言葉によらず行状によって..................
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
み言葉に従順でない者がいるとしても,言葉によらず行状によって、
深い敬意のこもったあなた方の貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです。
そして,あなた方の飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身に着けたり,
外衣を着たりする外面のものであってはなりません。
むしろ,もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした,
心の中の秘められた人を飾りとしなさい。
それは神の目に大いに価値のあるものです。
もっともそれは,あなた方がいつも善を行ない,
どんな怖ろしい事をも恐れずにいるならばのことです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上記の言葉は、聖書に記されている言葉です。
わたしは口先だけの人間が嫌いです。
口先だけであれば何とでも言うことが出来るからです。
物事というのは実行が伴って初めて効力を発揮します。
口先だけの人間が如何に多いことでしょう。
世の中の多くの人間が口先三寸で生きています。
そしてそれを信じ、信用した人間が馬鹿を見る世の中です。
そのような世界にわたしは絶望を抱いて生きてきました。
なぜならば多くの人間の言うことを全面的に信用し、盲目的に信じて生きてきたからです。
しかしこれは非常に愚かな生き方だったと言い切れます。
本当に信頼できる人間というのは非常に稀少な存在であるという事実を最近知り、わたしはそのような存在とは実生活の中では関わり合うことが皆無である事を知るに到りました。
たとえ熱心に信心している人間でも信頼できる人間というのは稀であると言うことを知るに到ったのです。
と言うよりわたしの基準はわたしにしか理解できず、わたしの基準に適う人間は存在し得ないというのも良く理解できるようになってきました。
当然ながらわたしの基準に適う人間なんて存在し得ないことも理解していますし、そのようにありたいと願いながらもわたし自身でさえそのような存在とは乖離したモノであると言うことは間違い有りません。
ただ、わたしは最善を尽くしてそう有りたいと願い続けて生きてきました。
そしてわたし自信はわたしの基準に対して妥協しつつも、わたしが望む形に近づきつつあります。
そうなると周りの人間が酷く色褪せて見え、取るに足りないモノにさえ見えるようになりました。
見えるようになったと言うよりは、実際に取るに足りないモノだと判断に足るモノだと確信できるようになってきました。
わたしはわたしが全面的に正しいとか、わたしの言うことに間違いが無いとは言いません。
わたしも一人の人間ですし、不完全です。
ただ、鬱病や統合失調症というのはダブルスタンダードというパラドクスにより発生すると言うことを確信できるようになりました。
一つはわたし自身が抱き続けてきた聖書に基づく基準、そしてもう一つは他人が勝手に奉ったその人自身が自分の都合で作り出した基準です。
わたしは基準を作るに当たっては聖書的な判断基準が最も重要で聖書に沿った価値基準を作りたいと願って生きてきました。
そして聖書を学べば学ぶほどその基準はより精密の調整されていきます。
方向性というのはブレる事がありませんが、わたしも不完全な人間ですので微調整というのは必要になります。
聖書に沿っていると考えていても時々に理解が深まり調整が必要になるのです。
そして理解が深まれば深まるほど精度というのは高くなっていく傾向にあります。
それに対して人間の基準というのはなんと低レベルな基準で構成されているのでしょうか。
わたしはこの人間の基準に振り回されて生きてきました。
わたし自身が聖書から割り出した基準とは余りにも乖離しすぎた基準と聖書に基づいて弾き出された基準の違いに戸惑い苦しんで生きてきました。
そして口で言うだけの人間の言葉によって大きな苦しみを負わされてきたのです。
わたしはわたし自身を信じ切ることが出来てこなかった故にわたし自身が抱えきることが出来ない矛盾と苦しみに道が生き方しか出来てこなかったのです。
ここでパラダイムシフトが起こらない方がおかしいでしょう。
人間が生きて行くにあたって最も信頼すべき聖書により答えが出されていたにもかかわらず、聖書に書かれていた言葉に忠実に従い続けようとしたことが大きく損失をもたらしたのです。
人間が最も信じるべきは聖書の言葉であると言うことは違えることは合ってはならないと言うことを確信するに到ったのです。
人間がいう言葉は相対的なモノと言うよりは軽んじても言い言葉であると言うことを確信するようになりました。
確かに人は何かしら言葉を発する際に考えてから発しています。
しかしわたしの場合に発している人以上に良く考えてから物事を相談するようにしています。
と言うよりわたしの思考というのは吟味に吟味を重ねた結果からしか相談するには到らないのです。
よって煮詰まった考えを披露するだけに過ぎません。
わたしは将来的な展開や物事の運び方などまで考え思考巡らしてからしか言葉にしませんし、行動もしません。
言葉によらず行動によって証明すると言うこともわたしのやり方です。
人はわたしが行動した当初は理解することが出来ないでしょう。
ただわたしの行動の意味は後々になって作用するようになっています。
それに気が付くのは非常に遅効性で、気が付くのは将来的にその人が成長してからしか解らないことです。
更に書くならばわたしが理解して行動している基準にまで「成長しない」ことが多いとも言えます。
そこまでわたしは考えてから物事を行っているということですね。
わたしが頭が良いというのでは有りません。
他の人が余りにも考えなさすぎるだけなのです。
少し頭をくぐらせると解ることだとわたしは考えているのですが、わたしの論理力と相手の論理力では全く異なる基準になり話が噛み合わないことが少なくありません。
それが苦痛でならないのです。
