第3章 基義
閑静な住宅街に在る家。
傍から見ればそれなりの生活をする家庭に見えるのだろう。しかし実際はそうではない。どの家庭にも大なり小なり問題はあり、それを解決しながら暮らしているのだ。
赤川基義(あかがわもとよし)は家族の意義について考える。
同じ屋根の下に住む。同じ食卓で食事をとる。家族にしか打ち明けない話題があったり、世間には漏らさない秘密を共用する。
最近、そんなものに意味はないとわかった。隣家に住む矢谷家と深く関わるようになり、自分の生きてきた場所は家庭ではなかったと知る。
基義は母と血の繋がりがない。
いつだっただろう。母が突然言ったのだ。
『あなたを産んだのは私じゃない』
と。もともと妹の皐月とは差別されて育った。父は女の子は可愛いという尤もらしい言い訳をしていたが、思えば他人の子だという思いがあったのだろう。
育てるということは、ただ衣食住を与えればいいというものではない。しかし両親は基義に愛情というものをかけることはなかった。
母は、いくつになっても女だ。
父に依存して生きてるくせに、少し帰りが遅くなるだけで罵詈雑言の嵐だ。父の悪癖が事実か否か、確かめたことはない。が、母のどろどろした感情だけは理解した。
小二で越してきてから隣同士というだけのつきあいしかしていなかった矢谷莉玖と、中学に入って同じクラスになった。同じ年齢なのに彼は大人びていて、クラスの中でもみんなに頼りにされるような存在だった。
もっと仲良くなりたくて同じサッカー部に入った。隣同士の家だ。いつしか帰りは二人と決まり事のようになり、勉強にしろ部活にしろ毎日が楽しいと、これまで生きてきて初めて思えた。
そんな莉玖が時折、物思いに沈んでいることがあった。世の中の興味というものが全て彼を中心に回っていた基義は、彼奴の視線の先にあるものに気付いた。
一つ下の妹、実玖の背中を見つめる莉玖の瞳は紛れもなく恋をしていた――。
信じられなかった、妹を好きになるなんて。基義にとっての妹は煩わしいだけの、我が儘で自己中な女とも思えない存在だ。
だからこそ実玖に興味を持った。あの男が関心を払う相手。倫理なんてものは自分にはない。何故なら、自分の家族は倫理のなかで生きていないから。
中三になると受験の話が出る。当然のように莉玖と同じ学校を選び、クラブを引退した後は一緒に勉強をした。矢谷の家に上がったのは、その時が初めてだった。遅くまで居座っていると実玖がやって来る。
『お夕飯食べていってって。お家に連絡しておいてね』
最初はそんな感じだった。ただの伝書鳩だなと思っていた。変化が訪れたのは後期の中間テスト前だ。
『りっちゃん。分かんないとこ教えて』
彼女はそう言いながら入ってきた。驚いた。皐月は自分を名前では呼ばない。だからといって、お兄ちゃんとか兄貴とか呼ばれるわけでもない。一番多いのは、ね~ ちょっと。
その時、いつもそう呼ぶのかと聞いた。勉強を教えて欲しいから、今日だけ特別なのかと。でも彼女は笑って答えた。
『お兄ちゃんとかの方が言えない。りっちゃんは、ずっとりっちゃんだもん』
隣の花は赤い。
こんな妹だったら、家も少しは違ったのだろうか。そんな風に思い始めてしまうと、自宅に帰るのが嫌で嫌でたまらなくなった。
矢谷の小母さんは、基義が頂きますを言わずに食べ始めようとすると叱る。食べ終わって食器を流しに片づけなくても。学校帰りに矢谷の家に帰った時はただいまを、遅くになって帰る時はお休みなさいを言うものだと。
でもその後で、そのうち自然に身についちゃったら何処に行っても困らないという自信になると教えてくれた。
『そしたらおばちゃん、自慢の息子みたいに思っちゃうよ』
その言葉が本当に嬉しかった。
どうせ引き取られるのなら、矢谷のような家がよかった。
母親を取り替えられるものならば取り替えたい。本気でそう思った。
そんな時だった。父のところに知らない女の人が訪ねてきたのは。
ご子息の出生について聞きたいことがある、と告げられると、父はその人を連れて出て行った。後ろ姿を見送った母親は鬼のような形相で、父の帰宅まで玄関の三和土で待っていた。
不吉な予感がした。
無事に高校入学を果たし、学校にさえ行けば家のことを忘れていられた。莉玖と通う高校は最高に居心地がよかった。なのに、また妹が追いかけてくると言う。
どうして離れてくれないんだ。高校なんてくさる程あるじゃないか。結局、皐月に甘い両親は基義がいるなら安心だとか言っちゃって、第一志望を決めた。落ちてしまえばいい、否、本当に落ちると思っていた。彼奴の成績じゃ受からないだろうと。でも受験までの一年、家庭教師と塾の掛け持ちで最低レベルだっただろうけれど受かってしまった。
だからこそ一緒には登校しないと宣言した。
推薦で早々に合格通知を受け取っていた実玖は、当然莉玖と通うだろう。基義は一緒に行ってもいいかと尋ねた。
『当ったり前じゃん。りっちゃんが休む時は一緒に行こうね』
そんな実玖の優しさに本当に救われた。何事もなくスタートした筈の三人の高校生活だった。三年の夏休み、あの女が父を刺してしまうまでは。
父は意識を取り戻すことなく眠っている。まるで現実逃避をしているようだ。母も入院し、皐月と二人きりになった。
隣に呼んでもらっている頃はまだよかった。小母さんが実家に帰ってしまってからも皐月は図々しく上り込み、でも単純に食事を馳走になっているものとばかり思っていた。それなのに。
『皐月は実玖を苛めてると思う』
そんな莉玖の言葉に愕然とした。実玖は何も言わないらしい。でも様子がおかしいのだと。
とりあえず皐月にそれとなく忠告してみる。すると彼奴は笑った。それまでふて腐れた顔しか見せたことがなかったのに――。
もし妹が実玖だったら。そんな思いが暴走した。
「お前も実玖を見習えよ」
途端に、母によく似た形相になった。もう本当に家族じゃないよな。憎しみを向けられた妹に、今夜は莉玖のところに泊まると言って家を出た。
矢谷の家に行き、三人でリビングに集まる。
「実玖、ごめん。その腕の火傷、痕が残るって聞いた」
白い包帯が痛々しい。実玖は皐月の名を出してない。でも絶対に彼奴がやったに決まってる。
「落ち着いたら、形成手術を受けるの」
そして、そうすれば今よりもずっと目立たなくなるらしいと微笑んだ。彼女が言ったのはそれだけだ。
「お前たち、どうして皐月を警察に突き出さない。彼奴をほっておいたら、今にもっと酷いことをするようになるぞ」
そう言うと、実玖は首を横に振った。
「静かにしていたいの。りっちゃんとの生活を壊したくない」
「兄貴を好きでいて、辛くないか」
「え?」
二人の驚く顔はなかなか見ものだった。気付いてたよ、と何でもないことのように言うと莉玖が参ったなと苦笑いしてみせる。実玖は自分の顔を暫し見つめていたが、意を決したように答えた。
「勿論」
刹那、胸が締めつけられたように感じたのは気のせいだろうか――。
霜を置いた凍てつく早朝。
基義の元に、実の母だと名乗る女が現れた。
To be continued. 著 作:紫 草