トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

マリー・アントワネットの子供たち その三

2015-10-18 21:10:04 | 読書/欧米史

その一その二の続き
 マリー・アントワネットの第一子で、唯一生き残ったマリー・テレーズも苛酷な人生を送った。マリー・テレーズの両親が処刑された同じ年の12月、彼女は15歳の誕生日をタンプル塔で迎えている。既に同年7月、弟ルイ・シャルルとは引き離されており、叔母エリザベート内親王と2人との監禁生活だったが、その叔母も翌年5月に処刑された。マリー・テレーズは叔母の死後、1人で誰ともほとんど会話をすることのない幽閉生活を送る。彼女が暮らした部屋の下にはルイ・シャルルが幽閉されており、弟の泣き声がよく聞こえてきたという。
 フランス革命下、マリー・テレーズは“カペー嬢”と呼ばれた。弟ほどの身体的暴力は受けなかったにせよ、酔った牢獄の監視人たちからは罵詈雑言を浴びせられたのもしばしばだったそうだ。

 ロベスピエール処刑後、マリー・テレーズの待遇も良くなり、1795年、ついに国民公会は彼女の幽閉を解く。その年の暮れ、彼女はオーストリアに捕われたフランス人捕虜との交換で、母の母国に送られた。釈放近くになり、マリー・テレーズは母や叔母の処刑、弟の死を知らされ卒倒したという。その間の2年ちかい独房生活で彼女は失語症状態となり、発声異常は生涯治ることはなかった。
 オーストリア亡命後の1799年、マリー・テレーズは同じ亡命王族である従兄アングレーム公(父はアルトワ伯爵、後のシャルル10世)と結婚する。ブルボン王族が亡命先で王政復古と祖国帰還を目指していたのは書くまでもなく、マリー・テレーズはオーストリアに落ち着くことなく、欧州各地を流転する。そして1814年、ついにフランスに帰国した。

 王政復古で義父がシャルル10世としてフランス国王に即位すると、息子夫妻は王位継承者となり、マリー・テレーズは王太子妃となる。しかし、苛酷な牢獄生活を送った彼女はすっかり無愛想で陰気な性格となり、加えて保守反動の姿勢で民衆から嫌われた。結局、この反動的な王政復古は7月革命を招き、またしても国王一家は他国に亡命する。マリー・テレーズは2度とフランスに帰国することなく、ウィーン郊外で没した。夫との間に子供はなく、マリー・アントワネットの直系の血筋はここで絶える。

ベルサイユのばら大事典』(集英社)というムック本があり、ベルばら連載開始30周年記念と銘打って出版されている。この中で池田理代子氏はマリー・アントワネットの子供たちを、「謎の多い子供たちだなあ」と述べていたが、やはりルイ・シャルルの惨死についての話はない。おそらく氏はルイ・シャルルの死の真相を知っていたと私は見ているが、実に奇妙なことだ。
 タンプル塔から解放されたマリー・テレーズ、ここで死んだルイ・シャルルは別人だったという説もあるが、現代まで立証はされていない。

 先日「スポンジ頭」さんから、「フランス革命はなぜ過大評価されるのか」という掲示板を紹介して頂いた。フランス革命について熱い議論が繰り広げられていて面白かったが、「スポンジ頭」さんは、この掲示板から次の書込みを引用している。

>112: 世界@名無史さん 2007/01/30(火) 21:32:50 0
◎そこに衝撃を与えたのがテーヌの「近代フランスの起源」
これまで革命の残忍な部分は多くは隠されていて、仕方なく出す場合でも輝かしい正当化をともなって叙述されることが多かった。
(中略)
第一部はアンシャンレジーム期記述の名著として「日本」でも翻訳済み。肝心の残虐描写イパーイの二部だけなぜか「日本」ではカットされてしまったが

