♪らーらーらーらららららーら~♪らーらーらーらららららーら~♪.........................
「勝手にシンドバッド」という歌知っていますか?
サザンオールスターズのDebut曲です。
この歌の出だしです。
おいらは運気とか占いという如何様やオーラの何とかなんて大嫌いなモノなんですな。
はい、そうですか、勝手にしていれば~
という感じなのですが、おいらの名前のBalanceが最高に良くて何をしてもうまく行くと姓名判断で出ていたようです。
別にどうでもいい話ですよね。
嬉しくもありませんし、運という概念や名前という概念は他人や親が勝手に決めるのですから本人が望もうが望むまいが付けられる類のモノです。
そんなモノで善し悪しが変わるというのはなんてNonsenseでAboutな「判断」なんだとか考えています。
そしてそこには本人の行動基準や努力、価値観等が入り込む余地がないというのが更に救いようがないモノとなってしまいます。
これは占いにも適応されますよね。
そもそもあんなモノに頼るぐらいならばその時間を自分を向上させる為の時間として
「努力せえよ」
と声を大にして言いたい。
これを調べてくれた人やその話を聴いた人がしょっちゅうこの話を持ち出して話を振ってきます。
もちろんChristianではない方々です。
Christianは占いや占星術、姓名判断などは信じませんし、取り入れません。
んでこの話を振られると頭の中で「勝手にシンドバッド」が流れ始めるという感じです。
特に「らーららーらららららーら~」の部分がEndlessで流れてきます。
んで、もしもの話を書きましょう。
もしもおいらが姓名判断などを信じる立場にあるとして今までおいらが経験してきた事柄をどう説明できるのでしょうか?
鬱病まで発症して死ぬことを願いつつ生活している人間を捕まえて信じろという方が無理があるでしょう。
説得力の欠片も感じられない他人が人の運勢を決める事柄はどれを取ってみてもNonsenseで非常識極まりないんですよ。
占いなどはCold LeadingやHot Leadingなどは誰でもある程度の技術を身につければ行えることですしね。
信憑性が弱いんですな。
人間というのはSynchronizeされることに本当に弱い生き物ですね。
適切な感情移入を多少行えると人はその人とは親しくなれると勘違いしやすいモノです。
どんな出だしをしているのだと我ながら思いますが、いろいろと納得が出来ていないのでついつい書いてしまいました。
確かなこととして字面的にBalanceが良いのは自分でも解るぐらいですので他人が見ると良いように見えるのは仕方がないことでしょう。
これは子供の頃から解っていることでしたし、読み方は別として字が気に入っているのは事実です。
本質的で普遍的な人間が追求する名前ですからね。
この話はこの辺りにしておきます。
ここからは話を変えて自分の心理的な部分のNegativeな所を変えたいのでいろいろと調べています。
どうやって変えていくのかはやはり自信が必要である程度の自尊心を得ることが重要だと書かれていることが少なくありません。
しかし自尊心というのは得るのが非常に難しい事なのは重々承知していますし、これからも得る可能性が低いのは明白です。
ところがこれを変えなければならな時点まで来ているようなんですよね。
一個人としてのおいらだけが責任を負ったり物事を行っていくのであれば何ら問題有りませんし、得る必要はありません。
でもそうも言っていられない事態になりつつありますので困っているんですよ。
加えて現状から収入を得ることが出来るのであれば自立して物事を行えるようにしていこうとも考えたりしています。
それには「自分を養う」という問題が発生してきます。
既に自立しようと思えば出来る知識もありますし、行動に移そうと思えば出来る経済力も得ることが出来るようになりつつあります。
それに自活していく為の生活力も多少は培えているはずです。
何事もおいらは今まで自信を持つことなく物事を行ってきました。
自信を持つことがないと言うことは他人が見てもそれが解ることになります。
優柔不断ではなく知識や理解力を保有できてこなかっただけだったことも明らかになってきています。
自信を裏付けるのは知識や理解に他なりません。
おいらは出たとこ勝負の無計画で無責任な行動というのは大嫌いなのですよ。
例え「神の祝福」次第で出たらやっていけると言われてもです。
確かにChristianとして生活していく為に出るのであればそれをアテにして出ることも一つの手段なのかも知れません。
「全ての事を神に委ねなさい」と言う聖書の言葉はあります。
でも「費用を計算するように」とも書かれているのです。
おいらは「石橋を叩いて渡る」性格です。
