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少し気になったことがあったので色々と詳細を調べて訂正しました....................
今回書きたいこととは全く関係ないのですがね。
わたしは一時的に非常に濃厚な人生を送っていました。
その3年がわたしを構築したと言っても良いでしょう。
よって無駄に生きていくことが苦痛でなりませんでした。
一分の隙も無く、無駄なく生きていきたいと願ってきました。
・クリスチャンの活動
・仕事
・資格の勉強
・日常生活
・芸術関連の趣味
・スポーツ
全てを成立させて生活が出来ると考えています。
全てを徹底的に無駄を無くして行えば、更に余裕も出来るでしょうし、生活のクオリティを上げることが出来るとも考えていました。
効率的に、合理的に生きていきたいと願っておきながら現在の状況は非常に無駄だらけ、というより無駄の中でしか生きていないということが苦痛でなりせん。
わたしは濃厚な生活を実際に味わい、あれでも満足出来ていなかったので、もっと濃厚な生活にしたいと願っていました。
まず、行うに当たって躓いたのが仕事関連でした。
よって聖書を調べることにしました。
聖書にはまず「自分の分を果たす」ということは最低条件だと書かれています。
優先順位としては人間関連の中では最上位に来るぐらいの優先順位です。
それから家族、親族、クリスチャンの友人、友人、クリスチャンの知人、知人です。
加えて、「聖書的な活動に打ち込むように」とも書かれていますが、『「開○奉○」、「補○開○奉○」をしなければならない』とは聖書にどこにも書かれていません。
なぜならばこのような制度が出来たのはまだ100年程度しか経っていないからです。
確かに伝道活動というのは非常に大事なのは分かっています。
しかし伝道活動から入る人というのは非常に少数であることは統計からも明白に結果が出ています。
力の入れている所が違うと思うのですよ。
わたしは以前は絶対に
「伝道活動を優先し、仕事を後にしなければならない」
と考えていました。
譲歩出来る条件があっても譲歩してはならないと考えても居ました。
例えば、仕事の振りかえでどうしても無理がある場合に、伝道を優先してしまったことが多かったんですね。
理由は当然に時間が入っていなかったということでしたな。
あきれますよね。
もう少し自分に寛容に成れなかったのかが悔やまれます。
それと「奉仕者の立場や奉仕時間が多いほど立場が高くなる」という感覚というのは認められる方は少ないですが絶対にあります。
自分はこのような立場や奉仕をしているのだからと錯覚してしまうのです。
世俗の仕事でもある程度のクリスチャンとして時間を入れておられる方は、このように考えている人は少なくないでしょう。
これは聖書的ではありませんよね。
聖書には、立場や時間が増し加わるほど「奉仕者にならなければならない」と書かれています。
まあね。
これはこれで良いのです。
最近、わたしは聖書的な活動を放棄しがちに生きてきました。
理由はそのようになると「自分はどうなるのか」という検証をしたかったんですね。
大きく体調を崩し寝込んだので、その機会に便乗して実験に取りかかったのです。
半年ほど本気で寝込んでいた時は全く力が湧いてこなくて苦しみましたな。
「この人達と居ると駄目になる」と分かっていながら生きていくというのはしんどいモノです。
今も状況は変わっておらず、一緒なのですがね。
ということで日常生活も何もしないようにしました。
車で出掛けることもせず、家でぼーっとインターネットをして暮らすように勤めました。
わたしは以前は、「家が好きだ」という人の考え方を全く理解出来ませんでした。
何もなくとも写真を撮りに行き、
何もなくとも買い物に行き、
何もなくとも図書館に行き、
何もなくとも友人と遊び、
何もなくとも食事に行き、
何もなくともスポーツに行き、
何もなくともプレゼントを買い、
何もなくともお見舞いに行き、
何もなくとも自然と楽しみ、
何もなくとも外で聖書と親しんでいました。
他のことは目的を持っていってましたし、色々と遣ることがありましたからね。
そして他にも家に居たくない要因がありました。
わたしの家族は壊滅的に家事が出来ません。
