クソッタレな人生へ................................
生きていくのってあっという間ですね~。
おいらの人生の予定からすると一回り(12年)長生きしています。
早いモノですね。
今月でおいらも32ですよ。
おいらに人生ってなんなんだろう
とよく考えるのですが、まともな答えが出てきません。
出てくるのは塵だとか屑だとかそんな概念でしか自分自身の評価が行われないことへの嫌悪感でしょうか。
それと良く思うことは
こんなところで何をしているのだろう
自分がしたいこともできない状況に身を置くというのは苦痛でしかない
ということでしょうか。
一度ならず、二度ならず、数え切れない程も捨てた人生です。
ここからどうにかしようとかも考えたこともなかったのですがね。
軍資金さえ集まれば何かしらの学校へ行きたいな~と良く思います。
もう燻りたくもありませんし、空回りもしたくはありません。
他人の為に生きていくのはしんどいだけです。
たまには自分の為の「生きる」という作業を行ってみたいモノです。
人様から金を貰える技術を身に付けたいと思って生きてきました。
学校も行きましたし、講習にも行きました。
資格も取りました。
しかし自分が望むモノとは酷く掛け離れた資格というのは全く役に立つはずもないでしょう。
32になってしまうおいらですが、まともに生活を送れる仕事をしたいと思いますね~。
それと拘っていないと思っていたことでおいらはこだわっていると言うことが解りました。
それを切り捨てます。
そのこだわりはおいらを束縛するモノにしかなりません。
と言うことで切り捨てて楽になろう。
それとおいらがこの地に留まる理由も金銭的な問題さえClearできると皆無になります。
身内からは誰しも過小評価されるモノですし、其れに付き合うのも疲れてきました。
そこまで拘束されるようなことでもないということも解るようになってきていますしね。
他人との付き合いでもおいらは必要以上のことをしているようなので其れも切り捨てようとか考えています。
おいらに有益な影響を与えてくれない人間に付き合うのはある程度までにしないと駄目だですね。
有益の反対は単純に「有害」になります。
そしてそこに何も影響を与えない±(Plus Minus)0というモノは存在しません。
有益か有害かなのですよ。
どちらかというとおいらは他の人に価値を求める人間です。
そして価値がないのであれば此方から自主的にActionを起こさなければならない人間というのは少数なのだと解ります。
利己的で自分のことしか考えない人間は基本的に有害であり、こういう人間には接する価値がないと考えても良いぐらいです。
おいらの性格とも反りが合わないでしょうし、此方から行動する価値もないとさえ思えてきます。
何かを維持する活動はもの凄くEnergyが必要になるのは以前に書きました。
しかしそれが維持する価値のあるモノであればそういったEnergyは様々な人の自主的な行動によって賄われるようになります。
以前に書いた美術品を維持する為のEnergyは其れを補完しておくだけでも所場代や維持費が必要になります。
ところが優れた美術品というのは自ずと自然発生的に維持する人が現れるという現象が起こってきました。
美術館などもそうですが、其れを個人がされるようになっています。
費用対効果と同様で「有益対効果」で人の価値を計れると思います。
確かなこととして人は喜んで生活していかねばなりません。
そして喜びの多くを人は人生においては無駄なモノから得ているのです。
しかし無駄であってもそれが平衡の取れている人間と取れていない人間が居ますよね。
取れている人間ならばいいのですよ。
そうであれば交わる価値はありますし、接する価値があります。
でも取れていない人間は価値がないでしょう。
ということで基本的においらの価値も決まってきますよね。
おいらには基本的に価値がありませんし、そこまで評価するような人間でもありません。
人としてCategorizeして貰わなくても結構だというStanceで行動してきました。
ところが聖書には交わりに注意するようにも書かれています。
交わりによっては有益な習慣を損なうモノに繋がっていくのです。
特においらのように価値のない人間は他人の影響が強いですし、気をつけねばならないのでしょう。
