現代は不明だが、かつて愛知県は管理教育で知られていた。80年代半ばだったか、国営か民放かもうろ覚えだが何かの番組で、愛知県の管理教育を紹介していたことがあった。校庭に全校生徒が集合させられ、「♪我ら、××高校生~」と、生徒全員が腕を振り回しながら歌を大声で斉唱させられる映像だけは憶えている。まるで軍隊調で違和感を感じさせられたし、私の母校とはかなり違うと思った。
そんな愛知県名古屋市出身の「のらくろ」さんから、今年7月、「あの時代の「愛知」の中高生として」のタイトルでコメントを頂いた。コメントに見る管理教育の実態には唖然とさせられたし、以下はそこからの引用。
「名古屋」ではなく敢えて耳慣れない「愛知」と県の名前を出したのは、昭和50年代に喧しくいわれた「管理教育」の西日本の筆頭県だったからです。ちなみに東日本では千葉県。「西の愛知、東の千葉」という言葉をどこかで耳にされた方も多かろうと存じます。
なぜ「名古屋」でないかと言えば、管理教育の「西の愛知」として有名になった複数の県立高校がいずれも名古屋市周辺部の尾張地域に散在していたからです。それら伝統高ではない新設高において、中学から進学してくる生徒の「上澄み」は名古屋市内の愛知県立、名古屋市立高校に掠め取られ、「二流」以下の成績=地頭の生徒を、「地元進学塾」の「格付け」で優位にする≒国公立大学への進学者数を高めるために、補習はもちろん、1日24時間の生活まで徹底的にコントロールしようとしたということにあります…
それらの学校では。90年代に入って関西(兵庫県だったかな?)の学校で起きた「校門圧死事件」の影にかくれてはいますが、ほとんどの教師が竹刀を持って校内巡回しているのが日常風景だったという証言もあります。その用途はもちろん、校則違反の生徒に肉体的制裁を加えるために他なりません。学校教育法第11条違反?そんなこと知ったことか!というのがそれらの高校教師の考え方として上は校長から下は新規採用教員まで徹底されていましたから。
で、その「校則」ですが、「生徒の『製品化』」を推し進めるものであって、流石に見送られた例ですが、女子生徒の時計の付け方をどうするか、まで突き進みそうになったようです。(その種の高校には勤務していなかったが、別の県立高校に当時勤務していた父から聞いた話ですが)つまり文字盤を手のひら側に決めるか決めないでおくかということ。もちろん時計の形状は男女はっきり区別するため、女子は文字盤もベルトも細い「女性用」と決められていたのは言うまでもありません…
ただし、「のらくろ」さん自身が通学していたのは、「名古屋市立で、「○○温泉」と現在でも言われている程の緩い括りの学校」であり、「校門で教師が待ち構えてというようなことはなかった。朝のホームルームで担任が出席を取り始めるまでに教室に滑り込んでいればよし、という感じだったと記憶して」いるとか。
私の母校は女子高で、当時の宮城県は公立私立問わず男女別学が一般的だった。仙台市内の公立高だが、緩い括りの学校なのは同じであり、一応電髪(パーマ)禁止と生徒手帳に明記されていても、高二時代の隣席の生徒など、パーマをかけ髪を赤く染めていた。完全なツッパリスタイルだが、担任は咎めなかったし、話してみるといい子だった。
「のらくろ」さんも言う通り、愛知の管理教育は全国的に見れば特殊な例かもしれないが、このような実例を知らされると、私の母校や当時の宮城県の方が特別だった?と勘ぐりたくなる。鷹揚な校風の学校に通った者からすれば、いくら地方により教育方針の違いがあるにせよ、これほどの差は信じられない。
その二に続く
◆関連記事:「校則について」
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