食事はとても美味しくて、嬉しいのですけれどね。
他の家事が全く駄目なのです。
よって綺麗になる訳がありません。
ということは汚れていく一方だと言うことです。
汚れていくと言うことはカーテンを閉めます。
カーテンを閉めると言うことは家の雰囲気が暗くなります。
カーテンを閉めると言うことは家にモノが隠せるようになりますので、より増えていきます。
そして散らかるばかりで減ることはありません。
埃も溜まりますし、カビも発生します。
ゴミが溜まりますし、モノが散乱しています。
家の大きさ的にはモノの絶対量が多すぎるのです。
それはそうでしょう。
夫婦子供の4人家族向けであろう家に6人の大人が住んでいるのですから、当然と言えば当然だと言えます。
モノが増え積み上げていくと、その付近はデッドスペースになります。
それが余りにも多くなりすぎて掃除をする気が無くなりますよね。
掃除をする気が無くなると、そこには埃が溜まります。
埃が溜まると湿度が高い所ではカビが発生します。
カビが発生すると、喘息になり咳が発生します。
単純に生きていくことが、このような阻害要因によって大きく潰されていきます。
我が家は埃とカビだらけです。
わたしの家で掃除機の音を聞けるのは、非常に稀です。
毎日のように聴くのが普通なんですけれどね。
このような状況で人の絶対数が多く、パーソナルスペースが必要なのはわかりきっていることでした。
最近でこそ、妹君達や弟君が家を使うようになり、自分の部屋を確保出来るようになったのですが........
それまでは家族が精神的に追い詰められて必要だったのに、他の人に貸していたのですから腹が立っていた訳です。
体調を崩す要因としては、やはり人は一人になるスペースが絶対に必要だと言うことです。
それも家族一人一人が必要だとわたしは考えていました。
そのためにわたしは体調が悪い中でも、家を整えようと塗装をしていたんですけれどね。
わたしは家族全員に一人一部屋を目標に整えていました。
親は二人で一部屋で良いと言うかも知れませんが、その場合でも一部屋はみんなで使えるようにしておけば良いだけの話なのです。
この考えを汲んで貰えなかったことで、体調を崩して寝込んだ訳です。
寝込んだ要因はこれだけではなくて、
・親による「給料未払い」とその親の「金銭管理の出来なさ」
・周りの人間に聖書的に考えて構築しある程度まで効果が出ていた方法を否定され、問題を克服しつつあるのにわたしのロジックを否定され続け、駄目出しをされたこと
・仕事へのモチベーションが無くなったこと(=仕事から喜びを得ることが出来なくなった)
・家族が家事(特に掃除が)が絶望的に出来ないこと
・物事を積極的に見ることが出来ない人達に囲まれていること
・現状のままで満足し、新しいことを取り入れれば改善されることをしない人ばかりだったこと
今一瞬でぱっと考えただけですが、これだけあります。
考えれば、もっとどんどん出て来るんですけれどね。
よくよく考えると、ここまででわたしは人を尊重し、人を建てるようにしてきました。
ですが、人を食ったような人の意見が通り、人を馬鹿にしているような人間の言うことの方が発言権が強いと言うことも解るようになってきました。
聖書的には下手に出ることの方が絶対的に正しいはずなんですけどね。
よってまず人を疑う人間には、疑って掛かるようにしていかねばならないでしょうね。
わたしの精神的な対抗措置として、仕方が無いのです。
でなければわたしの精神が持ちません。
今日はこの話はここまでにしておきます。
わたしは今年に入ってから、取り組んでいることがあります。
無活動になりすぎたので、リハビリテーションをしている所です。
家族がなぜ苦しみながらするのか疑問に思っていることを、わたしは楽しむようにして行うようになりました。
これは植え付けられた気持ちというのが大きいと言うことが解ってきました。
それと毎日行う事、定期的に行う事を心掛けています。
上記のことは既に出来ていることなのですが、他にも目標があります。
おいおいですが、上記の活動の時間を徐々に増やしていこうと考えています。
それとこの延長線上に
「聖書的な活動」
「仕事」
「トレーニング」
「趣味」
「自然と楽しむこと」
「人とのかかわり」
などにもガッツリ着手して行くと言うことですね。