それとおいらが価値を認められないモノを重要視している人との交わりも制限していこうと考えています。
価値観というのは確かに千差万別で共有することは100%不可能なのは間違いありません。
でもそれが許容範囲かどうかがかなり重要です。
何事も限界がありますよね。
Computerに金を掛けて確かにおいらも相当な深度のInternet Userです。
しかしComputerよりも携帯電話というのは時間を取られるようですね。
おいらの知人には定額でなければ13万程度掛かったということを聞いていました。
幾ら定額でも13万も使おうと思うと時間が相当必要でしょう。
これでも大概だとは思っていたんですけどね。
これ以上に使っている人が居る事実がわかりました。
先月といっても昨日聴いたことですが、凄い金額を聞きました。
定額なので構わないのでしょうけどね。
もし定額でないのであれば32万相当のPacket代を使ったと言っていました。
1日1万円以上も使っているという凄い金額です。
「定額だからどれだけ使っても良い」
という意識が誰しもあると思います。
これは理解できますよ。
おいらもADSLになって制限が無くなったような気になりましたモノね。
でもInternetに時間をどれだけ占有されているのかを考えるとそれがどれだけ無駄なのかが解りますよね。
人間というのは自分の生活Baseに生きていくこともCostに数えなければなりません。
Creativeな生活を送っている人間はより生産性の高いことを行うようになっていき、人が作ったモノの中で生きていく人間はより非生産的な生活を送るようになっていくという傾向がありますね。
行い方を知らない「子供だから仕方がない」というのは言い訳にはなりません。
子供は親に依存しますし、親の行き方を見て生きています。
確かに親の生き様というのを模倣するようになっては行きますが、まともではない親から必ずしもまともではない子供が育つことはないと言うことは証明されています。
親が悪い所を改善するという「反面教師」というのもこういう所から発生した言葉でしょうね。
子供の意識としては自分で尻ぬぐいする心構えがないというのが最も質が悪いと思いますね。
「人にされたことには自分の過失が全くない」という思考をする子も多いですし、被害者意識が強い子が多くてウンザリします。
そして与えられる権利には目聡く、行わなければならない責任には疎く逃れようとするのには苛立ちさえ感じます。
少なくとも責任を果たさなければならない人間は責任を負わなければならず、それを完遂しなければなりません。
目的のProcessも大事ですし、目的達成の動機も大変重要です。
それが無い人間が多すぎます。
GameやComputer、携帯電話に時間を注ぎ込むというのは目的を持って使用するのは良いのですが、ただ彷徨うような時間というのはほとんどが無駄です。
確かに無駄な時間を楽しむのが人間なのですからこれを否定するというのは人間の行き方全てを否定することになります。
しかし平衡を持てない人間にそれらを使えるようにするというのはNGでしょう。
例え其れを維持することが出来る金銭状況であっても時間を浪費するような使い方しかできないのであれば、それを
「維持することが出来る」
というのは説得力もありませんし、実際には振り回され逆に操られていると言っても良いでしょう。
GameやComputer、Internet、携帯電話を使用するということは作り出す人は別ですが、作り出さない人(User)は人の作り出した世界で操られているに過ぎません。
他人が作り出した世界というモノに生活が占有され続けて、蹂躙されていることも気が付かないのですから笑えてきますよね。
おいらも蹂躙されている人間の一人なので自分のことが一番笑えます。
こういうBlogというのは多少は自分の思考を乗せることが出来るということで利用していますが、これも他人が作り出した仮想空間で世界が限定されて居ると言うことを示しています。
人の世界観というのは多くの人が集まれば集まるほど大きな世界が構築されますが、小さければ小さいほど世界が小さいんですな。
それに人は現実世界での生活の方に重点を置くべきなのだということも解るようになってきました。
クソッタレな人生です。
捨てた人生を拾って有効活用することが悪いことだとはとても思えなくなりました。
捨てて拾った人生です。
