三年の夏休み。
家族は旅行。俺は受験のための夏期講習。
大学行くって決めてなくても、受験勉強はするんだと。
親って勝手だよな。
さっさと離婚して、どっちも再婚して、父親は研究室に閉じこもったまま。義理の母親と連れ子の二歳は俺を立派なお兄ちゃんにしたいらしい。
「さっちゃん、元気にしてる? また連れておいでよ」
最近の佳奈は、寝ても覚めても沙織のことを聞く。
「俺よか、沙織の方が気に入っちゃった?」
莫迦みたい。
佳奈は、そう言って小さく笑う。
その佳奈が可笑しなことを言い出したから、ちょっと来てくれと電話があった。
時間は深夜二時。
何があったんですかと聞いても、おばさんは何も言いたがらない。
「今から行きます」
自転車を出す時間が勿体無いから、そのまま走って佳奈んちへ向かう。
心臓がバクバクしてた。
ものの五分とかからない佳奈の家が、物凄く遠く感じた。
佳奈…?
角を曲がると、外に出た佳奈が踊ってる。
両手を少し広げるように、ひらりひらりと踊ってる。
それはまるで蝶の羽ばたきを見るようだ。
白いワンピースが、まるで蝶の翅のように静かに静かに舞っている。
俺の姿を見つけたおばさんが駆け寄ってくる。
「克彦君。佳奈ったら変なの。今夜、蝶になるんだって。もう一時間以上ああしてるの」
おじさんも同じ思いだろう。
言葉こそなかったけれど、二人は佳奈を見続けていた。
「佳奈。お前、何してんの?」
「あ、かっちゃん。私、蝶になるよ。だから、かっちゃんの籠に入れてね。ちゃんと餌も頂戴ね。それから、それから…」
意味が分からなかった。
「佳奈… 分かるように話して」
「だって、かっちゃんが言ったよ。十八歳の誕生日。私は蝶になって好きなとこへ飛んで行くって」
え!?
おじさんもおばさんも、そして俺も、互いに顔を見合わせた。
「俺が言った?」
「うん。だから私はチョウチョになったら、かっちゃんの処へ行くって決めてたの」
そう言いながら、綺麗な蝶になれなかったらどうしようと笑う。
みんなの中から、力という力が抜けていくようだった。
「それで佳奈。もし蝶になれなくて、人のままだったらどうするんだ!?」
おじさんが、低くて渋い声で言う。
「どうしよう。絶対に蝶になるんだって決めてたから、人のままなんて考えたことなかった」
誰が最初に笑ったんだろう。
いつしか、みんな笑ってた。
「なら俺、責任とって、佳奈をお嫁さんにします!」
「そうだな。子供の頃の悪戯心で、佳奈の人生を変えてしまったんだから」
おじさんが、そう言って俺の頭と佳奈の頭をゴチッと当てた。
悪戯。
きっと、そうだったんだろう。
憶えていないくらいの軽い悪戯。
でも佳奈は信じてた。
「これで佳奈の頭痛も減るだろう。もう蝶になれないかも、なんて悩むことはなくなるから」
おじさんの言葉に、佳奈が漸く頷いた。
絶対、嫁さんにしてやる。
でも、ここで言うとまた悪戯にされるかな…。
おじさんがウィンクしながら、おばさんと家の中に戻っていく。
俺と佳奈は黙って見つめ合ったまま、ずっとそこにいた。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがと」
「ごめん、プレゼント持ってきてない」
すると佳奈の腕がふわりと首にまわってきた。
間近に見る佳奈は、やっぱり可愛い。
「プレゼントは、キスがいい」
その言葉に少しだけ照れ笑いして、俺たちは初めてのキスをした――。
「私は蝶にならないの?」
「うん」
「じゃ、どうなるの?」
「俺のお嫁さん」
「ん、わかった」
月の黄金(こがね)の明かりの中で、佳奈が胸に飛んできた。
【了】
著作:紫草
家族は旅行。俺は受験のための夏期講習。
大学行くって決めてなくても、受験勉強はするんだと。
親って勝手だよな。
さっさと離婚して、どっちも再婚して、父親は研究室に閉じこもったまま。義理の母親と連れ子の二歳は俺を立派なお兄ちゃんにしたいらしい。
「さっちゃん、元気にしてる? また連れておいでよ」
最近の佳奈は、寝ても覚めても沙織のことを聞く。
「俺よか、沙織の方が気に入っちゃった?」
莫迦みたい。
佳奈は、そう言って小さく笑う。
その佳奈が可笑しなことを言い出したから、ちょっと来てくれと電話があった。
時間は深夜二時。
何があったんですかと聞いても、おばさんは何も言いたがらない。
「今から行きます」
自転車を出す時間が勿体無いから、そのまま走って佳奈んちへ向かう。
心臓がバクバクしてた。
ものの五分とかからない佳奈の家が、物凄く遠く感じた。
佳奈…?