よってある程度の方法を知って、軍資金や家財道具などが揃える算段が整ってからでないと行動には移さないことは明白です。
確かに神に頼って生活するのも重要ですし、物事の最終決定には祈りの下に行うことは当然のことです。
無責任に行動するのが全て良くないと言っている訳ではありません。
何かしらの確信があるのであればそれは通りに適った範囲で行えばいいとは思います。
しかし無計画で首が回らないとか身体をこわしたり、精神に異常を来すのであればそれは本人の決定が誤りだったことを如実に物語っているんですよ。
そう言う人を何人も見てきました。
客観的に見て「本人に過失が無い」と判断する人が居ますけどね。
「費用」をちゃんと計算していればそういう事態には陥らなくて済んだはずなのですよ。
「費用」というのはお金だけではありません、
肉体的活動、精神的活動や食生活、日常生活を健全におくれるかどうかもなども「費用」の内に入っています。
”原則”ですからな。
原則(Principle)というのは多角的(Multilateral)に適応(Adaptation)していくべき方法(Method)です。
それを適応できる能力は若いと小さいんですよね。
何事も引き出しの多さがモノを言うのです。
ただ自信が無い頃と大きく変わったこととして「自分が無い」という考え方になった部分でしょうかね。
自分自身の取り分は何もないと考えることほど楽な事はありません。
そこには他人に期待する欲求というのが無くなるのですから、何かしらをして欲しいということを他人に期待することはしなくなります。
これが根本的に変わった点でしょうかね。
此方を見ていてもおいら自身が透明人間のような感じて考えるようにしています。
これは大きいですよ。
他の人に期待するというのは非常にEnergyが必要な事ですし、思い煩わされます。
確かに他の人に頼み事をすることがありますし、一定の成果が必要なこともありますけどね。
頼み事をする前にそれが自分に出来る確実性を確保してからしか頼みません。
つまり他の人が出来ない場合に自分がそれを代わりに全て行える分を確保しておくのです。
そうすると他の人が出来ると喜ばしいことですし、ほめることも出来ます。
逆に出来なくても代わりの自分が出来るのですから余裕が出来てSupportしながら物事を行えることにもなります。
おいらは物事を行う際には自分自身がSupportできる範囲でしか行動を起こしませんからな。
よって殆どおいらがActionを起こすことはありません。
おいらがActionを起こすと言うことはかなりの程度の事が行えることだと言うことです。
頼まれ事でも理解し把握できる範囲でしか承諾しませんし、物事も行いません。
無責任な人間にはなりたくはありませんからな。
出来ないのであれば断るというのも責任の在り方だとも受け取っています。
自分の分を超えて物事を行うことほど無責任なことはないでしょう。
自信満々に「出来ます」と言っておきながら依頼主に「やっぱり出来ませんでした」と時間が経ってから言うよりも最初に「難しいですね。出来ないかも知れません。」と言う方が賢明です。
聖書にこのような聖句があります。
「あなた方はどう考えますか。 ある人に二人の子供がいました。
彼は一番目の者の所に行って、『子供よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言いました。
この者は答えて『行きます、父上』と言いましたが、出かけて行きませんでした。
二番目の者に近づいて、彼は同じことを言いました。
この者は答えて、『行きません』と言いました。
後ほど彼は後悔して出かけて行きました。
この二人のうち、どちらが父の意志を行いましたか。」
彼らは、「後の者です」と言った。
問い掛けはイエス・キリストが返答は12使徒が行ったと思われます。
形は違いますが、これが依頼主との関係でも当て嵌まるでしょう。
出来ないのであれば「出来ません。」並びに「出来ないかも知れません。」と返答して然るべきなのです。
物事というのは初めて行うことで他の人に頼まれたことを行えたとしても「出来た」とは言えません。
それは完成されたProcessの中での作業ではなく、完成度の低いモノだからです。
つまり何度も何度も反復練習をして習熟して物事を行えるBackboneを構築できた上で行うことが「出来た」ということでしょう。
こういう考え方ですので固いとか良く言われるんですよね。
「冒険しても良いじゃないか」的な事をよく言われることがあります。
もっとFrankに話したり行動できたりすればどれほど楽だろうと考えることもあります。
自分の殻が固く多いので、それらを薄くして克つ剥いで少なくするのがおいらの現状の課題なのでしょう。
努力しなければならないな~.........................