これからはmumu.comの自己意識への挑戦を企んでいきたいモノです。
生きていくのってあっという間ですね~。
おいらの人生の予定からすると一回り(12年)長生きしています。
早いモノですね。
今月でおいらも32ですよ。
おいらに人生ってなんなんだろう
とよく考えるのですが、まともな答えが出てきません。
出てくるのは塵だとか屑だとかそんな概念でしか自分自身の評価が行われないことへの嫌悪感でしょうか。
それと良く思うことは
こんなところで何をしているのだろう
自分がしたいこともできない状況に身を置くというのは苦痛でしかない
ということでしょうか。
一度ならず、二度ならず、数え切れない程も捨てた人生です。
ここからどうにかしようとかも考えたこともなかったのですがね。
軍資金さえ集まれば何かしらの学校へ行きたいな~と良く思います。
もう燻りたくもありませんし、空回りもしたくはありません。
他人の為に生きていくのはしんどいだけです。
たまには自分の為の「生きる」という作業を行ってみたいモノです。
人様から金を貰える技術を身に付けたいと思って生きてきました。
学校も行きましたし、講習にも行きました。
資格も取りました。
しかし自分が望むモノとは酷く掛け離れた資格というのは全く役に立つはずもないでしょう。
32になってしまうおいらですが、まともに生活を送れる仕事をしたいと思いますね~。
それと拘っていないと思っていたことでおいらはこだわっていると言うことが解りました。
それを切り捨てます。
そのこだわりはおいらを束縛するモノにしかなりません。
と言うことで切り捨てて楽になろう。
それとおいらがこの地に留まる理由も金銭的な問題さえClearできると皆無になります。
身内からは誰しも過小評価されるモノですし、其れに付き合うのも疲れてきました。
そこまで拘束されるようなことでもないということも解るようになってきていますしね。
他人との付き合いでもおいらは必要以上のことをしているようなので其れも切り捨てようとか考えています。
おいらに有益な影響を与えてくれない人間に付き合うのはある程度までにしないと駄目だですね。
有益の反対は単純に「有害」になります。
そしてそこに何も影響を与えない±(Plus Minus)0というモノは存在しません。
有益か有害かなのですよ。
どちらかというとおいらは他の人に価値を求める人間です。
そして価値がないのであれば此方から自主的にActionを起こさなければならない人間というのは少数なのだと解ります。
利己的で自分のことしか考えない人間は基本的に有害であり、こういう人間には接する価値がないと考えても良いぐらいです。
おいらの性格とも反りが合わないでしょうし、此方から行動する価値もないとさえ思えてきます。
何かを維持する活動はもの凄くEnergyが必要になるのは以前に書きました。
しかしそれが維持する価値のあるモノであればそういったEnergyは様々な人の自主的な行動によって賄われるようになります。
以前に書いた美術品を維持する為のEnergyは其れを補完しておくだけでも所場代や維持費が必要になります。
ところが優れた美術品というのは自ずと自然発生的に維持する人が現れるという現象が起こってきました。
美術館などもそうですが、其れを個人がされるようになっています。
費用対効果と同様で「有益対効果」で人の価値を計れると思います。
確かなこととして人は喜んで生活していかねばなりません。
そして喜びの多くを人は人生においては無駄なモノから得ているのです。
しかし無駄であってもそれが平衡の取れている人間と取れていない人間が居ますよね。
取れている人間ならばいいのですよ。
そうであれば交わる価値はありますし、接する価値があります。
でも取れていない人間は価値がないでしょう。
ということで基本的においらの価値も決まってきますよね。
おいらには基本的に価値がありませんし、そこまで評価するような人間でもありません。
人としてCategorizeして貰わなくても結構だというStanceで行動してきました。
ところが聖書には交わりに注意するようにも書かれています。
交わりによっては有益な習慣を損なうモノに繋がっていくのです。
特においらのように価値のない人間は他人の影響が強いですし、気をつけねばならないのでしょう。
それとおいらが価値を認められないモノを重要視している人との交わりも制限していこうと考えています。
