのは本当に切実なものがあったでしょう。革命の動乱でフランスが混乱する事を、自分の努力が足りなかったからかと国王がクレリーの前で嘆く記録があります。後世から見ると、努力の方角が間違っていたと分かるのが悲しい事です。
全く関係ありませんが、英国史を持って行ったと言う記録に続けてクレリーが書いているところによると、タンプルに来てからルイ十六世は250冊の本を読んだと言います。裁判に忙殺された事も考えると、かなりな読書量です。貴族たちから下品と評され、リーニュ公から酷評を受け、どう見ても暗君にしか見えないあの肖像画の人物からは考えられない行動ですね。行動・容姿と中身の落差が何とも。
国王がギボンのローマ帝国衰亡史を一部翻訳したことは初めて知りました。大変な読書家で数多くの歴史書を読んでいたはずだし、仰る通り、ヒュームの英国史だけを指針としたという根拠はないですよね。結局ツヴァイクは「こうだったに違いない」と思い込んだ?
国王の愛読書の一つはロビンソン・クルーソーでしたか。私も納得します。
ちなみに、国王の愛読書の一つはロビンソン・クルーソーなのです。何となく分かります。
ツヴァイクは伝記の資料文献を挙げていませんが、これ以外にはヒュームの英国史を読んでいたというエピソードはなかったのですか??9歳の頃から原書でヒュームの哲学書を読むほどなので、英国史を読んでいても不思議はありませんが、こうなるとツヴァイクの誤解か、或いは「創作」なのやら……
現代から見れば日本の勝算は皆無だったのは判りますが、当時は案外そう思われていなかったのかもしれません。欧州知識人の間には黄禍論が蔓延っていたし、シンガポール陥落はツヴァイクを絶望させたことでしょう。ガンディーやネルーも戦争初期は日本が勝利するかもしれないと思っていた節があり、まして南米にいたツヴァイクが読み違えても無理はありません。
ヒュームの英国史を読んだ結果失策を招いた、と言う話ですが、これって出典があるのでしょうか。初めてツヴァイクを読んだ時からずっと信じていましたが、ツヴァイク以外にこのような話を読んだことがありません。個人的には軍隊が当てにならない以上、妥協もありだと考えます。国民が貧困に苦しんでいるのに政権が崩壊しないのは、軍隊を政権が掌握している場合ですし。
また、これに関連して、ツヴァイクの自殺の引き金になった理由の一つはシンガポール陥落で、「日本が優勢」と言うものです。今から振り返ると日本がアメリカを戦争に引き込んだ時点で戦争の行方は決まっていて、どうシミュレーションしても勝利できません。当人を批評するのは非常に酷なのですが、ツヴァイクもまた歴史の行方を読み間違えており、二重の意味で考えさせられる部分です。
「Un Peuple et son roi」の国王は三白眼にもなるのですか。日本人にも三白眼はいますが、彫りの深い白人ではよりきつい印象を受けますよね。
映画は全編を見ないと分りませんが、やはりストーリーに相応しい役者を抜擢したのやら。
国王役はこの映画だと人物像に違和感がないらしく、映画に於ける人物像やその意図が更に分からなくなってきました。あの雰囲気で優柔不断なキャラクターになるとは思えませんし、テロリストの役でも不思議ではありません。
そして、マリー・アントワネットはあまり登場しないようで、民衆に焦点を当てたドラマになるのだと思います。
「リディキュール」という映画は初耳ですが、検索したらDVD化されていますね。アマゾンレビューはなかなか面白いですが、それにしても、ルイ16世はモロにバカ殿だし、隣の女は王妃または貴婦人らしい気品もなく、着飾った娼婦のようです。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB-DVD-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%B3/dp/B0000844F2
動画の紹介を有難うございます!動画「Un Peuple et son roi」での国王、ますますミスキャストに思えてきます。身長がほぼ同じでも、あの目つきではダントンにちかい。そして0:03辺りで登場する眼鏡をかけた人物はロベスピエールかもしれませんが、こちらの方が適役でしょう。
対照的に映画「フランス革命」の国王は、穏やかな表情で泰然自若としており、まさに王の風格が感じられます。ツヴァイクの描写とは正反対ですが、ルイ16世の解釈は昔とはかなり違ってきたようです。