 テーヌという人物を初めて私は知ったが、「スポンジ頭」さんは続けてこんなコメントをしている。
コメ114にも残忍な描写のフランス革命本が未訳であることが記されています。日本ではある種の思想があるので、この手の「革命」の暗部は知られたくないのかも知れません

 件の掲示板には、「スポンジ頭」さんと同じ見方をするコメントもあった。
117: 世界@名無史さん 2007/01/30(火) 21:48:13 0
>>肝心の残虐描写イパーイの二部だけなぜか「日本」ではカットされてしまったが、もちろん「日本」では未訳。

日本では「ピューリタン革命」と呼ばれている事件は、イギリス本国では「諸内戦」と呼ばれている。イギリスでこれを革命と呼ぶのはごく一部の歴史家だけ。日本における西洋史の紹介・翻訳の仕方を見ていると、ある種のイデオロギー・党派性が反映されているのではと疑いたくなってくる。  

 この傾向は西洋史のみならず、私の関心のあるインド・中東史も事情は全く同じなのた。この分野でもある種のイデオロギー・党派性が反映されており、主流から外れた者は学界での居場所が得にくい。「中東問題」は「日本問題」である、と喝破したのは池内恵氏だが、西洋問題も案外日本問題だったりするかも。

よろしかったら、クリックお願いします
人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログへ



最新の画像もっと見る

14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
残虐ですね。 (ハハサウルス)
2015-10-20 21:07:16
こんばんは。

今回の記事を読ませて頂き、ルイ・シャルルのその後を知って驚きました。『ベルばら』での最後しか知りませんでしたので、私も「自分の母親を忘れるなんて…」と思った覚えがあります。悲惨な最期だったんですね。どうしてそこまでできるのでしょう。

マリー・アントワネットというと、ヴィジェ・ルブランの描いた肖像画の華やかなイメージが浮かぶのですが、一方でダヴィッドが描いた処刑台に進む際のスケッチも印象に残っています。こちらはまるで老婆のような感じで、革命側であったダヴィッドのアントワネットに対する感情も入っているのかなっと・・・。とても同じ人物とは思えない程の違いですが、毅然とした表情は描かれています。

あまり西洋史に詳しくないのですが、フランス革命には良い印象がありません。別に王政側の肩を持つ訳ではないのですが、暴力による恐怖政治という意味で「テロリズム」という言葉が使われるようになったのは、フランス革命(ロベスピエールの恐怖政治)からということもあり、フランス革命というと「血生臭い」イメージが強いのです。今回のmugiさんの記事で、その思いが更に強くなりました。

歴史に暗部は付き物ですが、「勝てば官軍」的な記述、思想により取捨選択された記述ばかりが残るのはどうかと思います。
返信する
Re:残虐ですね。 (mugi)
2015-10-21 21:58:20
>こんばんは、ハハサウルスさん。

 やはり貴女も『ベルばら』での描き方を不審に思われたのですね。8ヶ月の赤ん坊ではあるまいし、8歳にもなって自分の母親を忘れるのは子供心にもおかしいと感じました。ツヴァイクが伝記で触れなかったのも不可解だし、池田氏の解説も奇妙でした。

 貴女は以前、「何で読んだかは忘れましたが、「あっ池田理代子って、左よりなんだ!」と思った瞬間があって、それ以来私の中の評価は下がりました(笑)」というコメントをされていました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/0dab082a8af73c5f51473f13c5148bdc#comment-list
 ひょっとして、フランス革命の暗部への意図的な隠ぺい?と疑いたくなります。私の高校時代の歴史の先生も、フランス革命をとにかく持ち上げていましたね。70年代はそんな時代でしたが。