やることが山積していますな。
ぼちぼちやっていきます。
「勝手にシンドバッド」という歌知っていますか?
サザンオールスターズのDebut曲です。
この歌の出だしです。
おいらは運気とか占いという如何様やオーラの何とかなんて大嫌いなモノなんですな。
はい、そうですか、勝手にしていれば~
という感じなのですが、おいらの名前のBalanceが最高に良くて何をしてもうまく行くと姓名判断で出ていたようです。
別にどうでもいい話ですよね。
嬉しくもありませんし、運という概念や名前という概念は他人や親が勝手に決めるのですから本人が望もうが望むまいが付けられる類のモノです。
そんなモノで善し悪しが変わるというのはなんてNonsenseでAboutな「判断」なんだとか考えています。
そしてそこには本人の行動基準や努力、価値観等が入り込む余地がないというのが更に救いようがないモノとなってしまいます。
これは占いにも適応されますよね。
そもそもあんなモノに頼るぐらいならばその時間を自分を向上させる為の時間として
「努力せえよ」
と声を大にして言いたい。
これを調べてくれた人やその話を聴いた人がしょっちゅうこの話を持ち出して話を振ってきます。
もちろんChristianではない方々です。
Christianは占いや占星術、姓名判断などは信じませんし、取り入れません。
んでこの話を振られると頭の中で「勝手にシンドバッド」が流れ始めるという感じです。
特に「らーららーらららららーら~」の部分がEndlessで流れてきます。
んで、もしもの話を書きましょう。
もしもおいらが姓名判断などを信じる立場にあるとして今までおいらが経験してきた事柄をどう説明できるのでしょうか?
鬱病まで発症して死ぬことを願いつつ生活している人間を捕まえて信じろという方が無理があるでしょう。
説得力の欠片も感じられない他人が人の運勢を決める事柄はどれを取ってみてもNonsenseで非常識極まりないんですよ。
占いなどはCold LeadingやHot Leadingなどは誰でもある程度の技術を身につければ行えることですしね。
信憑性が弱いんですな。
人間というのはSynchronizeされることに本当に弱い生き物ですね。
適切な感情移入を多少行えると人はその人とは親しくなれると勘違いしやすいモノです。
どんな出だしをしているのだと我ながら思いますが、いろいろと納得が出来ていないのでついつい書いてしまいました。
確かなこととして字面的にBalanceが良いのは自分でも解るぐらいですので他人が見ると良いように見えるのは仕方がないことでしょう。
これは子供の頃から解っていることでしたし、読み方は別として字が気に入っているのは事実です。
本質的で普遍的な人間が追求する名前ですからね。
この話はこの辺りにしておきます。
ここからは話を変えて自分の心理的な部分のNegativeな所を変えたいのでいろいろと調べています。
どうやって変えていくのかはやはり自信が必要である程度の自尊心を得ることが重要だと書かれていることが少なくありません。
しかし自尊心というのは得るのが非常に難しい事なのは重々承知していますし、これからも得る可能性が低いのは明白です。
ところがこれを変えなければならな時点まで来ているようなんですよね。
一個人としてのおいらだけが責任を負ったり物事を行っていくのであれば何ら問題有りませんし、得る必要はありません。
でもそうも言っていられない事態になりつつありますので困っているんですよ。
加えて現状から収入を得ることが出来るのであれば自立して物事を行えるようにしていこうとも考えたりしています。
それには「自分を養う」という問題が発生してきます。
既に自立しようと思えば出来る知識もありますし、行動に移そうと思えば出来る経済力も得ることが出来るようになりつつあります。
それに自活していく為の生活力も多少は培えているはずです。
何事もおいらは今まで自信を持つことなく物事を行ってきました。
自信を持つことがないと言うことは他人が見てもそれが解ることになります。
優柔不断ではなく知識や理解力を保有できてこなかっただけだったことも明らかになってきています。
自信を裏付けるのは知識や理解に他なりません。
おいらは出たとこ勝負の無計画で無責任な行動というのは大嫌いなのですよ。
例え「神の祝福」次第で出たらやっていけると言われてもです。
確かにChristianとして生活していく為に出るのであればそれをアテにして出ることも一つの手段なのかも知れません。
「全ての事を神に委ねなさい」と言う聖書の言葉はあります。
でも「費用を計算するように」とも書かれているのです。
おいらは「石橋を叩いて渡る」性格です。
よってある程度の方法を知って、軍資金や家財道具などが揃える算段が整ってからでないと行動には移さないことは明白です。