角を曲がると、外に出た佳奈が踊ってる。
両手を少し広げるように、ひらりひらりと踊ってる。
それはまるで蝶の羽ばたきを見るようだ。
白いワンピースが、まるで蝶の翅のように静かに静かに舞っている。
俺の姿を見つけたおばさんが駆け寄ってくる。
「克彦君。佳奈ったら変なの。今夜、蝶になるんだって。もう一時間以上ああしてるの」
おじさんも同じ思いだろう。
言葉こそなかったけれど、二人は佳奈を見続けていた。
「佳奈。お前、何してんの?」
「あ、かっちゃん。私、蝶になるよ。だから、かっちゃんの籠に入れてね。ちゃんと餌も頂戴ね。それから、それから…」
意味が分からなかった。
「佳奈… 分かるように話して」
「だって、かっちゃんが言ったよ。十八歳の誕生日。私は蝶になって好きなとこへ飛んで行くって」
え!?
おじさんもおばさんも、そして俺も、互いに顔を見合わせた。
「俺が言った?」
「うん。だから私はチョウチョになったら、かっちゃんの処へ行くって決めてたの」
そう言いながら、綺麗な蝶になれなかったらどうしようと笑う。
みんなの中から、力という力が抜けていくようだった。
「それで佳奈。もし蝶になれなくて、人のままだったらどうするんだ!?」
おじさんが、低くて渋い声で言う。
「どうしよう。絶対に蝶になるんだって決めてたから、人のままなんて考えたことなかった」
誰が最初に笑ったんだろう。
いつしか、みんな笑ってた。
「なら俺、責任とって、佳奈をお嫁さんにします!」
「そうだな。子供の頃の悪戯心で、佳奈の人生を変えてしまったんだから」
おじさんが、そう言って俺の頭と佳奈の頭をゴチッと当てた。
悪戯。
きっと、そうだったんだろう。
憶えていないくらいの軽い悪戯。
でも佳奈は信じてた。
「これで佳奈の頭痛も減るだろう。もう蝶になれないかも、なんて悩むことはなくなるから」
おじさんの言葉に、佳奈が漸く頷いた。
絶対、嫁さんにしてやる。
でも、ここで言うとまた悪戯にされるかな…。
おじさんがウィンクしながら、おばさんと家の中に戻っていく。
俺と佳奈は黙って見つめ合ったまま、ずっとそこにいた。
「お誕生日、おめでとう」
「ありがと」
「ごめん、プレゼント持ってきてない」
すると佳奈の腕がふわりと首にまわってきた。
間近に見る佳奈は、やっぱり可愛い。
「プレゼントは、キスがいい」
その言葉に少しだけ照れ笑いして、俺たちは初めてのキスをした――。
「私は蝶にならないの?」
「うん」
「じゃ、どうなるの?」
「俺のお嫁さん」
「ん、わかった」
月の黄金(こがね)の明かりの中で、佳奈が胸に飛んできた。
【了】
著作:紫草