扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

常識がある人と常識がない人

2006-11-21 22:04:07 | Weblog
おいらはクリスチャンです...........

「プレゼントを貰う」行為というのは多くの場面で宗教的な儀式と結びついている事が多いのが現状です。
世間一般で祝われている誕生日とクリスマスは宗教と結びついています。
よって聖書を純粋に学ぶ人間というのはこれらを祝いません。

おいらは今日の集会で「多くのものを得損なってきたと感じたことはありません」という注解をしました。
これはプレゼントに関してのみの注解です。
その他のことに関してはえそこなっているとかんじることは非常にたくさんありました。
しかしその要因となったのは外因的な原因なので仕方がありません。
先日も書きましたが、おいらは非常に不本意な仕方で引っ越しを強要されて愛媛に来たいきさつがあります。
これはおいらの人生設計では想定の範囲外であり、考えられないことでした。
甘い言葉でおいらの家族を誘惑した親族がいます。
無責任なこの人たちは自分たちが常識人だと信じている方たちです。

この親族も一応クリスチャンであり、この親族から真理を聴いた経緯があります。
このことが「人生最大の汚点だ」と感じてしまうおいらがいます。

愛媛に来た経緯を書いてみるとこの親族が
「新しい家を建てたので一緒に住まないか」
「子供が多いので面倒をみてくれ」
などの言葉をつかい巧みに愛媛に来るように親を誘惑しました。

子供の頃というのは大人の性行というのがよく見えますよね。
この方たちはお世辞にも「素晴らしい人徳を有した立派な方」たちとは言えません。
どちらかというと自分が可愛くて、自分の家族が第一だという人たちです。
子供の頃に子供同士の喧嘩というのはつきものです。
そして親というのは他人身内関係なく公平な見地で物事を見るのは子供の人生において非常に大切な教訓です。
この方たちはこれが出来ませんでした。
たとえ自分の子供に非がある可能性があっても前提として自分たちの子供が正しいとしてきました。
よって子供たちが増長しておいらの家族を唆すようにな知りました。
挑発するようになったんですな。
おいらは若かったのでそれにいちいち挑発に乗ってしまいました。
そのたびに怒られるのはおいらでした。
また何もした覚えがない事でもおいらが原因とされて怒られたことがありました。
これはおいらだけではなくて家族全員がうけていたようです。
ど田舎の公務員だと言うだけで威張り散らしている大人が自分を常識人としていると今考えると笑えてきます。
自分が立派な仕事をしているから自分が正しいとする人間の多さにはうんざりします。
特においらのすんでいる地方は「公務員」や「学校の先生」がどの仕事をする人よりも素晴らしい人間だという考えが子供の頃から擦り込まれているようです。
しかし現在の学校の現状を作っている人たちや、汚職まみれの公務員たちをみているとどう考えても全ての公務員や学校の先生が立派な仕事をしているとは考えられません。
今だけではなくおいらは子供の頃から自分が常識人だと言い張る人間を信用してきませんでした。
自分が常識人だという人間は自分で言うこと自体が常識人ではないことを示しているからです。
人間が自分が正しいと考える事自体おかしな事だとおいらは考えています。

これは聖書にも基づいています。
人間が誇れる事というのは神に関してのみなのです。
聖書には誇っても良いこととして、
・この真理という知識にありつけたこと
・神との関係を培うことが出来たこと
・神の見地を少しですが理解することが出来ていること
・イエス・キリストの犠牲によって罪の許しを得る事が出来る可能性を与えてくださっていること(おいらは許されることはありませんが)
などが言葉から読み取れます。

少し話がずれたのですが、戻そうと思います。
理想に燃える教師というのはいますし、公務員の中にも正しい動機をもって仕事をしている人もいるでしょう。
しかし世の中の傾向は腐敗的です。
あるテレビで言われていましたが、若くして「先生」と呼ばれることに慣れてしまうは異常な事ですよね。
素晴らしいキャリアの方は順当にいけば23歳ぐらいで学校の「先生」になることが出来ます。
でも学校を卒業して社会人としての人生経験の浅いこのような「先生」はテストとしての「一般常識」はよく知っていますが、実際の生活においての一般常識は全く知らないことが多いのです。
よってもっと社会人としての人生経験を培ってから採用されないといけないと感じるのです。

これは公務員にも全く同じに当てはめなければならないことです。

しかし学校の先生というのは子供たちの教えるという重要性を有しています。
また人からは

「もっとも清くあるべき人間」

だとされています。
これは子供たちに大いに誤解を持たせる言葉です。

おいらは小学生の時に先生が信号無視したのを見てすごくショックを受けたのを覚えています。

今思えば教師も人間であり、失敗もしますし間違ったりします。
また人間としての欲求も持っています。
だから教師も綺麗な人間ではない事を認めて対応すべきなのです。
学校の教科書にこのことを書いて教育の一環に含めるのは当然のことですよね。
しかもこの教育というのは勉強を始める最初期に行われるべきなのです。

また腐敗的な慣習を無くすためにも年功序列という制度を見直し、若い人にも発言権を持たせるべきです。
確かに目上の人には服さなければなりません。
しかし間違ったことやおかしい慣習というのは指摘されるべきであり、それらに平衡を持って対応できるのはその仕事場に染まっていない人間です。

客観性を持った人間というのはどの仕事でも必要ですし、仕事をするに当たっては客観的に見れる人間が出来る人間だとおいらは考えています。

まあ全ての方に当てはまるわけではないんですが、この世界をみると偏っていない人間の方が少ない事は明らかです。
というより全ての人間に完璧な義は存在しません。
人間として完璧な義を有していたのは過去に3人だけです。
しかしそのうち二人(アダムとエバ)はそれを自分から放棄してしまいました。
そして義を貫き通したもう一人はその「義」故に人たちから煙たがられ、正しいことし続けることにより犯罪者として殺されるに至りました。
イエス・キリストを通して与えられる神の愛というのはなんと大きいのでしょう。

ところで話を一番最初にもどします。
プレゼントに関してはおいらは両親に過分に頂いてきました。
でもおいらは両親によって与えられることを彼らの出来る以上のものを求めてきたことを理解するに至りました。
おいらが親なら大変辛い思いをしてきたのは明白です。
もっと親孝行しなくてはいけないな~と考えるのですが、できるほど収入がないのでできていません。
もし関西にいたなら出来ていたでしょうし、気持ちも乱れることなく過ごせたことでしょう。
まあ過去のことを書いても意味がないのですが、今日の研究記事を学んで書かずにはいられなかったので書きました。

この記事で言いたいことは

人間だれしも正しい(常識がある)という人は自分が正しい(常識がある)と言う故に「正しくない(常識がない)」

ということです。

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