http://www.cinemawithoutborders.com/2666-getty-film-series/#prettyPhoto
こちらは「Un Peuple et son roi」に登場する国王を集めた場面。処刑シーンの国王は説明がなければ、反政府運動で国家から弾圧されて処刑される政治犯に見えます。ダントン処刑と言っても違和感がないように感じます。視線が鋭く、とても「私を殺そうとした者を許す」と土壇場で演説する善人とは思えません。こんなルイ十六世ならフェルセンはセーヌ川に無残な死体になって浮かんでいそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=POxUUjm4WoA
この俳優、身長が189CMでほぼ史実の国王と同じなのですが、見た人の感想によると堂々としたルイ十六世を演じているそうで、20年の間に同じ役でも演出の雰囲気がここまで変化するものかと思いました。映画スタップの一人の歴史家(?)のインタビューもグーグル翻訳で読みましたが、あまりうまく読み取れなかったものの、マリー・アントワネットの影に隠れたり、大臣の言いなりになったりするような描き方はしないようです。
ちなみに、映画の「フランス革命」で国王が8月10日に閲兵する場面を見つけました。「無言で」閲兵して兵士から何か言われています。7:39から。あのツヴァイクの場面が疑わしくなってきました。
https://www.youtube.com/watch?v=heJ4TcmEUS8
「小説フランス革命」では、国王が裏表のある行動をしていたのは王権神授説を信じていたため、となっていました。佐藤氏の解釈は案外当っているかも。
ベルばらだとメルシーは、誠心誠意マリー・アントワネットに仕えた人物となっていますが、本当はその母に生涯仕え抜いた大使だったのですね。常にオーストリアの国益を考えていたとは、外交官の鑑のような人物でした。
「1789年―フランス革命序論」原著が3ヶ月程度で書かれたとはスゴイ。さらに邦訳も丁寧となれば、ますます読みたくなりました。文庫で出ているため、お手頃価格です。
>革命家同士を争わせ、内部分裂させ復権を狙うのです。それにしても、国王を弁護したドゥ・セーズが天寿を全うしたとは意外でした。
フランスの歴史家の中にも、国王が裏表のある行動をしていた、と考えている人物がいます。しかし、革命後、マリー・アントワネットのメルシー宛の手紙では国王の優柔不断に関して不満が述べられているので、どちらが主導権を持っていたのでしょうか。
そして、ミラボーに関する外国語のウィキを読むと、革命後、メルシーはオーストリアの利益になる観点から王妃に助言をしていた、との事で、メルシーの存在は王妃にとってどの程度まで利益になったのか考えさせられるところです。まさしく「マリア・テレジアに仕え抜いた」大使です。
フランス語のウィキを見ると、ドゥ・セーズも逮捕されたのですがテルミドールのクーデターで命拾いをし、王政復古後はルイ十八世により伯爵となったそうです。国王弁護は命がけですから当人は報われましたが、マルゼルブも助かればどれほど良かったか、と思います。
それにしても、「1789年―フランス革命序論」は訳者の仕事が丁寧で日本の読者に対して親切な本です。そして、原著が3ヶ月程度で書かれたとはとても思えません。これは著者の力量なのでしょう。もちろん、私の頭脳水準は別問題です。
やはり「1789年―フランス革命序論」でしたか。革命初期に活躍したバルナーヴが「フランス革命序説」を記していますが、彼も処刑されました。もしロベスピエールが書くなら、どんな記述になったでしょうね。
私が読んでいる『小説フランス革命』はハードカヴァー版で全12巻です。残り1冊ですが、11巻前半でエベール派が処刑、最後はダントンやデムーランもギロチンにかけられます。小説ではロベスピエールはデムーランの妻を愛していたという設定で、彼女を救えなかったことに号泣するシーンで11巻は終わります。
小説でもバスティーユ陥落後、国王側は革命側にチマチマ手続き上の嫌がらせをする箇所があります。革命家同士を争わせ、内部分裂させ復権を狙うのです。それにしても、国王を弁護したドゥ・セーズが天寿を全うしたとは意外でした。
「フランス革命序論」著者は19世紀後半の生まれだそうですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB
著者が死去したのは1959年ですが、「国王は錠前づくりと狩猟と大食以外に興味を持たず、政治的な感覚も鈍い人物」という認識なのはともかく、近年まで研究に値しない人物扱いというのは驚きました。いくらバスティーユ襲撃から3年半であっけなく処刑されたにしても酷すぎる。近年評価が変わってきたのは結構です。
「Un Peuple et son roi」の動画を見ましたが、面白そうですね。仰る通り国王の顔つきが険しすぎて、それまでのイメージとは違い過ぎるような……あの顔つきではミスキャストにも感じますが、実際に見ないと分りませんね。
ただ、バスティーユ陥落後、国王側は革命側にチマチマ手続き上の嫌がらせをしていて、これが国王自身の考えなのか、周囲の考えなのかどちらなのだろうと思うところです。
> 佐藤賢一氏の『小説フランス革命』11巻目を読了した所です。
とうとう次は革命第一段階の仕上げ、国王処刑ですね。これで済むと思ったら、恐怖政治の幕開けとなると言うオチです。それにしても、佐藤氏が参考資料にした「1789年―フランス革命序論」でも、国王は錠前づくりと狩猟と大食以外に興味を持たず、政治的な感覚も鈍い人物とされ(当時の歴史家の一般的な認識だったようです)、フランスのサイトを見ても近年まで研究に値しない人物扱い、と書かれていました。某巨大掲示板でも、「そこまで無能ではないのでは?」と言う条件付きで再評価が始まったのはつい最近とありました。それが今では啓蒙専制君主の一員となっている訳です。
しかし、革命によって打倒された前政権の最高権力者が「研究に値しない人物」扱い、と言うのもある意味凄いです。ルイ十六世の理系的側面って結構最近言われだしたのでしょうね。
>「1789年―フランス革命序論」へのアマゾンのレビューによれば、結果的に革命から最大の利益を得たのはブルジョワである、と著者が言っていたそうです。
結局、きちんと所有権が確立され、特権階級が富と実力を持ったブルジョアを抑えつけることができなくなりましたから。ただ、ロベスピエールが政権を一時期持ったことにより、今で言う生存権の確立もなされました。ブルジョアが一番の受益者ですが、ブルジョアだけが革命を指導していたのではなく、貴族・ブルジョア・都市民衆・農民が合わさった革命、と言うのがその認識です。
そして、今年公開されるフランス革命の映画で日本でも上映されると言う「Un Peuple et son roi 」。バスティーユ陥落から国王処刑までを描いた群像劇のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=rexq82lZ-hg
ただ、ここに登場する国王はスマートで顔つきが険しくこの前のフランス革命映画とイメージが異なるので、どのような人物像にされているのか興味があります。
https://www.imdb.com/title/tt7073522/mediaviewer/rm3287644416
「フランス革命序説」とはバルナーヴの著書でしょうか?「1789年―フランス革命序論」という書もありますが。
https://www.amazon.co.jp/1789%E5%B9%B4%E2%80%95%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%BA%8F%E8%AB%96-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%AB/dp/4003347617
ルイ16世治世の当初に「小麦粉戦争」と言う暴動が発生していたとは知りませんでした。検索したら、1775年4月フランスのパリ周辺地方で起った民衆反乱、とあります。
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E7%B2%89%E6%88%A6%E4%BA%89-66214
佐藤賢一氏の『小説フランス革命』11巻目を読了した所です。小説でもバスティーユ襲撃は突発的なものとして描かれているし、ミラボーに煽られたデムーランが檄を飛ばすという設定になっています。でも真の動機は恋人リュシルと結婚したいが故だった。
結果的にはバスティーユ襲撃は成功しましたが、デムーランも民衆も国王の軍隊に殺されると恐れていたのです。佐藤氏は参考文献のひとつに「1789年―フランス革命序論」を挙げていました。
