扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.65 2009.11.25

2009-11-25 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
死と面するというのは人として必然です....................................

少し考えさせられている事として人が死んで行くのが余りにも当たり前のように受け入れられている現状は恐ろしいと思うんですよね。
確かに人間が死ぬ事は必然となっています。
ここで必然だということを前提に書くと

「人は何故他人が死ぬ事を、これほど悲しむのだろうか」

という疑問が生まれます。
確かに家族が亡くなるとおいらも悲しくなるでしょうし、嘆く事でしょう。
でもそれが必然であるならば「悲しむ」という行為自体が意味を成さなくなるとさえ思います。

聖書的な見解を書くと人というのは「生きていて当たり前」のように作られています。
永遠に生きるという事が目的で作られている故にEveとAdamが不完全になり罪人となり死ぬようになったのは異常な現象だといえるわけです。
「限られた時間」という概念も「若い」という概念もそれほど重要視されなかったはずで体が老いるという現象も生じえなかったという事実に目を向けると現在の「限界」というのは余りにも小さいモノなのだと思えてきます。
Capacityの違いが顕著に出るはずで「永遠」というSpanから齎される余裕と「有限」の切羽詰まる危機感とでは作り出されるQualityも全く違うでしょう。

おいらの知る人の中に亡くなる人が現れるようになったのが30を超えてから多くなった事は恵まれているように思います。
確かに30になる前に知人や親族の中にも亡くなる人がいましたが、それほど接点がある訳でもなくShockは小さいものでした。
祖母が亡くなった事で人の死と真正面から向き合うようになった訳ですがね。
死と背中合わせで生きてきたおいらとしては人が死ぬという現象がそれほど大きいとは思えないんですよね。
これは聖書的な根拠などもある事から大きい事は理解出来ますが、おいらは長くは生きられないとも思われます。
生き長らえた感が否めませんし、永遠に生きる事も望んでもいません。
この辺りの認識の違いからChristianとの会話が噛み合わないという現象が発生して来ています。

自分自身の命の価値は無いと思っていますしね。
それと自分自身の価値が無いと思っていますのでおいらの言葉や価値観を問われても困るというのも事実です。
Realな生活でおいらの行動や言葉、精神態度に対する評価をする人がたまに居るのですが、それはおいらからすると迷惑な事です。
仕事以外の評価というのは他人がするものではなく自分自身で行わなければならないとも思っていますしね。
そうでなければ行動基準が曖昧になりますし、筋が通らない場合が少なくありません。

この記事を書く動機となったのは2009.11.09に写真を持って行った家族のお一人が息を引き取ったという事なんですな。

知人の中でも良く声を掛けてくださる方の家族なので心境を察すると複雑なんですよ。
おいらの価値観というのはかなり極端な考えでしょうし、悲しいという事実は否めないというのも理解出来ます。
加えておいらの近所の知人も入院されています。
お見舞いに行かなければならんな~とは思っているのですがね。

何故に望ましい方が早死にし、何故に望ましくない人間が長生きするのか

というDilemmaに関しても考えさせられています。
長生きして欲しいと思う方が亡くなって行き、害になる人間が長く生きるのでしょうか。
このような不条理は理解に苦しむんですな。
死ぬ事は解っていても順番があるだろうと思えてなりません。

人間の命の価値というのは残念ながら少なくとも平等ではありません。
まだ平等ならば良いのですがね。
公平性に欠ける事もありますし、公正さも大きく欠けます。
人間の価値というのは公正に判断されるべきです。
評価されてしかるべき方が評価されず、評価してはならない人間が評価されるという世の中です。

悲しいですな~...................

頑張っている方はもっと自分自身に自信を持って生きて行くべきです。
頑張っていなくて威張っている人間に引けを取る必要はありません。

己の不甲斐なさを痛感し、己の無力さを感じています。
しかし人を思っても他人が自分自身の事を考えてくれる訳ではありません。
おいらの見解は

「自分を思ってくださる方たちの為に生きて行くという事は正しい」

と言って憚りません。
これは逆説的に書くと

「自分の事を考えてもくれない人間の為に生きる必要はない」

という事を示しています。
求めるだけの人間には与え続ける必要はありません。
しかし「与えてくれる人間」には報いて行きたいと思っています。
おいらの「与える」の定義はただ単に物質的なものだけではありません。
「感情的な配慮」などの精神的活動も含まれています。

死に対してはそれほど抵抗が無いと書きました。
でもおいらはまだ死ぬ時期ではないようです。
報いていない人が幾人か居ますので、思い残す事がありますからな。
まだ実行出来ていない事も多数あります。

自分が生きている事を肯定的に受け止めて生活して行かねばならんな~

なんて考えさせられました。
生きている限りは生きる責任が発生します。
最低限の責任を果たして行きたいものです。

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