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暫くぶりに塩野七生氏の書き下ろし長編を読了。氏の新作こそ『十字軍物語』(新潮社)、シリーズ第1巻目であり、古代ローマの次に取り組んだのが十字軍とは全くの予想外だった。この著書では第1回十字軍が描かれている。これまで私は中東の立場から十字軍関連書を読んだことがあっても、欧州側からの本は初めてのような気がする。中東の史観に影響されていたのは確かであり、欧州側から書かれた十字軍物語は興味深かった。
第1章名は「神がそれを望んでおられる」であり、次の一文で物語が始まる。
-戦争とは、諸々の難題を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考え(アイデア)である。と、ビザンチン帝国の皇帝からの救援の要請をもって西欧を訪れた特使を謁見した後に、法王ウルバン2世も考えたのかもしれない…
十字軍提唱者なので、中世といえウルバヌス2世はさぞ頑迷で狂信的な教条的聖職者と思いきや、フランス貴族の生まれで、カトリック教会の改革派として有名なクリュニー修道院で学んでいる。利発な彼は早くも上層部から目をかけられ、頭角を現すようになる。特に同じ修道院で学んだ先輩となる法王グレゴリウス7世に気に入られ、その右腕として活躍するに至った。
当時のカトリック教会上層部の考えていた改革とは、教会内部の腐敗や貧しい一般信者をいかにして救済するかということではなかった。人間社会の諸悪の解決は、それを神から託された聖職者階級がリードしてこそ達成されるという信念に立ち、その改革を推進しようとするローマ法王の前に立ちふさがる者は、たとえ皇帝や王でもキリスト教世界の敵であり、法王は破門により厳しく罰する権利と義務があるとなる。
つまり、宗教面に限らずキリスト教社会の全ての事柄は、ローマ法王が頂点に立つカトリック教会が指導し、世俗の君主たちは忠実にそれを遂行していればよい…ということである。これを「人間社会の修道院化」と呼んだ後世の歴史家もいるが、中世でも法王の命に従わなかった皇帝もおり、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世がそうだった。
この皇帝は「カノッサの屈辱」で時の法王グレゴリウス7世に屈したことで、日本の高校の世界史教科書にも載っている。法王に破門され、その許しを請うため降りしきる雪の中を立ちすくす皇帝。破門の威力は、された者と従来の関係を続ければ、その者も破門され、キリスト教徒の敵と見なされることにある。信心深い中世の人々ならば、家臣も兵士たちも破門された主人から離れるし、社会からの全面的な追放を意味したのだった。破門された者は葬儀も認められず、教会の墓地に葬られることもない。一応葬儀は出してもらった日本の戦時中の非国民とは、重さがまるで異なる。
ただ、「カノッサの屈辱」の後の出来事は日本の世界史教科書では触れられていない。これに懲りて皇帝ハインリヒ4世はすっかり法王に従順になったと思いきや、破門を解かれた後、直ちに仕返しを開始する。「カノッサの屈辱」事件以降のの8年間は皇帝は執拗に法王を追い詰め、ついに後者はローマを追われ、逃亡先のサレルノで没したことを『十字軍物語』で初めて知った。
グレゴリウス7世から1代置いて、ウルバヌス2世は法王に選出されるが、その時もローマにおられず、地位も安定してはいなかった。 1095年、十字軍を呼びかけた会議もクレルモンで行われた。
53歳になっていたウルバヌス2世は演説に長けていたらしく、前半と後半に分けて信者に呼び掛ける。まず前半では当時のキリスト教世界をおおっている倫理の堕落を嘆き、神の教えに背く利己的な行為が横行している現状を糾弾、このままでは神の怒りが下されると叱責する。異教徒の私からすれば、聖職者の説教とはいつの時代も同じパターンなのかと言いたくなるが、中世の信者なら効果は絶大だったろう。
法王は神の罰が下されぬために、「神の休戦」を提唱する。キリスト教徒同士なのだから、領土保全、領土拡大問わず戦争は止めにすべきだと説いたのである。前半までは至極真っ当な説教だったが、後半は非難の矛先が異教徒に向かう。キリスト教徒の間で“休戦”が実現したとしても、キリスト者にはまだ重要な仕事が残されている、と続けて。
そのⅡに続く
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第1章名は「神がそれを望んでおられる」であり、次の一文で物語が始まる。
