扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.138 2017.03.02

2017-03-02 06:14:14 | Depression,Melancholy & Thought
2017.03.02はたまたま見てみると

ブログを始めて4,444日でした。





わたしがこのBlogを始めたのが、12年前の3月でした。
当時は毎日のようにgooにアクセスし編集画面に向かっていたモノでした。
最近は編集画面を誤って消してしまうと最初から書き直などざらでしたし、それが当たり前だったのです。
ところが最近のBrowserとインターネットというのは非常に発達しており、キャッシュが保存され誤って消しても再度、その記事の編集画面に行くと消してしまった直前当たりまで再現されるようになりました。
便利になったな〜と思うと共に12年でインターネットの世界もだいぶん発達したな〜と感心しています。

思い出していただきたいのですが、13年前というのはまだスマホがなかったのです。
スマホどころかデジタルカメラでさえ普及前でした。
デジタルカメラが本格的に普及をはじめたのはiPhoneが発売され、スマホにデジタルカメラが搭載されてからでしたね。
普及する前まではデジタルカメラはフィルムで撮っておられる方達に馬鹿にされていたモノでした。
「Digital Photo」で何を言っているんだろうな〜とわたしは思っていたことを書いた覚えがありますね。
デジタルカメラがフィルムカメラを駆逐してしまいました。
当時デジタルカメラを使っていたわたしを馬鹿にしていた方と、その方のいま使っておられるカメラを持ってきて頂き、どのように感じておられるのか、フィルムで撮られていたことをどのように思っておられたのかを客観的にお聴きしたいと感じています。
馬鹿にするつもりで問うつもりは全くありません。
なぜなら、わたしの親がDigitalに関しては全く理解を示さない方達だったのですから、ある程度は仕方が無いと受け入れることが出来るようになっているからです。
それに時代に追い付けないということがどれだけ損をするのかを最近は私自身が味わうようになってきています。

デジタル化について行けない要因として仕方が無い所は良くわかるのです。
音楽にしても、写真にしても、イラストにしても、造形にしてもアナログが長きに渡って権勢をふるってきたのです。
それが急にDigitalにしますといわれても、そもそも「受け入れられない」のですよ。
なぜなら人間は慣れ親しんできたことを急に否定される際に、否定されているという事自体が「まともではない」と判断します。

「受け入れる」というのは事態を把握出来てからでしかできないと言うことですね。
よって事態を把握出来るならば「青天の霹靂」に成るのですが、理解が出来ないので彼らの中での「常識」ではわたしの側が「狂っている」と判断されていた事が良くわかります。
わたしは斜めに見たり、発想の転換をしたりしてしまうのでわたしの考えをそのまま言っても理解されることはないことが少なくありませんでした。


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そして最近はこれらの処理の説明をし続けて面倒くさくなってしまったので核心を突く部分であっても「わたしだけが解っていればいいや」と諦めるようになりました。
これは悪いことなのですが、もう疲れ切ってしまったようです。
理解して貰いたいと思う方が間違っていたんですよね。
今更になって気が付きました。
情けないな〜、もっと早く、そうですね。
10代前半ぐらいで気が付いていれば、人生が大きく違ったことでしょうね。
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余りに先を見通しすぎていると、現在でしか生きられない人達には「非常に可笑しい愚か者」にしか見られなくなります。
愚かなのはどちらか明白なのですがね。
どの世界にも見られるのは「人数が多い方が正義だ」と思っている人間が多く、少数派の発言権は皆無だということでしょう。
よって偽善な正義の側が幾ら間違っていても、偽善な正義側の独裁で弾圧され、真に正しい方が粛正もしくは辱めを受けるしかありません。

正直なことを書くと、もうね。
このような人間達とは関わり合いにはなりたくないんですよ。
間違っている所を指摘されたならば、わたしは間違っているということを素直に認めたいと願っています。
しかし独善的な人間達は自分の意見にしか関心が無く、幾ら計画的に物事に取り組んでいて、トライアンドエラーを繰り返し、少しでも良くしていこうとしていても全てが自分の考え方に沿わないとそれは「悪」だとしか判断出来ません。
物事というのは多くの場合にグレーゾーンの方が多いということを以前書きました。
人というのは真っ白な人間は居ません。
何処かしらに黒があり、汚点を幾つも抱えているモノです。
それを置いておいて、他の人間に「真っ白でいろ」というのは論理的に言って「狂っている」と言っても良いでしょうね。
聖書にもあります。

では、なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら、自分の目の中に垂木のことを考えないのですか。
また、どうして兄弟に、「あなたの目からわらを抜き取らせてください」と言えるのですか。
しかも、ご覧なさい、自分の中には垂木があるのです。
偽善者よ!まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。
そうすれば、兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。

と書かれています。
わたしは多くの面で間違っていることがあります。
間違っているからこそ正さなければならないと思って来ましたし、指摘して頂きたいと願ってきました。
ただ、最近は良い所もですが、悪い所もわたしなのだと受け入れることが出来るようになってきて楽にはなりました。
「悪い所を何とかしようとしても、なかなか直らない」ということを受け入れられるようになり、強烈に苦しんでいた自分を許せるようになりました。
自尊心もなかったわたしですが、それで良いと思えるようになり楽になったのです。

