「仁のお嫁さんになる」
花穂が、そう言葉にした時、すぐには反応できなかった。
目の前にいる十六歳の女の子に、それを云わせてしまったことが苦しかった。
でも後戻りすることはできない。一度聞いた言葉を、聞かなかったことにするなんてできない・・。
――神埼仁の心の中は、様々な想いがうごめいていた。
三十を過ぎ、恋人と呼ぶ女はいない。
誰と話をしていても、いい友だちとしか思えない。
心が動かない。
一目惚れを良し、とは云わない。
でも何か直感的に感じるものがあって、初めて心が動くような気もしてた。
仁が、それまで付き合ってきた女性の殆どが、最初に「いいな」と思った人ばかりだ。
それが、今はない。
特殊な環境のなかで暮らすからだろうか。
そう考えたこともあった。
でも、そんなの変だ。
やっぱり自分の心が動く女に出逢っていないと思っていた。
花穂に逢ったのは、そんな頃だった。
セーラー服を見て、すぐに一回り以上の年の差があると分かった。
それでも、彼女の瞳に引き込まれた。黒目のはっきりした、大きな目。綺麗と云うよりは、丸い輪郭の可愛い雰囲気の子。まだ少女と呼んでもいいくらいの、女の子。
突然、見知らぬ土地へやって来た彼女はパニックを起こしかけていた。そして声を殺し、何かに耐えるように涙を流す。その姿に心が動いた。
たぶん、それが最初の好意だ。
仁は、できるうる限り自然に声を掛けた。
年の差を感じて欲しくなかったから。
花穂の内側の人間になりたかったから。
話すと、彼女の内側にある強さに気付いた。
暮らしてみると、彼女の知識の豊富さに感服した。
荒れ放題だった畑を「耕す」と云い、暫くすると、村でも煩型で通っている人と仲良くなっている。
花穂に訳を聞くと、
「おじさんが腐葉土を分けてくれたのよ」
と答えた。
その腐葉土は、多くの村人が喉から手が出るほどに欲しがっている物だった。
いろいろなことを試して、便利に暮らす工夫をする。
如雨露やシャワーを作ったと云われた時は、何をしたんだと思ったが、夏だけなら充分汗は流せるし、花に遣る水には如雨露の方が使い易そうだった。
細籤(ほそひご)を麻紐で編み始めた時は、次は何だと思った。網戸なんてもののない暮らしは虫との闘いでもある。せめて風の通る戸を作ると、簡易網戸を作り上げた。
その籤も、有数の竹林を持つ人から分けてもらったのだと簡単に云う。
仁が此処に来た時の苦労を思うと、花穂はみんなに可愛がられていると思った。
そして、そう思った時、自分だけの花穂でいて欲しいと初めて思った。この時に感じた想いこそが、彼女に対する愛情を確信した想いだった。
十四も年下の女の子に恋をした。心ごと持っていかれた恋だった。
その花穂が心を閉ざしてしまう程の苦痛を味わったと知ったのは、彼女が倒れた後だった。
彼女を失いたくない、と思った。
二度と離れない、と誓った。
それでも仕事を始めてしまえば不可能になる。
仁は、ずっと休んだままだ。
二人で食べる分くらい何とかなる。畑を耕して、暮らせばいいと思っていた。
そんな時、花穂が云った。
「医療所へ行って」と。医者に戻ることはない、と決めていたのに。
一番身近にいて、一番好きな子の心の病に気付かない医者なんて、やぶ医者だ。だから医者にだけは、戻らないと思ってた。
その花穂が医者に戻れと云う。
仁の答えは、プロポーズだった。
年の差が何だ。
ここでは十六で嫁に行く娘は、たくさんいる。
結婚しよう、と。
ずっと一緒にいよう、と口にしていた。
花穂に返事を云わせたくなくて、ずっと黙っていた言葉を思わず口にした。
彼女は答えた。
仁のお嫁さんになる、と。
ごめん、と云いそうになって、慌てて「ありがとう」と云い変えた。
「何も苦しまない人生を、せめて、これからは俺が贈ろう」
彼女の頬をつたう涙に、仁は、そっと口づけた。
相変わらずの大きな瞳は閉じられることはなく、愛しげに仁を見つめていた。
【了】