であればもう関わらないことが正しい選択だと言えるのかも知れませんね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
み言葉に従順でない者がいるとしても,言葉によらず行状によって、
深い敬意のこもったあなた方の貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです。
そして,あなた方の飾りは,髪を編んだり,金の装飾を身に着けたり,
外衣を着たりする外面のものであってはなりません。
むしろ,もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした,
心の中の秘められた人を飾りとしなさい。
それは神の目に大いに価値のあるものです。
もっともそれは,あなた方がいつも善を行ない,
どんな怖ろしい事をも恐れずにいるならばのことです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上記の言葉は、聖書に記されている言葉です。
わたしは口先だけの人間が嫌いです。
口先だけであれば何とでも言うことが出来るからです。
物事というのは実行が伴って初めて効力を発揮します。
口先だけの人間が如何に多いことでしょう。
世の中の多くの人間が口先三寸で生きています。
そしてそれを信じ、信用した人間が馬鹿を見る世の中です。
そのような世界にわたしは絶望を抱いて生きてきました。
なぜならば多くの人間の言うことを全面的に信用し、盲目的に信じて生きてきたからです。
しかしこれは非常に愚かな生き方だったと言い切れます。
本当に信頼できる人間というのは非常に稀少な存在であるという事実を最近知り、わたしはそのような存在とは実生活の中では関わり合うことが皆無である事を知るに到りました。
たとえ熱心に信心している人間でも信頼できる人間というのは稀であると言うことを知るに到ったのです。
と言うよりわたしの基準はわたしにしか理解できず、わたしの基準に適う人間は存在し得ないというのも良く理解できるようになってきました。
当然ながらわたしの基準に適う人間なんて存在し得ないことも理解していますし、そのようにありたいと願いながらもわたし自身でさえそのような存在とは乖離したモノであると言うことは間違い有りません。
ただ、わたしは最善を尽くしてそう有りたいと願い続けて生きてきました。
そしてわたし自信はわたしの基準に対して妥協しつつも、わたしが望む形に近づきつつあります。
そうなると周りの人間が酷く色褪せて見え、取るに足りないモノにさえ見えるようになりました。
見えるようになったと言うよりは、実際に取るに足りないモノだと判断に足るモノだと確信できるようになってきました。
わたしはわたしが全面的に正しいとか、わたしの言うことに間違いが無いとは言いません。
わたしも一人の人間ですし、不完全です。
ただ、鬱病や統合失調症というのはダブルスタンダードというパラドクスにより発生すると言うことを確信できるようになりました。
一つはわたし自身が抱き続けてきた聖書に基づく基準、そしてもう一つは他人が勝手に奉ったその人自身が自分の都合で作り出した基準です。
わたしは基準を作るに当たっては聖書的な判断基準が最も重要で聖書に沿った価値基準を作りたいと願って生きてきました。
そして聖書を学べば学ぶほどその基準はより精密の調整されていきます。
方向性というのはブレる事がありませんが、わたしも不完全な人間ですので微調整というのは必要になります。
聖書に沿っていると考えていても時々に理解が深まり調整が必要になるのです。
そして理解が深まれば深まるほど精度というのは高くなっていく傾向にあります。
それに対して人間の基準というのはなんと低レベルな基準で構成されているのでしょうか。
わたしはこの人間の基準に振り回されて生きてきました。
わたし自身が聖書から割り出した基準とは余りにも乖離しすぎた基準と聖書に基づいて弾き出された基準の違いに戸惑い苦しんで生きてきました。
そして口で言うだけの人間の言葉によって大きな苦しみを負わされてきたのです。
わたしはわたし自身を信じ切ることが出来てこなかった故にわたし自身が抱えきることが出来ない矛盾と苦しみに道が生き方しか出来てこなかったのです。
ここでパラダイムシフトが起こらない方がおかしいでしょう。
人間が生きて行くにあたって最も信頼すべき聖書により答えが出されていたにもかかわらず、聖書に書かれていた言葉に忠実に従い続けようとしたことが大きく損失をもたらしたのです。
人間が最も信じるべきは聖書の言葉であると言うことは違えることは合ってはならないと言うことを確信するに到ったのです。
人間がいう言葉は相対的なモノと言うよりは軽んじても言い言葉であると言うことを確信するようになりました。
確かに人は何かしら言葉を発する際に考えてから発しています。
しかしわたしの場合に発している人以上に良く考えてから物事を相談するようにしています。
と言うよりわたしの思考というのは吟味に吟味を重ねた結果からしか相談するには到らないのです。
よって煮詰まった考えを披露するだけに過ぎません。
わたしは将来的な展開や物事の運び方などまで考え思考巡らしてからしか言葉にしませんし、行動もしません。
言葉によらず行動によって証明すると言うこともわたしのやり方です。
人はわたしが行動した当初は理解することが出来ないでしょう。
ただわたしの行動の意味は後々になって作用するようになっています。
それに気が付くのは非常に遅効性で、気が付くのは将来的にその人が成長してからしか解らないことです。
更に書くならばわたしが理解して行動している基準にまで「成長しない」ことが多いとも言えます。
そこまでわたしは考えてから物事を行っているということですね。
わたしが頭が良いというのでは有りません。
他の人が余りにも考えなさすぎるだけなのです。
少し頭をくぐらせると解ることだとわたしは考えているのですが、わたしの論理力と相手の論理力では全く異なる基準になり話が噛み合わないことが少なくありません。
それが苦痛でならないのです。
であればもう関わらないことが正しい選択だと言えるのかも知れませんね。