そして色々と思いを巡らせると、やりたいこととやりたくないことに対しての活動に出ていることが分かるようになってきました。
思い当たる事が幾つかあります。
やりたいことに関して人は積極的になりますし、準備をきちんとして物事にあたります。
物理的な準備はイヤなことでもやるんですけどね。
ここで大事なのは気持ちの面での準備です。
気持ちの状態というのは行動のレスポンスに直結します。
つまり行きたくない場合には、直ぐには動きませんし、初動も遅くなります。
眠っているならば起きたくはありませんし、行動も遅くなりがちになります。
そしてそれらが積み重なって遅刻したり、行かなかったりになってしまいます。

行動というのは明確な目標を持って行うべきですね。

まあこれは全ての人に見られる行動基準の物差しですな。
そして人は誤りを認めず、自分の価値観を押し付けがちです。
よってわたしはそのような人達には説明をすることもしなくなり、理解から遠ざかるようになってきました。
幾つかの場面で、わたしがずいぶん前から把握していることも他の人は把握も出来ず、理解とはほど遠いモノとなっていることが苦痛となってきたと言うことでした。
ということでこのような人達とは関わり合いになりたくなくなってきたと言うことですね。
理由は、わたしの方が「可笑しい」とか「異常だ」と思われたくないからでした。

わたしはこのことを受け入れるまで、説明が無駄で受け入れることも出来ない人達に何とか理解させようとしてきました。
理解するつもりもない人達に説明を把握させることがどれだけ骨の折れることかは教育者ならある程度は分かるのではないでしょうか。
人とのかかわりを持ってきた人にとって、多くの場面で理解させなければならない事があるのでしょうけれどね。
理解出来ない人の為に理解させたい人が用いる最終兵器が「警察と弁護士」や「詳しい人もしくは専門家」だと分かるようにもなりましたよ。
家族や親族、友人、知人という立場では相手はこちらの意見を軽んじ聞こうとはしないのです。
よってある程度の権威を味方につけなければならないと言うことですね。

そう言えばわたしが親元にいることを馬鹿にしている人も多いようです。
その中には反抗の精神や独立の精神によって親元から出た経緯を知っている人もいます。
よってそのような方達にわたしが親のことで苦しんでいることを馬鹿にする立場には無いと言うことですね。
聖書の中にはずっと親と共に生活している人が殆どでした。
聖書を学んでいながら、軽率に独立して苦しんでいる人がいますが、わたしにはそちらの方が理解に苦しむことがあります。
そのようにして招いた事態を他の人を犠牲にして解決しようとする人が余りにも多すぎるような気がします。
聖書には「遠くの兄弟(肉親)よりも、近くの兄弟(友人)の方が大事」というような旨の聖句があります。
ただ、責任の所在は肉親がおわなければなりません。
友人はあくまで友人であり、重荷を友人に押し付ける考え方が間違いなのですよ。

ロジカルになれば分かることなのに感情に走りがちなんですよね。
悲しいですな..............

感情というのは理解とはかけ離れたモノです。
よって感情を挟んでしまうと、肯定的なモノ以外の感情は邪魔以外の何者でもありません。
殆どの場合に慣れ親しんできたモノには愛着がありますよね。
それがいままで親しんできた方法であれば尚更でしょう。

例えば
・音楽鑑賞であればレコード、テープ、CD
・写真撮影であればフィルム、印画紙
・イラストレーションであれば紙、鉛筆、絵具
・造形であれば粘土や石、掘削する道具
でしょうね。

最近は、これらがデジタルで扱えるようになりましたよね。
・音楽鑑賞であればMP3などのコーデックで圧縮された音源、ないしハイレゾ音源
・写真撮影であればデジタルカメラ、Photoshopなどの画像処理のApplication
・イラストレーションであればペンタブレット、PhotoshopやPainterなどの描画機能があるApplication
・造形であればペンタブレット、ZBrushやBlenderなどのモデリングApplication

などがあります。
わたしの親の場合にレコーディング環境に関して理解させることが非常に難しく感じました。
親がテープにこだわりICレコーダーの有用性を幾ら説明しても無駄だったのです。
これはわたしがとても軽んじられる環境を構築していたからに他なりませんでした。
もっと環境を変える努力をしなければなりませんね。
頑張ろう。



そしてデジタルカメラに移行している人であろう人になぜ尋ねたいのかの理由ですが、

フィルムの良さとデジタルの良さをどのように感じておられるのか

に関してお聴きしたいのです。
昨年、乃木坂46の西野七瀬さんが写真集を出されたようなのですが、お聴きした理由が写真を撮ることに関心がある人間にとって非常に興味深い事だったんです。
その写真集は全てフィルムで撮影されたようなんですよね。
そしてフィルム撮影を望まれたのは西野七瀬さん本人であったそうなのです。
フィルムで撮影してきた人間にとって、これはとても嬉しいことでした。
わたしもフィルムで撮りたいと思うことが多いのです。
よってデジタルカメラで撮影されている方達もフィルムで撮りたい欲求は絶対にあるはずなんですね。
しかもデジタルカメラというラチチュードをはかる最適なサブカメラで何度も試し撮りが出来る状態であるはずなんですよ。
そのあたりに関してお聴きしたいんです。

デジタルが出始めた時にわたしはフィルム方が優れていることは重々承知していました。
そして馬鹿にされていることも理解していました。
また将来に確実に普及することも確信していましたし、間違いなくいまはデジタルが主流になっています。
これは音楽の世界で前例があったからこそ安易に予想をすることが出来ましたし、知っていれば馬鹿でも分かることでした。
情報を取り入れる手段があるかどうかによって左右されたと言うことですね。
よってある程度はアンテナを張っておかなければならないな〜とも思います。

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