 ダヴィッドの描いたアントワネットのスケッチは凄みがありました。40前なのに容貌は殆ど老婆でしたが、仰る通り毅然とした表情と意志の強さははっきり表れています。対照的にロベスピエールは、処刑される前にギロチンを直に見て、気を失ったという情けない逸話があるとか。
 もちろんベルばらにも、1794年までにアントワネットが処刑された革命広場で、2,600人もの人々がギロチンにかけられたことが載っています。革命には流血が付きものですが、とりわけフランス革命とロシア革命はそれで知られています。イラン革命もかなり血生臭いのですが、何故か日本の中東研究者はあまり触れない。
返信する
1970年代前半の少女マンガ (madi)
2015-10-22 00:35:42
1970年代前半の少女マンガは、宝塚のすみれコードに似た状態ですので、残酷描写性描写はおさえられていたせいで、凄惨なシーンはなくなっています。そんななかでも、わたまべまさこ「聖ロザリンド」などいまよみかえしても怖い名作もうまれています。池田理代子先生もその前で少女が心中するものもありましたが、主人公が死亡するアンハッピーエンドも衝撃的だったことでしょう。なお、「ベルサイユのばら」2014年に11巻が40年ぶりにでており、さらに続刊予定となっています。11巻は本編のいい場面をあつめたものになっていますが。
返信する
Re:1970年代前半の少女マンガ (mugi)
2015-10-22 22:13:43
>madiさん、

 仰る通り1970年代の少女漫画は、「清く正しく美しく」のテーマが殆どでした。スポ根少女漫画『アタック№1』など、性については本当にタブー状態だったし、明るい青春バレー漫画。
 それにしても、わたまべまさこ「聖ロザリンド」とは懐かしい!この人の「ガラスの城」も怖い名作でしたね。池田氏の少女が心中する作品は知りませんが、「生きててよかった」などはモロに児童虐待モノでした。

 ベルばらの新作が出ていることは知っていますが、未だに見ていません。絵柄が変ったようだし、私としてはベルばらは40年前に完結しているので、未だに見るのを躊躇っている状態です。
返信する
フランス革命当時の風刺画 (スポンジ頭)
2015-11-22 14:49:19
 こう言う物がありましたのでご参考に。文化の違いや知識レベルの差があるので、解説してもらわないと分からないものがありますね。マリー・アントワネットが通常の王妃レベルの生活を送っていたなら、ここまで憎まれることもなかったでしょう。
ttp://gigazine.net/news/20151118-free-14000-images-french-revolution/

マリー・アントワネットと家族が別れる場面のようですが、子供たちが二人いるので想像図でしょう。
ttp://frda.stanford.edu/en/catalog/fw523xj3455
返信する
Re:フランス革命当時の風刺画 (mugi)
2015-11-22 20:36:58
>スポンジ頭さん、

 何時も興味深いサイトの紹介を有難うございます!フランス革命にまつわる1万4000枚もの画像が見られるとは、本当にネットは便利ですね。仰る通り、風刺画は文化の違いや知識レベルの差だけでなく時代もあるので、現代日本人からすれば解説がないと分らないものが少なくありません。

 モンスターとして風刺にされるマリー・アントワネットの風刺画は見たことがあります。DVD『マリー・アントワネット 恋する王妃』に、この風刺画が紹介されていました。このDVDは邦題のイメージと裏腹に、語り部が研究者たちというドキュメンタリーです。革命前よりも革命後の方がより憎まれるようになったとか。
http://rental.rakuten.jp/detail-100497.html
返信する
ジョゼフ・フーシェ (スポンジ頭)
2017-11-19 09:20:39
マリー・テレーズやルイ・シャルルが悲惨な状況に陥った話をツヴァイクは「ジョゼフ・フーシェ」と言う伝記で描いています。この伝記は傑作です(但し、マリー・アントワネットの伝記で描かれるルイ十六世像が近年の研究で修正されつつあるので、この伝記もある程度考えて読む必要があると思われます)。
以下、ウィキよりフーシェの紹介。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7