計画的な完全犯罪(?)を目論んでいますが、まだ取り組み始めたばかりなので続けていきたいモノです。
今回書きたいこととは全く関係ないのですがね。
わたしは一時的に非常に濃厚な人生を送っていました。
その3年がわたしを構築したと言っても良いでしょう。
よって無駄に生きていくことが苦痛でなりませんでした。
一分の隙も無く、無駄なく生きていきたいと願ってきました。
・クリスチャンの活動
・仕事
・資格の勉強
・日常生活
・芸術関連の趣味
・スポーツ
全てを成立させて生活が出来ると考えています。
全てを徹底的に無駄を無くして行えば、更に余裕も出来るでしょうし、生活のクオリティを上げることが出来るとも考えていました。
効率的に、合理的に生きていきたいと願っておきながら現在の状況は非常に無駄だらけ、というより無駄の中でしか生きていないということが苦痛でなりせん。
わたしは濃厚な生活を実際に味わい、あれでも満足出来ていなかったので、もっと濃厚な生活にしたいと願っていました。
まず、行うに当たって躓いたのが仕事関連でした。
よって聖書を調べることにしました。
聖書にはまず「自分の分を果たす」ということは最低条件だと書かれています。
優先順位としては人間関連の中では最上位に来るぐらいの優先順位です。
それから家族、親族、クリスチャンの友人、友人、クリスチャンの知人、知人です。
加えて、「聖書的な活動に打ち込むように」とも書かれていますが、『「開○奉○」、「補○開○奉○」をしなければならない』とは聖書にどこにも書かれていません。
なぜならばこのような制度が出来たのはまだ100年程度しか経っていないからです。
確かに伝道活動というのは非常に大事なのは分かっています。
しかし伝道活動から入る人というのは非常に少数であることは統計からも明白に結果が出ています。
力の入れている所が違うと思うのですよ。
わたしは以前は絶対に
「伝道活動を優先し、仕事を後にしなければならない」
と考えていました。
譲歩出来る条件があっても譲歩してはならないと考えても居ました。
例えば、仕事の振りかえでどうしても無理がある場合に、伝道を優先してしまったことが多かったんですね。
理由は当然に時間が入っていなかったということでしたな。
あきれますよね。
もう少し自分に寛容に成れなかったのかが悔やまれます。
それと「奉仕者の立場や奉仕時間が多いほど立場が高くなる」という感覚というのは認められる方は少ないですが絶対にあります。
自分はこのような立場や奉仕をしているのだからと錯覚してしまうのです。
世俗の仕事でもある程度のクリスチャンとして時間を入れておられる方は、このように考えている人は少なくないでしょう。
これは聖書的ではありませんよね。
聖書には、立場や時間が増し加わるほど「奉仕者にならなければならない」と書かれています。
まあね。
これはこれで良いのです。
最近、わたしは聖書的な活動を放棄しがちに生きてきました。
理由はそのようになると「自分はどうなるのか」という検証をしたかったんですね。
大きく体調を崩し寝込んだので、その機会に便乗して実験に取りかかったのです。
半年ほど本気で寝込んでいた時は全く力が湧いてこなくて苦しみましたな。
「この人達と居ると駄目になる」と分かっていながら生きていくというのはしんどいモノです。
今も状況は変わっておらず、一緒なのですがね。
ということで日常生活も何もしないようにしました。
車で出掛けることもせず、家でぼーっとインターネットをして暮らすように勤めました。
わたしは以前は、「家が好きだ」という人の考え方を全く理解出来ませんでした。
何もなくとも写真を撮りに行き、
何もなくとも買い物に行き、
何もなくとも図書館に行き、
何もなくとも友人と遊び、
何もなくとも食事に行き、
何もなくともスポーツに行き、
何もなくともプレゼントを買い、
何もなくともお見舞いに行き、
何もなくとも自然と楽しみ、
何もなくとも外で聖書と親しんでいました。
他のことは目的を持っていってましたし、色々と遣ることがありましたからね。
そして他にも家に居たくない要因がありました。
わたしの家族は壊滅的に家事が出来ません。
食事はとても美味しくて、嬉しいのですけれどね。
他の家事が全く駄目なのです。
よって綺麗になる訳がありません。
