第2章 皐月
閑静な住宅街に並んで建つ二軒の家。
大通りから離れ、二本目の筋を入ってすぐの家が赤川家、そして隣が矢谷家だった。矢谷の家とその更に奥の家には数台分の駐車場になっている空き地があるために、この二軒は独立したセットのように言われる。他にも、この家族は対のように語られることも多かった。何故なら両親がいて兄がいて、そして妹である赤川皐月。矢谷の家も全く同じ家族構成だったから。
ただし家の雰囲気はかなり違う。昔ながらの一軒家という感じの矢谷家に対し、赤川の家は真っ白な洋館を思わせる。中に入ってしまえば、普通の日本家屋なのに。
皐月はこの家が好きだった。
優しい父は皐月を猫可愛がりし、母も女の子ということで掌中の珠だとよく言っていた。自分の性格がどんなものなのか、自分自身では分からないものだ。
皐月は我が儘だ、と初めて言ったのは隣の矢谷莉玖だった――。
どうして母は父を刺したのだろう。
あの日。
あの夏の日。遊びに行って帰宅したら、血だらけの父がソファに倒れていた。皐月は何もできなかった。叫ぶことも、助けを求めることも、そして母を捜すことも。
暫くして帰宅した兄の基義が矢谷家に助けを求めに行き、すぐに小父さんが来た。救急車と警察が来て、二階の部屋にいた母が下りてきた。
父は今も病院で眠っている。母は何も語らないまま、帰ってきた。それでも警察に呼ばれることは多く、生活は安定しない。
食事の支度もしない母の代わりに、矢谷家の小母さんが夕食に呼んでくれることも増えていった。いつしか母は精神的に問題があるとかで入院し、同じ頃、どうしてだか小母さんも実家に帰ることになり、あの家には小父さんと兄妹の三人が残された。
小父さんは何も言わなかった。
でも行けば家に上げてくれる。互いの家に母は不在。小父さんも家を空けていることが多かったので、二軒の家には高校生が四人だけという奇妙な暮らしになっていた。
それなのに……。
矢谷家の二人は仲がいい。
同じ歳、同じ学年、同じ兄妹。でも皐月と基義はそれほど仲がいいわけじゃない。
違うな。基義は皐月を嫌ってる。明らかに差別されていると感じていただろう。基義と莉玖が同じ学校に通うようになり、皐月も同じ学校を受験すると言った時だった。兄ははっきりと違う学校にしてくれと。それでも駄々を捏ねるように言い張れば両親は許してくれた。彼は、何があっても一緒に登校しないとだけ言ってそれ以来余り話をしなくなった。
莉玖と実玖の兄妹と基義は共に登校する。皐月だけは一緒に行くことを許されなかった――。
いつだったか。
矢谷家を訪問する時、実玖が食事の支度をしていることは多かった。その夜は、カツにするのだと言いながら肉に衣をまぶしていた。皐月は実玖の見える食卓に座ると彼女の様子を眺めていた。
わざわざ手伝わなかったわけじゃない。手伝いをするという感覚を知らなかっただけだ。なのに莉玖は、そうとらなかった。
『ただ食べるだけに来るな。実玖ができることなら皐月でもできるだろ。兄貴と二人分の飯くらい自分で作れ』
それだけ言うと莉玖は二階に上がっていった。
悔しかった。
辛かった。
憎かった。
皐月に食事は作れない。
思い返せば、素直に教えてと言えばよかったのだ。たとえ同じ年でも実玖は料理ができるのだから。
でもこれまでの関係が、それを許さなかった。皐月の醜い思いは実玖へと向く。子供の頃から散々聞かされた、苛めはよくないなどという性善説など、全く意味は持たなかった。
油が火にかかっていれば、また、お湯の沸くやかんがあれば火傷をすればいいと思う。道を歩く姿を見れば、事故に遭えばいいと思う。学校の成績が下がればいいと思うし、大事にしているものがあれば失えばいいと思う。
生活の苦しさの全ては、実玖のせいだと思うようになった。でも思っているだけなら罪にはならない。それくらいは分かってる。だから、ちゃんと耐えてる。
矢谷家には基義が行く時にだけ付いて行くようになった。食事はコンビニのお弁当が殆んどになり、ラーメンくらいなら兄が作ってくれる。
無言の食卓は虚しかった。そこに莉玖と実玖の二人がいるだけで、暖かく感じたのは何故だろう。あの二人の食卓はどんな雰囲気なんだろうか。
TVがついていなくても食事をしていることは多かった。食べながら、どちらからともなく会話が続いていた。基義も混じり話題が盛り上がっても、皐月は参加できない。ニュースなんて知らない。新聞も読んだことがないし、本も読まない。
教養という言葉を使うなら、皐月にはない。化粧品の名前と洋服のブランドは知ってたけれど、事件の後は役に立たない知識になった。
堤防が決壊する時、最後の一押しは何だろう。
このところ、皐月はそんなことをよく考える。自分にとっての決壊の瞬間は何だったろう。矢谷家で台所に立つのは三度目だった。
本当は料理ができない、と莉玖に告げたらインスタントコーヒーなら簡単だからと教えてくれたことがあった。マグカップにペットシュガーとインスタントコーヒーを入れ、お湯を沸かし注ぐ。できあがったコーヒーは少し苦くて、莉玖が牛乳を入れると魔法をかけてくれたように美味しい飲み物になった。
それだけだ。
実玖は毎日、莉玖と暮らせる。そう思ったら煮立った味噌汁の鍋を実玖に向かって投げていた――。
気付いたら、実玖は足元に蹲っていた。
薄いブラウスが左腕に張り付き、真っ赤になっているのが分かる。床を伝って、皐月の爪先にもぶちまけた味噌汁が届き、それはまだ充分に熱い。
拾って持っていた鍋を流しに放りだすと大きな音を立てて、ちょうど階段を下りてきたらしい莉玖がどうかしたかと入ってきた。
「あれ。実玖は?」
近づきながら、莉玖の表情は穏やかだ。この顔を見ることができなくなってしまう。そう思った。そう思ったら言葉が、嘘がさらさらと出てくる。
「買い物。足りないものがあるって」
莉玖が、そっかと言って、そのまま戻ってくれたらいい。心の中で、何度も頼んだ神様に、これが本当に最後でいいからと願った。
でもやっぱり神様はいない。
声も出さずに小さくなっていた実玖を見つけると、莉玖は皐月を突き飛ばし、そのまま浴室に運んだ。救急車を呼ぶ声も聞こえる。
すぐに帰ろうと思った。なのに足が動かない。爪先には少しだけ濡れた感触。気持ち悪い。
皐月が悪いんじゃない。
実玖が……。皐月の持っていないものを、全部持っている実玖が悪い。
その夜、矢谷家のリビングに基義と一緒に呼ばれた。
実玖は自分でお鍋をひっくり返したのだと言ったらしい。小父さんは、皐月の口から本当のことを話して欲しいと言う。基義は最初から疑っていたし、小父さんもきっと疑っている。
だって莉玖は見ている。何もせずに立ち尽くし、平気で嘘をついた皐月を。
「飲めよ」
そう言って、莉玖が出してくれたのは一杯の温かいカフェオレだった。一口飲むと、心の底まで温かくなるような、甘いて優しい味だった。
そして決心した。
「実玖が誤ってお鍋をひっくり返しました。私の足元にもかかったので、動くことができませんでした。ごめんなさい」
これは闘いだ。
何の苦労も知らない実玖から、全てを奪ってやる――。
To be continued. 著 作:紫 草