 このフーシェと言う人物は庶民版タレイランというべき人物で(タレイランとは極めて険悪な仲)、僧院を皮切りに革命政府・統領政府・ナポレオン・及び復活したブルボン朝に仕えるのですが、彼はそれらの政権で公安の元締めをやっていました。フーシェは様々な場所にスパイを潜入させ(ジョセフィーヌもスパイだったとか)、ありとあらゆる情報を入手し人を操ると言う、ナポレオンにとっても非常に厄介な存在でした。このフーシェ、革命政府の時にルイ十六世の裁判で「ラ・モール(死刑)」と言いますが、この言葉が後の運命を決定づけます。
 
 当人は恩人や仲間を平気で裏切り権力のある所何処へでも行くのに、子煩悩で妻に誠実、ナポレオンに対しても直言して平然と逆らう様子など、それぞれ銀英伝のトリューニヒト、ラング、オーベルシュタインのモデルになっているのではないかと思ってます。

 ナポレオン敗北後、フーシェはルイ十八世と取引をして、彼を赦免し警務大臣にして貰う代わりにナポレオン時代の仲間を売ります。とある本によると、ルイ十八世は「不幸な兄よ、許し給え」と言いながら赦免したといいますが、私は兄という邪魔者がいなくなってよかったんじゃないのか、と思いました(私はツヴァイクの影響でプロヴァンス伯に対する印象は極めて悪い)。

 そして、ブルボン朝でも生き残ろうとするのですが、そこにマリー・テレーズが登場します。ツヴァイク曰く「どんな古強者でも出来ないことがある。それは幽霊と戦うことだ」マリー・テレーズはルイ十六世とマリー・アントワネットの幽霊としてフーシェの前に現れました。ここでツヴァイクはマリー・テレーズが革命の最中受けた苦しみ(ランバル公妃虐殺事件、死刑判決を受けた父との別れ、弟と引き離された事、母とも引き離された事、母と弟との近親◯◯に関して取り調べを受けたこと、母の処刑、弟の虐待死)を延々と書き連ね、「彼女の復讐の念は消えることはない」

 マリー・テレーズは政治的配慮もなんのその、家族の仇であるフーシェに対する嫌悪感、憎しみをあからさまに大勢の前で見せつけます(よく自分で手を下さなかったもの)。その態度に他の貴族たちも結束し、とうとう国王の許可が下されタレイランの手で引導が渡され失脚し、復活することはありませんでした。
 
 私はこの伝記、革命側の虐殺話が結構掲載されていたり、ルイ・シャルルが衰弱する話に触れたのでマリー・アントワネット伝の後に書かれたものだと思っていたのですが、マリー・アントワネット伝の前なんですね。マリー・アントワネット伝だと革命の残忍さも正当化しているように見えたのですが。

 正直、フーシェが失脚したのは利用価値がなくなったからで(かのダフ・クーパーもタレイラン伝でそう記しています)、マリー・テレーズのせいではないでしょう。しかし、憎しみに生きるマリー・テレーズは白色テロを煽動し、フランスの貴族から回想録か何かで「復讐するより赦す心が必要だった」と評されていますが、この言葉を紹介した本では「それは無理というものだろう」と著者が述べていました。これは後知恵なんですが、父親は息子にではなく娘に復讐しないよう誓わせた方がよかったでしょう。尤も、その場合は父の言葉と自分の感情の間で葛藤して神経が危うくなっていたかもしれません。

 そして、ルイ・シャルルはタンプル塔で亡くなっていたと現在証明されています。保存されていた彼の心臓とハプスブルク家の子孫のDNA鑑定が行われ、その心臓はルイ・シャルルだと確定しました。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20141225-OYTEW54748/
返信する
Re:ジョゼフ・フーシェ (mugi)
2017-11-19 14:10:36
>スポンジ頭さん、

 ツヴァイクに「ジョゼフ・フーシェ」という伝記の秀作があるのは知っていましたが、私はまだ未読です。wikiの画像だけでも見るからに陰険そうですが、家族思いだったのは面白いですね。確かに銀英伝では地味なオーベルシュタインに似ています。

