『修羅界』1
「愛介が入籍したんだって」
そうか、と一言だけが零れた、父の口から。
休学していた愛介も、無事に復学したらしい。いっこ下だったが二年下になったということか。
良かったな、京極の当主が物分かりのいい奴で。
否、違うか。
我が家くらいの弱小傍系など、端から相手にされていなかったということだろう。
両親と叔父が揃って、同じく傍系に当たる京極澪を軟禁したという事件は、当主である京極菖の計らいもあり身内の恥として片付けられた。
何を考えていたんだか。澪を俺の嫁にすれば、もう少し当主のお覚えも目出度いとでも思ったのか。
「馬鹿な話だ。菖が、澪を愛介から取り上げることなどする筈がない。何より愛介が、澪を手離すわけがない」
菖と、愛介と、そして桔梗。最強の同い年トリオだったもんな。
それに、
「澪自身が愛介を忘れることなんてない」
独り言のように言葉にすることで、父に伝えたかった。
貴方たちのしたことは犯罪なのだと。
菖や、愛介、そして澪自身の温情に救われたのだと。澪を軟禁していた場所に踏み込んできた桔梗の配慮に感謝こそすれ、怨む筋合いなどなかったのに。
「今からでも遅くない。澪に償いをしようとか思わないの」
「何言ってるの。だいたい朗の字を貰っているというのに、お前が不甲斐無いからよ。でなきゃ、ママたちがこんなに苦労することはなかったわ」
それまで珍しく静かに聞いていた母親が、突如いつものキンキン声で喚いた。
「このご時世に朗の字がなんだって言うんだ。だいたい菖に朗の字なんかついてないだろ」
吐き捨てるように言って、部屋を出ようとしたら母親に止められた。
一昔前なら、漢字は威力があったのだろう。京極の跡取りには、必ず“朗”の文字が入り、これを許されるということが当主への可能性をグンと上げることを意味した。
しかし、だからこそ回避する家もあった。愛介のように。
愛介の父親が京極の名を捨てたと噂された時のように、愛介自身もまた、祖母の命によって名に朗をつけることはなかった。
傍系の嫡男だけが許される朗の字。
特に俺は、菖よりも一年早く生まれたから、当時は第一継承者だったらしい。
しかし翌年、直系である菖が生まれ、その後は衰退の一途を辿った我が家に、菖は見向きもしなかった。
何だっていうんだ。
「俺に話はないよ」
「偉そうに言わないで。座りなさい」
こういう時、婿養子の父は何も言わない。
「今度は誰を誘拐してくるつもりだ。それとも、菖本人を襲撃でもするか」
そう言い捨てると、気味悪く母が笑う。
「それもいいわね。菖がいなくなれば、順番からいってもお前が次期当主の可能性が出てくるものね」
などと恐ろしいことを言ってきた。
しまったな。変な例え話しなきゃよかったかも。
「こちらには切り札もあることだし。そろそろ菖には自ら当主の座を退いてもらいましょう。それで、あの頭の悪い庶民と一緒になればいいわ」
そう言って母親は漸くリビングを出て行った。
俺は父親に声をかけた、何をする心算だと。
「ママはね。京極の泥沼から抜け出せないでいるんだよ」
それはどういう意味だ。
そんな不穏な感情が眉間の皺に現れたようだ。
「葦朗。お前が私たちを毛嫌いしているのは知っている。でもね、お前は京極の名のもとに生まれてきてしまったのだから。諦めるしかないのだよ」
「そうして切り札を菖につきつけるのか」
本当に馬鹿だな。
菖が、そんなことで当主の座を降りると思うのか。そんなことも分からないのか。
「切り札は効果的に使うものだよ、葦朗」
「俺が、その話に乗らないと言ったら」
「許されるものじゃないな」
あくまで穏やかに、しかし拒否を許さない返答だった。
最早話しにならないと、父をリビングに残し部屋に戻った。
切り札か――
澪を誘拐したと聞いた時、俺は何故だという思いの方が強かった。
誘拐したつもりはないと声高に喚く母親を、呆然と見ているしかなかった。
澪は簡単な調書を終えるとすぐに愛介の入院する病院へと直行し、両親は金と権力にものを言わせ、すぐに釈放された。結局、菖が愛介からの希望を聞き入れ温情をかけた。
俺は、警察に突き出せと最后まで言い張ったのに。
「切り札…」
思わず、それに向かって呟いた。
「それは私のこと!?」
部屋の奥にあるリクライニングチェアに優雅に座り、こちらに向かって微笑んだ、それ。
「あゝ。お前だよ、未央」
そう言って、俺はもう一人の未央に向かって笑いかけた。
To be continued.