-戦争とは、諸々の難題を一挙に解決しようとしたときに、人間の頭の中に浮かび上がってくる考え(アイデア)である。と、ビザンチン帝国の皇帝からの救援の要請をもって西欧を訪れた特使を謁見した後に、法王ウルバン2世も考えたのかもしれない…
十字軍提唱者なので、中世といえウルバヌス2世はさぞ頑迷で狂信的な教条的聖職者と思いきや、フランス貴族の生まれで、カトリック教会の改革派として有名なクリュニー修道院で学んでいる。利発な彼は早くも上層部から目をかけられ、頭角を現すようになる。特に同じ修道院で学んだ先輩となる法王グレゴリウス7世に気に入られ、その右腕として活躍するに至った。
当時のカトリック教会上層部の考えていた改革とは、教会内部の腐敗や貧しい一般信者をいかにして救済するかということではなかった。人間社会の諸悪の解決は、それを神から託された聖職者階級がリードしてこそ達成されるという信念に立ち、その改革を推進しようとするローマ法王の前に立ちふさがる者は、たとえ皇帝や王でもキリスト教世界の敵であり、法王は破門により厳しく罰する権利と義務があるとなる。
つまり、宗教面に限らずキリスト教社会の全ての事柄は、ローマ法王が頂点に立つカトリック教会が指導し、世俗の君主たちは忠実にそれを遂行していればよい…ということである。これを「人間社会の修道院化」と呼んだ後世の歴史家もいるが、中世でも法王の命に従わなかった皇帝もおり、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世がそうだった。
この皇帝は「カノッサの屈辱」で時の法王グレゴリウス7世に屈したことで、日本の高校の世界史教科書にも載っている。法王に破門され、その許しを請うため降りしきる雪の中を立ちすくす皇帝。破門の威力は、された者と従来の関係を続ければ、その者も破門され、キリスト教徒の敵と見なされることにある。信心深い中世の人々ならば、家臣も兵士たちも破門された主人から離れるし、社会からの全面的な追放を意味したのだった。破門された者は葬儀も認められず、教会の墓地に葬られることもない。一応葬儀は出してもらった日本の戦時中の非国民とは、重さがまるで異なる。
ただ、「カノッサの屈辱」の後の出来事は日本の世界史教科書では触れられていない。これに懲りて皇帝ハインリヒ4世はすっかり法王に従順になったと思いきや、破門を解かれた後、直ちに仕返しを開始する。「カノッサの屈辱」事件以降のの8年間は皇帝は執拗に法王を追い詰め、ついに後者はローマを追われ、逃亡先のサレルノで没したことを『十字軍物語』で初めて知った。
グレゴリウス7世から1代置いて、ウルバヌス2世は法王に選出されるが、その時もローマにおられず、地位も安定してはいなかった。 1095年、十字軍を呼びかけた会議もクレルモンで行われた。
53歳になっていたウルバヌス2世は演説に長けていたらしく、前半と後半に分けて信者に呼び掛ける。まず前半では当時のキリスト教世界をおおっている倫理の堕落を嘆き、神の教えに背く利己的な行為が横行している現状を糾弾、このままでは神の怒りが下されると叱責する。異教徒の私からすれば、聖職者の説教とはいつの時代も同じパターンなのかと言いたくなるが、中世の信者なら効果は絶大だったろう。
法王は神の罰が下されぬために、「神の休戦」を提唱する。キリスト教徒同士なのだから、領土保全、領土拡大問わず戦争は止めにすべきだと説いたのである。前半までは至極真っ当な説教だったが、後半は非難の矛先が異教徒に向かう。キリスト教徒の間で“休戦”が実現したとしても、キリスト者にはまだ重要な仕事が残されている、と続けて。
そのⅡに続く
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イスラム関連について清水義範先生(パスティーシュ小説家)の時代まではあまり教えていなかったようですがオイルショック後はけっこう教えていたようです。
いまは世界史がかすかすになっているのでここまで習うのは旧帝大とか早慶をまともにねらう層だけかもしれません。
拙ブログを読まれて楽しんで頂けたなら、ブロガー冥利であり幸いです。今後とも何卒よろしくお願い致します。
あなたのリンク先に目を通しましたが、地方都市と違い、さすが渋谷の美容室は違いますね。今年はあなたの美容院がさらに発展されますように。
塩野氏も書いているように、私の持っている高校世界史教科書(山川出版社)にはカノッサの屈辱後の歴史は載っていませんでした。私が世界史を学んだのもオイルショック後ですが、担当教師はあまり中東には熱心ではなかった。むしろイスラエル建国の背景について、強調していたのを憶えています。