第四章 その参
「特別に何かがあったわけではないよね」
いつしか月斗(つきと)の言葉は京音(けいと)に向かっていた。
「お兄ちゃんって呼んだり、兄貴って呼んだり、ケイちゃんって呼ぶこともあるし」
その呼び名こそが清夜(せいや)にはないものだ。自分は魁(かい)やよりを、そんなふうに親しげに呼んだことはない。
「そういう何気ない生活って大事だったって、今なら分かるよ」
月斗は兄だけど、もう兄と呼んじゃいけないって思った――。
「清夜がいる時は、お母さんって言ってるけど、実は母ちゃんだし」
言いながら、京音がぺろりと舌を出した。
知ってる。伯父さん抜きでご飯食べてたりすると、母ちゃんって出るから。そんな繋がりって育てられ方で変わるのかもな。
「反抗期っぽいものもあったけれど、うちはケイちゃんも反抗期ないし、お母さんとはよく話するよな。その分、お父さんとはあんまり話さない」
そこで月斗がニヤリと笑う。そんな雰囲気が京音と重なる。
どこの家にも、いろいろあるということを言っているのだろう。それを清夜に教えてくれている。どんなによく見えたとしても、必ず何かしらの悩みはあるものなのだと。こちらを、どんな目で見るのかは自由だけれど、いいところばかりではない。きっとそういうことなんだろうな。
「勉強するって簡単に言うけれど、言葉ほど簡単じゃないよ。俺たちは小学生の頃から基礎知識をしっかり叩き込まれてる。清夜って英検や漢検とか取ってるか?」
「いや、何も受けてない」
学校で先生や同級生の話題で、何級に受かったかという話を聞くことはあった。ただ自分がそれを受けると考えたことはない。誰も受けろと言った人がいないから。いや、違うな。そんなもの受けろと言われても、反発しただけだったろう。とにかく勉強が大嫌いだったんだ。
「二人は受けたの?」
答えは、同時に当然と返ってきた。
「今から受験までに取るのは無理だけれど、その勉強はできるだろ。みてやるから英語と数学やろう」
今の清夜と同じ時期には漢字で準2級。数学、英語で3級を取っていたそうだ。この夜から、京音の情け容赦のない扱きのような特訓が始まった――。
「合格おめでとう!」
月斗と京音、そして伯父さんと伯母さんとの五人ですき焼きを食べに来た。
そこで全員からグラスを捧げられ、お祝いを言われた。
大急ぎの書類作成になったけれど、東京は自分で願書を出しさえすれば受験ができた。偏差値は分からないままで、とにかく過去問をいっぱい解く日々の先に試験があった。手応えはなかった。ただ京音や月斗が教えてくれた時の言葉が山ほど蘇ってきていた。
自分の中での一番の難関は、両親に話をした時だ。緊張したけれど、思っていたよりもあっさりと決まってしまった感じだった。
あの時、義父さんは黙って話を聞いてくれて、お前が行きたいと思うところに行けばいいと言われた。合格しなければ、地元に戻るしかないというのも約束のひとつとなった。
初めて、ちゃんと向き合って話した義父は、よく話す人だった。高校のこと以外にもたくさん話をした。魁が急に変わってしまったのも、自分のせいなのだと言われた。単なる親子喧嘩のつもりだったが、魁には伝わらなかったという。反抗ではなく、完全に嫌われてしまったと少しだけ寂しそうに見えた。
本当の親のことを全く憶えていない清夜には、やはり義父だけが「おとうさん」と呼ぶべき人なのだと思った。ただ、やっぱり好きという感情はない。
今は月斗に対しても、以前のような気持ちは持てない。本家にいる時のような疎外感はないけれど、全ての人に対して遠慮してしまっているのかもしれない。だからこそ、お祝い会は最高だった。
グラスを捧げられ少し照れ臭く、そして誇らしい。
ありがとうという言葉を言うのが、こんなに恥ずかしいということも知らなかった。でも、それを上回る嬉しさがあるのも初めて知った。
伯父さんと京音はビールで、伯母さんと月斗はジャスミン茶で、そして清夜はウーロン茶での乾杯になる。本当に嬉しかった。涙が出そうだ。
もうすぐ義父さんが死ぬという事実だけが重かった――。