「1789年―フランス革命序論」へのアマゾンのレビューによれば、結果的に革命から最大の利益を得たのはブルジョワである、と著者が言っていたそうです。
名は忘れましたが、歴史小説とは過去の設定で現代人を描くもの、と言った人がいます。歴史の分析も後世の視点と無縁なものは殆どないかもしれません。
リアンクール公の話ですが、やはり後世の創作としか思えません。と言うのも、「フランス革命序説」によると、バスティーユ襲撃自体突発的なものです。しかも彼らは王政打倒などとは当時考えていません。立憲君主制です。第一、ルイ十六世の治世の当初も食糧問題から「小麦粉戦争」と言う暴動が発生して軍隊で鎮圧し、「首謀者二名」を絞首刑にしています。暴動と思うのが自然でしょう。ツヴァイクの話にこの暴動は記されておらず治世の最初は全く平穏だったように思えますが、そうではないのですね。
また「フランス革命序説」によると、あのバスティーユ襲撃の時点では軍隊が寝返る可能性があり、暴徒鎮圧などできる状況ではなかった、バスティーユ襲撃を認めるかヴェルサイユから脱出するかの二択だったとの事です。何しろ王妃の取り巻きで軍司令官だったブザンヴァルが民衆のリンチで首を吊るされそうになり、ネッケルに助けられている有様です。だから、パリに出向くのもそこまでの悪手ではないと考えられます。
ベルばらではオスカルが「フランス万歳」と言って死亡しますが、あの時点では民衆側も国王の軍隊に殺されるのではないか、と激しく緊張していたそうです。世界が変わってしまった、と言うのは後の評価、ですからオスカルにあの言葉を言わせるのも後世の視点です。もちろん、ドラマ的には非常に正しい構成です。
どうしても、歴史の分析には後世の視点が無意識に入ってしまいますよね。この辺りは難しいところです。
例の日記は狩猟記録専用だったのですか??狩猟については事細かに記していたのは知っていましたが、狩猟記録ならば結婚式やバスティーユの件は「なかった」としか書きようがありませんね。ルイ16世の私生活を記した日記は他にはなかったのか、或いは処分されたのやら。
さらに国王は夕方頃バスティーユ陥落を知らされていたとは!ツヴァイクの作品だと、いかにもリアンクール公が眠りについた国王を不作法にも叩き起こした印象を受けます。単なる暴動ではないか、と言う王に対し、「革命でございます」と答えるリアンクール公は慧眼に思えますが、これも創作だった?
こうしてみるとツヴァイクの伝記は鵜呑みにはできませんね。中公文庫の世界の歴史、面白そうです。
この日記は狩猟記録なのです。だから結婚式やバスティーユの事が書いてなくてもおかしくはありません。その代わり狩猟に関する話は事細かに記されています。例の手術の有無の話もおそらくこの狩猟記録を元にして「なかった」と言う説が立てられているのです。そして、国王は夕方頃バスティーユ陥落を国民議会から知らされていたのです。
リアンクール公が国王の寝室にやって来て話をした、と言う件、これは息子が父親から聞いた話なのだそうですが、リアンクール公の慧眼を賞賛する目的か、国王を貶める目的かのどちらかで流布された話なのだそうです。
バスティーユ陥落情報を国王が知った時期及びとリアンクール公の話は、中公文庫の世界の歴史に記載されています。
「イタリアからの手紙」を見たら、ちゃんとトリエステの章にありましたね。すっかり忘れていました。塩野さんはツヴァイクの伝記は読んでいないと言っていますが、「世渡りの才能だけが優れていた」男の葬儀は何とも…。
そういえばプーチン評は未だにありませんね。ロシアにはあまり関心がないのやら。そして小説フランス革命はさほど性描写はそう過激ではなかったのですか。そう言われると、読んでみたくなりました。
プーチン評が塩野先生がないのですが、こっちはまだ品格ありとするのかなあ。
小説フランス革命は性描写はそう過激ではありませんよ。
「小説フランス革命」は気になりますが、作者は佐藤賢一だし、性描写過剰なイメージがあるため未だに読んでいません。これまた未読ですが、ツヴァイクのフーシェ伝は傑作だそうですね。
そして塩野さんがフーシェには辛辣な評価をしていたことは初耳です。同じマキアヴェリストでも、チェーザレと違いブサメンだったから?
ツヴァイクはジョゼフ・フーシェ(ナポレオン以降にひとですが)に同情的な伝記を書いていますが、塩野七生は辛辣な評価をしています。