著作:紫草
「愛介が入籍したんだって」
そうか、と一言だけが零れた、父の口から。
休学していた愛介も、無事に復学したらしい。いっこ下だったが二年下になったということか。
良かったな、京極の当主が物分かりのいい奴で。
否、違うか。
我が家くらいの弱小傍系など、端から相手にされていなかったということだろう。
両親と叔父が揃って、同じく傍系に当たる京極澪を軟禁したという事件は、当主である京極菖の計らいもあり身内の恥として片付けられた。
何を考えていたんだか。澪を俺の嫁にすれば、もう少し当主のお覚えも目出度いとでも思ったのか。
「馬鹿な話だ。菖が、澪を愛介から取り上げることなどする筈がない。何より愛介が、澪を手離すわけがない」
菖と、愛介と、そして桔梗。最強の同い年トリオだったもんな。
それに、
「澪自身が愛介を忘れることなんてない」
独り言のように言葉にすることで、父に伝えたかった。
貴方たちのしたことは犯罪なのだと。
菖や、愛介、そして澪自身の温情に救われたのだと。澪を軟禁していた場所に踏み込んできた桔梗の配慮に感謝こそすれ、怨む筋合いなどなかったのに。
「今からでも遅くない。澪に償いをしようとか思わないの」
「何言ってるの。だいたい朗の字を貰っているというのに、お前が不甲斐無いからよ。でなきゃ、ママたちがこんなに苦労することはなかったわ」
それまで珍しく静かに聞いていた母親が、突如いつものキンキン声で喚いた。
「このご時世に朗の字がなんだって言うんだ。だいたい菖に朗の字なんかついてないだろ」
吐き捨てるように言って、部屋を出ようとしたら母親に止められた。
一昔前なら、漢字は威力があったのだろう。京極の跡取りには、必ず“朗”の文字が入り、これを許されるということが当主への可能性をグンと上げることを意味した。
しかし、だからこそ回避する家もあった。愛介のように。
愛介の父親が京極の名を捨てたと噂された時のように、愛介自身もまた、祖母の命によって名に朗をつけることはなかった。
傍系の嫡男だけが許される朗の字。
特に俺は、菖よりも一年早く生まれたから、当時は第一継承者だったらしい。
しかし翌年、直系である菖が生まれ、その後は衰退の一途を辿った我が家に、菖は見向きもしなかった。
何だっていうんだ。
「俺に話はないよ」
「偉そうに言わないで。座りなさい」
こういう時、婿養子の父は何も言わない。
「今度は誰を誘拐してくるつもりだ。それとも、菖本人を襲撃でもするか」
そう言い捨てると、気味悪く母が笑う。
「それもいいわね。菖がいなくなれば、順番からいってもお前が次期当主の可能性が出てくるものね」
などと恐ろしいことを言ってきた。
しまったな。変な例え話しなきゃよかったかも。
「こちらには切り札もあることだし。そろそろ菖には自ら当主の座を退いてもらいましょう。それで、あの頭の悪い庶民と一緒になればいいわ」
そう言って母親は漸くリビングを出て行った。
俺は父親に声をかけた、何をする心算だと。
「ママはね。京極の泥沼から抜け出せないでいるんだよ」
それはどういう意味だ。
そんな不穏な感情が眉間の皺に現れたようだ。
「葦朗。お前が私たちを毛嫌いしているのは知っている。でもね、お前は京極の名のもとに生まれてきてしまったのだから。諦めるしかないのだよ」
「そうして切り札を菖につきつけるのか」
本当に馬鹿だな。
菖が、そんなことで当主の座を降りると思うのか。そんなことも分からないのか。
「切り札は効果的に使うものだよ、葦朗」
「俺が、その話に乗らないと言ったら」
「許されるものじゃないな」
あくまで穏やかに、しかし拒否を許さない返答だった。
最早話しにならないと、父をリビングに残し部屋に戻った。
切り札か――
澪を誘拐したと聞いた時、俺は何故だという思いの方が強かった。
誘拐したつもりはないと声高に喚く母親を、呆然と見ているしかなかった。
澪は簡単な調書を終えるとすぐに愛介の入院する病院へと直行し、両親は金と権力にものを言わせ、すぐに釈放された。結局、菖が愛介からの希望を聞き入れ温情をかけた。
俺は、警察に突き出せと最后まで言い張ったのに。
「切り札…」
思わず、それに向かって呟いた。
「それは私のこと!?」
部屋の奥にあるリクライニングチェアに優雅に座り、こちらに向かって微笑んだ、それ。
「あゝ。お前だよ、未央」
そう言って、俺はもう一人の未央に向かって笑いかけた。
To be continued.
著作:紫草