価値観というのは確かに千差万別で共有することは100%不可能なのは間違いありません。
でもそれが許容範囲かどうかがかなり重要です。
何事も限界がありますよね。
Computerに金を掛けて確かにおいらも相当な深度のInternet Userです。
しかしComputerよりも携帯電話というのは時間を取られるようですね。
おいらの知人には定額でなければ13万程度掛かったということを聞いていました。
幾ら定額でも13万も使おうと思うと時間が相当必要でしょう。
これでも大概だとは思っていたんですけどね。
これ以上に使っている人が居る事実がわかりました。
先月といっても昨日聴いたことですが、凄い金額を聞きました。
定額なので構わないのでしょうけどね。
もし定額でないのであれば32万相当のPacket代を使ったと言っていました。
1日1万円以上も使っているという凄い金額です。
「定額だからどれだけ使っても良い」
という意識が誰しもあると思います。
これは理解できますよ。
おいらもADSLになって制限が無くなったような気になりましたモノね。
でもInternetに時間をどれだけ占有されているのかを考えるとそれがどれだけ無駄なのかが解りますよね。
人間というのは自分の生活Baseに生きていくこともCostに数えなければなりません。
Creativeな生活を送っている人間はより生産性の高いことを行うようになっていき、人が作ったモノの中で生きていく人間はより非生産的な生活を送るようになっていくという傾向がありますね。
行い方を知らない「子供だから仕方がない」というのは言い訳にはなりません。
子供は親に依存しますし、親の行き方を見て生きています。
確かに親の生き様というのを模倣するようになっては行きますが、まともではない親から必ずしもまともではない子供が育つことはないと言うことは証明されています。
親が悪い所を改善するという「反面教師」というのもこういう所から発生した言葉でしょうね。
子供の意識としては自分で尻ぬぐいする心構えがないというのが最も質が悪いと思いますね。
「人にされたことには自分の過失が全くない」という思考をする子も多いですし、被害者意識が強い子が多くてウンザリします。
そして与えられる権利には目聡く、行わなければならない責任には疎く逃れようとするのには苛立ちさえ感じます。
少なくとも責任を果たさなければならない人間は責任を負わなければならず、それを完遂しなければなりません。
目的のProcessも大事ですし、目的達成の動機も大変重要です。
それが無い人間が多すぎます。
GameやComputer、携帯電話に時間を注ぎ込むというのは目的を持って使用するのは良いのですが、ただ彷徨うような時間というのはほとんどが無駄です。
確かに無駄な時間を楽しむのが人間なのですからこれを否定するというのは人間の行き方全てを否定することになります。
しかし平衡を持てない人間にそれらを使えるようにするというのはNGでしょう。
例え其れを維持することが出来る金銭状況であっても時間を浪費するような使い方しかできないのであれば、それを
「維持することが出来る」
というのは説得力もありませんし、実際には振り回され逆に操られていると言っても良いでしょう。
GameやComputer、Internet、携帯電話を使用するということは作り出す人は別ですが、作り出さない人(User)は人の作り出した世界で操られているに過ぎません。
他人が作り出した世界というモノに生活が占有され続けて、蹂躙されていることも気が付かないのですから笑えてきますよね。
おいらも蹂躙されている人間の一人なので自分のことが一番笑えます。
こういうBlogというのは多少は自分の思考を乗せることが出来るということで利用していますが、これも他人が作り出した仮想空間で世界が限定されて居ると言うことを示しています。
人の世界観というのは多くの人が集まれば集まるほど大きな世界が構築されますが、小さければ小さいほど世界が小さいんですな。
それに人は現実世界での生活の方に重点を置くべきなのだということも解るようになってきました。
クソッタレな人生です。
捨てた人生を拾って有効活用することが悪いことだとはとても思えなくなりました。
捨てて拾った人生です。
これからはmumu.comの自己意識への挑戦を企んでいきたいモノです。