葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

速さという縛り。

2011-02-18 08:48:40 | 雑感
08:34 from web
ポテポテ走っていると、当然だが何台もの車に追い越される。文明の利器ってすごいなあと思う反面、(車という道具に)息苦しさも感じる。20代の頃は、速さとか遠くに行けることが自由の象徴みたいに思えたが、40を過ぎるとそうでもない。
by anjinoha on Twitter
 免許を取るために教習所に通っていた頃は、(多くの人が感じたであろう)窮屈な思いに縛られていました。
 やれ左右確認だ、後方確認だ、ブレーキだと。

 いや、徒歩で移動する時だって、周囲の状況に気を配るのは大切なことです。
 でも車を運転する時は、独特のリズムがあって(多分にその速さによる)、それが周囲の確認一つとっても「している」というより「やらされている」という感じにさせるのです。
 それでも訓練を積めば、いつしかそのリズムにも慣れて、不自由さを感じることもなくなります。

 しかしそれは、あくまでも「慣れた」のであって、根本的なところでは、やはり車のリズムというのはどこか不自然なのじゃないかと思います。
 少なくとも時速40キロ以上で走ったなら(40キロ未満なら人間の脚でも可能な速度だから)。

 とはいえ、確かに車は便利だし、楽しいのでしょう。
 でもそれと引き換えに、色々な不自由を背負います。
 制限速度。交通法規。車検。税金・・・ETC。

 徒歩であれば、そういった縛りはずっと少なくて済みます。
 何よりも、生き物として自然なリズムで動けるのは大きい。
 「遅い」という自由もあるのだなあと、今更実感してます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デザートは加速アイテム。 | トップ | 知らなければ聞き役で。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

雑感」カテゴリの最新記事