著作:紫草
花穂が、そう言葉にした時、すぐには反応できなかった。
目の前にいる十六歳の女の子に、それを云わせてしまったことが苦しかった。
でも後戻りすることはできない。一度聞いた言葉を、聞かなかったことにするなんてできない・・。
――神埼仁の心の中は、様々な想いがうごめいていた。
三十を過ぎ、恋人と呼ぶ女はいない。
誰と話をしていても、いい友だちとしか思えない。
心が動かない。
一目惚れを良し、とは云わない。
でも何か直感的に感じるものがあって、初めて心が動くような気もしてた。
仁が、それまで付き合ってきた女性の殆どが、最初に「いいな」と思った人ばかりだ。
それが、今はない。
特殊な環境のなかで暮らすからだろうか。
そう考えたこともあった。
でも、そんなの変だ。
やっぱり自分の心が動く女に出逢っていないと思っていた。
花穂に逢ったのは、そんな頃だった。
セーラー服を見て、すぐに一回り以上の年の差があると分かった。
それでも、彼女の瞳に引き込まれた。黒目のはっきりした、大きな目。綺麗と云うよりは、丸い輪郭の可愛い雰囲気の子。まだ少女と呼んでもいいくらいの、女の子。
突然、見知らぬ土地へやって来た彼女はパニックを起こしかけていた。そして声を殺し、何かに耐えるように涙を流す。その姿に心が動いた。
たぶん、それが最初の好意だ。
仁は、できるうる限り自然に声を掛けた。
年の差を感じて欲しくなかったから。
花穂の内側の人間になりたかったから。
話すと、彼女の内側にある強さに気付いた。
暮らしてみると、彼女の知識の豊富さに感服した。
荒れ放題だった畑を「耕す」と云い、暫くすると、村でも煩型で通っている人と仲良くなっている。
花穂に訳を聞くと、
「おじさんが腐葉土を分けてくれたのよ」
と答えた。
その腐葉土は、多くの村人が喉から手が出るほどに欲しがっている物だった。
いろいろなことを試して、便利に暮らす工夫をする。
如雨露やシャワーを作ったと云われた時は、何をしたんだと思ったが、夏だけなら充分汗は流せるし、花に遣る水には如雨露の方が使い易そうだった。
細籤(ほそひご)を麻紐で編み始めた時は、次は何だと思った。網戸なんてもののない暮らしは虫との闘いでもある。せめて風の通る戸を作ると、簡易網戸を作り上げた。
その籤も、有数の竹林を持つ人から分けてもらったのだと簡単に云う。
仁が此処に来た時の苦労を思うと、花穂はみんなに可愛がられていると思った。
そして、そう思った時、自分だけの花穂でいて欲しいと初めて思った。この時に感じた想いこそが、彼女に対する愛情を確信した想いだった。
十四も年下の女の子に恋をした。心ごと持っていかれた恋だった。
その花穂が心を閉ざしてしまう程の苦痛を味わったと知ったのは、彼女が倒れた後だった。
彼女を失いたくない、と思った。
二度と離れない、と誓った。
それでも仕事を始めてしまえば不可能になる。
仁は、ずっと休んだままだ。
二人で食べる分くらい何とかなる。畑を耕して、暮らせばいいと思っていた。
そんな時、花穂が云った。
「医療所へ行って」と。医者に戻ることはない、と決めていたのに。
一番身近にいて、一番好きな子の心の病に気付かない医者なんて、やぶ医者だ。だから医者にだけは、戻らないと思ってた。
その花穂が医者に戻れと云う。
仁の答えは、プロポーズだった。
年の差が何だ。
ここでは十六で嫁に行く娘は、たくさんいる。
結婚しよう、と。
ずっと一緒にいよう、と口にしていた。
花穂に返事を云わせたくなくて、ずっと黙っていた言葉を思わず口にした。
彼女は答えた。
仁のお嫁さんになる、と。
ごめん、と云いそうになって、慌てて「ありがとう」と云い変えた。
「何も苦しまない人生を、せめて、これからは俺が贈ろう」
彼女の頬をつたう涙に、仁は、そっと口づけた。
相変わらずの大きな瞳は閉じられることはなく、愛しげに仁を見つめていた。
【了】
著作:紫草