 私もツヴァイクやベルばらの影響で、プロヴァンス伯に対する印象は極めて悪いです。ベルばらではルイ・シャルルはフェルゼンとの間の私生児と陰口をいうシーンがありました。もちろん他の王侯貴族も同じ思いでしょうが。

 何と「ジョゼフ・フーシェ」では革命側の虐殺話ばかりか、ルイ・シャルルの衰弱についても記していたのですか!しかも書いたのはマリー・アントワネット伝の前だった。池田理代子氏が「ジョゼフ・フーシェ」を読んでいたのかは不明ですが、少女漫画の世界ではルイ・シャルル虐待死の話は載せられないでしょう。
 あの境遇ではマリー・テレーズが復讐の塊になるのは、確かに無理でしょうね。ルイ・シャルルも生き残っていたならば、復讐せずにはいられなかったかも。

 DNA鑑定でルイ・シャルルはタンプル塔で亡くなっていたと証明されたことは知っています。コラム主の言うとおり、「その時代、いつかDNA鑑定で血縁関係が解明されるとは、誰が想像したであろうか」
 それにしても、フランス革命時に略奪された王家の心臓が細かく削られ、油絵の具に混ぜて絵画を描くために使われていたとは知りませんでした。発色はいいでしょうが、えぐ過ぎる。
返信する
ジョゼフ・フーシェ その2 (スポンジ頭)
2017-11-19 23:49:47
>ベルばらではルイ・シャルルはフェルゼンとの間の私生児と陰口をいうシーンがありました。

 アルトワ伯も一緒に言ってましたね。「兄上の子であるはずがない!」この人はツヴァイクの伝記だとマリー・アントワネットと懇意にしていて別に敵じゃないのですが、アントワネットの孤立を描くためにそうしたのでしょう。因みに某掲示板によると、アルトワは長兄の脱出計画を立てていたとかで、彼に対するイメージが若干好転しました。しかし、プロヴァンスは不快なだけですね。タレイランに恩知らず、嘘つき呼ばわりされていますが、これに関しては「お前が言うな」と思わないでもありません。
フランス語のウィキを見ていたら、プロヴァンスは王太子時代の兄とよく口論していたそうです。それなりに仲が悪かったようですね。
 
 >何と「ジョゼフ・フーシェ」では革命側の虐殺話ばかりか、ルイ・シャルルの衰弱についても記していたのですか!

 「リヨンの反乱」と言うのがツヴァイクがフーシェ伝で詳細に触れているフランス革命時の虐殺事件です。と言うのも、その虐殺を指導したのはフーシェだからです。因みに、このウィキのページは結末一部を除き、ほぼツヴァイクの伝記の引き写し状態です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1

 フーシェは事の発端となったシャリエと言う人物を賞賛する煽動演説をやってから次々と市民を虐殺していきます。革命軍の勝利の報を聞いて「嬉し泣きに泣いて」虐殺とか決行します。ところが、中央政府で流石にやり過ぎではないかという声が上がると一転虐殺を控え、同僚にすべての罪を擦り付けて責任を逃れました。後にナポレオンはフーシェを非難する時この事件を持ち出しました。そして、そんな非難にも厚顔無恥に平然と対応するフーチェの神経にも、こちらとしては驚嘆してしまいます。
 
 この伝記では「人間の臆病さほど大量の血を流したものはない」「歴史と言うものは自らが痛い目に合わないので人の犠牲を平然と求める」と言う名言を書いているので、マリー・アントワネット伝で虐殺を無視するような態度を取ったのが不思議なのですね。ルイ・シャルルの場合は「衰弱していった弟の事」と有って詳細な内容を書いた訳ではありませんが、弟が劣悪な環境に置かれていたと分かります。