ということは汚れていく一方だと言うことです。
汚れていくと言うことはカーテンを閉めます。
カーテンを閉めると言うことは家の雰囲気が暗くなります。
カーテンを閉めると言うことは家にモノが隠せるようになりますので、より増えていきます。
そして散らかるばかりで減ることはありません。
埃も溜まりますし、カビも発生します。
ゴミが溜まりますし、モノが散乱しています。
家の大きさ的にはモノの絶対量が多すぎるのです。
それはそうでしょう。
夫婦子供の4人家族向けであろう家に6人の大人が住んでいるのですから、当然と言えば当然だと言えます。
モノが増え積み上げていくと、その付近はデッドスペースになります。
それが余りにも多くなりすぎて掃除をする気が無くなりますよね。
掃除をする気が無くなると、そこには埃が溜まります。
埃が溜まると湿度が高い所ではカビが発生します。
カビが発生すると、喘息になり咳が発生します。
単純に生きていくことが、このような阻害要因によって大きく潰されていきます。
我が家は埃とカビだらけです。
わたしの家で掃除機の音を聞けるのは、非常に稀です。
毎日のように聴くのが普通なんですけれどね。
このような状況で人の絶対数が多く、パーソナルスペースが必要なのはわかりきっていることでした。
最近でこそ、妹君達や弟君が家を使うようになり、自分の部屋を確保出来るようになったのですが........
それまでは家族が精神的に追い詰められて必要だったのに、他の人に貸していたのですから腹が立っていた訳です。
体調を崩す要因としては、やはり人は一人になるスペースが絶対に必要だと言うことです。
それも家族一人一人が必要だとわたしは考えていました。
そのためにわたしは体調が悪い中でも、家を整えようと塗装をしていたんですけれどね。
わたしは家族全員に一人一部屋を目標に整えていました。
親は二人で一部屋で良いと言うかも知れませんが、その場合でも一部屋はみんなで使えるようにしておけば良いだけの話なのです。
この考えを汲んで貰えなかったことで、体調を崩して寝込んだ訳です。
寝込んだ要因はこれだけではなくて、
・親による「給料未払い」とその親の「金銭管理の出来なさ」
・周りの人間に聖書的に考えて構築しある程度まで効果が出ていた方法を否定され、問題を克服しつつあるのにわたしのロジックを否定され続け、駄目出しをされたこと
・仕事へのモチベーションが無くなったこと(=仕事から喜びを得ることが出来なくなった)
・家族が家事(特に掃除が)が絶望的に出来ないこと
・物事を積極的に見ることが出来ない人達に囲まれていること
・現状のままで満足し、新しいことを取り入れれば改善されることをしない人ばかりだったこと
今一瞬でぱっと考えただけですが、これだけあります。
考えれば、もっとどんどん出て来るんですけれどね。
よくよく考えると、ここまででわたしは人を尊重し、人を建てるようにしてきました。
ですが、人を食ったような人の意見が通り、人を馬鹿にしているような人間の言うことの方が発言権が強いと言うことも解るようになってきました。
聖書的には下手に出ることの方が絶対的に正しいはずなんですけどね。
よってまず人を疑う人間には、疑って掛かるようにしていかねばならないでしょうね。
わたしの精神的な対抗措置として、仕方が無いのです。
でなければわたしの精神が持ちません。
今日はこの話はここまでにしておきます。
わたしは今年に入ってから、取り組んでいることがあります。
無活動になりすぎたので、リハビリテーションをしている所です。
家族がなぜ苦しみながらするのか疑問に思っていることを、わたしは楽しむようにして行うようになりました。
これは植え付けられた気持ちというのが大きいと言うことが解ってきました。
それと毎日行う事、定期的に行う事を心掛けています。
上記のことは既に出来ていることなのですが、他にも目標があります。
おいおいですが、上記の活動の時間を徐々に増やしていこうと考えています。
それとこの延長線上に
「聖書的な活動」
「仕事」
「トレーニング」
「趣味」
「自然と楽しむこと」
「人とのかかわり」
などにもガッツリ着手して行くと言うことですね。
計画的な完全犯罪(?)を目論んでいますが、まだ取り組み始めたばかりなので続けていきたいモノです。