確かに神に頼って生活するのも重要ですし、物事の最終決定には祈りの下に行うことは当然のことです。
無責任に行動するのが全て良くないと言っている訳ではありません。
何かしらの確信があるのであればそれは通りに適った範囲で行えばいいとは思います。
しかし無計画で首が回らないとか身体をこわしたり、精神に異常を来すのであればそれは本人の決定が誤りだったことを如実に物語っているんですよ。
そう言う人を何人も見てきました。
客観的に見て「本人に過失が無い」と判断する人が居ますけどね。
「費用」をちゃんと計算していればそういう事態には陥らなくて済んだはずなのですよ。
「費用」というのはお金だけではありません、
肉体的活動、精神的活動や食生活、日常生活を健全におくれるかどうかもなども「費用」の内に入っています。
”原則”ですからな。
原則(Principle)というのは多角的(Multilateral)に適応(Adaptation)していくべき方法(Method)です。
それを適応できる能力は若いと小さいんですよね。
何事も引き出しの多さがモノを言うのです。
ただ自信が無い頃と大きく変わったこととして「自分が無い」という考え方になった部分でしょうかね。
自分自身の取り分は何もないと考えることほど楽な事はありません。
そこには他人に期待する欲求というのが無くなるのですから、何かしらをして欲しいということを他人に期待することはしなくなります。
これが根本的に変わった点でしょうかね。
此方を見ていてもおいら自身が透明人間のような感じて考えるようにしています。
これは大きいですよ。
他の人に期待するというのは非常にEnergyが必要な事ですし、思い煩わされます。
確かに他の人に頼み事をすることがありますし、一定の成果が必要なこともありますけどね。
頼み事をする前にそれが自分に出来る確実性を確保してからしか頼みません。
つまり他の人が出来ない場合に自分がそれを代わりに全て行える分を確保しておくのです。
そうすると他の人が出来ると喜ばしいことですし、ほめることも出来ます。
逆に出来なくても代わりの自分が出来るのですから余裕が出来てSupportしながら物事を行えることにもなります。
おいらは物事を行う際には自分自身がSupportできる範囲でしか行動を起こしませんからな。
よって殆どおいらがActionを起こすことはありません。
おいらがActionを起こすと言うことはかなりの程度の事が行えることだと言うことです。
頼まれ事でも理解し把握できる範囲でしか承諾しませんし、物事も行いません。
無責任な人間にはなりたくはありませんからな。
出来ないのであれば断るというのも責任の在り方だとも受け取っています。
自分の分を超えて物事を行うことほど無責任なことはないでしょう。
自信満々に「出来ます」と言っておきながら依頼主に「やっぱり出来ませんでした」と時間が経ってから言うよりも最初に「難しいですね。出来ないかも知れません。」と言う方が賢明です。
聖書にこのような聖句があります。
「あなた方はどう考えますか。 ある人に二人の子供がいました。
彼は一番目の者の所に行って、『子供よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言いました。
この者は答えて『行きます、父上』と言いましたが、出かけて行きませんでした。
二番目の者に近づいて、彼は同じことを言いました。
この者は答えて、『行きません』と言いました。
後ほど彼は後悔して出かけて行きました。
この二人のうち、どちらが父の意志を行いましたか。」
彼らは、「後の者です」と言った。
問い掛けはイエス・キリストが返答は12使徒が行ったと思われます。
形は違いますが、これが依頼主との関係でも当て嵌まるでしょう。
出来ないのであれば「出来ません。」並びに「出来ないかも知れません。」と返答して然るべきなのです。
物事というのは初めて行うことで他の人に頼まれたことを行えたとしても「出来た」とは言えません。
それは完成されたProcessの中での作業ではなく、完成度の低いモノだからです。
つまり何度も何度も反復練習をして習熟して物事を行えるBackboneを構築できた上で行うことが「出来た」ということでしょう。
こういう考え方ですので固いとか良く言われるんですよね。
「冒険しても良いじゃないか」的な事をよく言われることがあります。
もっとFrankに話したり行動できたりすればどれほど楽だろうと考えることもあります。
自分の殻が固く多いので、それらを薄くして克つ剥いで少なくするのがおいらの現状の課題なのでしょう。
努力しなければならないな~.........................
やることが山積していますな。
ぼちぼちやっていきます。