 >池田理代子氏が「ジョゼフ・フーシェ」を読んでいたのかは不明ですが、

 読んでいます。と言うのも、本屋で池田氏のナポレオン漫画(未読です)のフーシェ登場シーンを偶然見たのですが、貧窮時代に娘を亡くして嘆くフーシェの台詞が、フーシェ伝で彼の心境を説明する著者の文とほぼ同じ。
 また、この漫画のウィキを見ると、フーシェのスパイとしてカトリーヌ・ルノーダンと言うタレイランの妻が登場しますが(史実の妻と異なる架空の人物)、当人はリヨンの事件でフーシェに家族を殺され王党派の二重スパイとなり、フーシェ失脚を目指して近づきました。ただ、リヨン虐殺事件をどう処理しているのか分かりません。筋金入りのジャコバン派のロザリーを罵倒する場面もある、との事です。ロザリーは「誰もが革命の成功と共和制の未来を願っていると錯覚している」と言う事で、虐殺事件は知らないのか、と言いたくなりますね。最後はフーシェに正体がばれ、ギロチンに掛かるとの事です。哀れとしか言いようがありません。

 更に漫画のウィキを見ると、フーシェは「ルイ16世の仇としてルイ18世の甥でシャルル10世(アルトア伯)の王太子アングレーム公ルイ・アントワーヌの妃となったマリー・テレーズに疎まれる。」となっているので、もしかしたら弟のことは無視状態かもしれません。

 マリー・テレーズのフランス版ウィキを見ていたらこんな言葉がありました。彼女がタンプル塔で過ごしていた部屋にあった落書きとの事です(グーグル翻訳)。

"Marie-Thérèse-Charlotteは世界で最も不幸な人物です。彼女は彼女の母親の知らせを聞くことはできません。たとえ彼女がそれを何千回も聞いてきたとしても、彼女に再会されることさえありません。私が好きな私の良き母親、そして私には分からないニュースが長く住んでいます。私の神よ、私の両親を殺した人を許してください。私の父よ、私を天から見守ってください。わが神よ、私の両親に苦しんでくださった人々を許してください。"

 何とも切ないですね・・・。この時分にはもう誰もいないとは。
返信する
Re:ジョゼフ・フーシェ その2 (mugi)
2017-11-20 21:51:00
>スポンジ頭さん、

 プロヴァンスはタレイランに恩知らず、嘘つき呼ばわりされていたとは笑えます。仰る通り「お前が言うな」ですが、策士では前者の方が上手だったのかもしれませんね。ひょっとして大量に配られたマリー・アントワネットへの誹謗中傷ビラにも関わっていたのやら。

「リヨンの反乱」は遅まきながら今回初めて知りましたよ。ヴァンデ反乱鎮圧もネットで初めて知りましたが、フランス第2の都市でも容赦しなかったところに、フランス革命の残虐さが改めて知りました。虐殺を責められても馬耳東風だったフーシェ、もう怪物ですね。
 そしてツヴァイクは、ルイ・シャルルの死の詳細な記述はしていなかったのですか。ルイ・シャルルへの虐待に全く触れなかったマリー・アントワネット伝とは違うにせよ、なぜ記述を避けたのでしょうね。

 池田氏のナポレオン漫画、私も某古本チェーン店で立ち読みしたことがありますが、フーシェ登場シーンを私も偶然見ています。貧窮時代に娘を亡くして嘆くフーシェもありました。権力者でありながら女遊びをしない理由で、「私はどうせこんな顔だからな」と言っていたシーンもあったはず。
 このままでは革命は死んでしまう、と訴えたロザリーを罵倒した黒髪の女もいましたね。この女こそがカトリーヌでしたか。最後はギロチンにかけられるとは、池田氏らしい設定です。

 マリー・テレーズのタンプル塔での落書きも初めて知りました。本当に切ないですよね。「私の神よ、私の両親を殺した人を許してください」とは書いていますが、本人は生涯許さなかった。そうなるのは無理もありませんが、神が許せばOKとなるのでしょうか。
返信する