「特別に何かがあったわけではないよね」
いつしか月斗(つきと)の言葉は京音(けいと)に向かっていた。
「お兄ちゃんって呼んだり、兄貴って呼んだり、ケイちゃんって呼ぶこともあるし」
その呼び名こそが清夜(せいや)にはないものだ。自分は魁(かい)やよりを、そんなふうに親しげに呼んだことはない。
「そういう何気ない生活って大事だったって、今なら分かるよ」
月斗は兄だけど、もう兄と呼んじゃいけないって思った――。
「清夜がいる時は、お母さんって言ってるけど、実は母ちゃんだし」
言いながら、京音がぺろりと舌を出した。
知ってる。伯父さん抜きでご飯食べてたりすると、母ちゃんって出るから。そんな繋がりって育てられ方で変わるのかもな。
「反抗期っぽいものもあったけれど、うちはケイちゃんも反抗期ないし、お母さんとはよく話するよな。その分、お父さんとはあんまり話さない」
そこで月斗がニヤリと笑う。そんな雰囲気が京音と重なる。
どこの家にも、いろいろあるということを言っているのだろう。それを清夜に教えてくれている。どんなによく見えたとしても、必ず何かしらの悩みはあるものなのだと。こちらを、どんな目で見るのかは自由だけれど、いいところばかりではない。きっとそういうことなんだろうな。
「勉強するって簡単に言うけれど、言葉ほど簡単じゃないよ。俺たちは小学生の頃から基礎知識をしっかり叩き込まれてる。清夜って英検や漢検とか取ってるか?」
「いや、何も受けてない」
学校で先生や同級生の話題で、何級に受かったかという話を聞くことはあった。ただ自分がそれを受けると考えたことはない。誰も受けろと言った人がいないから。いや、違うな。そんなもの受けろと言われても、反発しただけだったろう。とにかく勉強が大嫌いだったんだ。
「二人は受けたの?」
答えは、同時に当然と返ってきた。
「今から受験までに取るのは無理だけれど、その勉強はできるだろ。みてやるから英語と数学やろう」
今の清夜と同じ時期には漢字で準2級。数学、英語で3級を取っていたそうだ。この夜から、京音の情け容赦のない扱きのような特訓が始まった――。
「合格おめでとう!」
月斗と京音、そして伯父さんと伯母さんとの五人ですき焼きを食べに来た。
そこで全員からグラスを捧げられ、お祝いを言われた。
大急ぎの書類作成になったけれど、東京は自分で願書を出しさえすれば受験ができた。偏差値は分からないままで、とにかく過去問をいっぱい解く日々の先に試験があった。手応えはなかった。ただ京音や月斗が教えてくれた時の言葉が山ほど蘇ってきていた。
自分の中での一番の難関は、両親に話をした時だ。緊張したけれど、思っていたよりもあっさりと決まってしまった感じだった。
あの時、義父さんは黙って話を聞いてくれて、お前が行きたいと思うところに行けばいいと言われた。合格しなければ、地元に戻るしかないというのも約束のひとつとなった。
初めて、ちゃんと向き合って話した義父は、よく話す人だった。高校のこと以外にもたくさん話をした。魁が急に変わってしまったのも、自分のせいなのだと言われた。単なる親子喧嘩のつもりだったが、魁には伝わらなかったという。反抗ではなく、完全に嫌われてしまったと少しだけ寂しそうに見えた。
本当の親のことを全く憶えていない清夜には、やはり義父だけが「おとうさん」と呼ぶべき人なのだと思った。ただ、やっぱり好きという感情はない。
今は月斗に対しても、以前のような気持ちは持てない。本家にいる時のような疎外感はないけれど、全ての人に対して遠慮してしまっているのかもしれない。だからこそ、お祝い会は最高だった。
グラスを捧げられ少し照れ臭く、そして誇らしい。
ありがとうという言葉を言うのが、こんなに恥ずかしいということも知らなかった。でも、それを上回る嬉しさがあるのも初めて知った。
伯父さんと京音はビールで、伯母さんと月斗はジャスミン茶で、そして清夜はウーロン茶での乾杯になる。本当に嬉しかった。涙が出そうだ。
もうすぐ義父さんが死ぬという事実だけが重かった――。
To be continued. 著作:紫 草