「ミステリという勿れ」の最終回を観た。
このドラマはカミさんの横で何となく見続けていたのだが、始めのうちは「ああなるほど、これはミステリというよりファンタジーだな」と思っていた。
だが次第に、ちょっと犯罪者に優し過ぎるんじゃないかという印象を経て、いや、これは「誰もが殺人者になる可能性」を浮き彫りにした、ホラー寄りのドラマなのかと首を捻りつつ、「いやいやこれは、人間の弱さに対する優しさを描いている」のだと解釈した。
私は性善説・性悪説というのは、そもそもその問いの立て方に無理があると思っている。
善悪は時代によって変わるから?いやいや。
水も氷もその本質はH2Oだが、水は液体だし氷は個体である。
それと同じように、善は善だし悪は悪だろう。
ただ、善悪は人の本質として論ずるべきものではないと思うのだ。
では人の本質とは何かというと、それは不安や恐怖に翻弄される「弱さ」ではなかろうか。
不安や恐怖に呑まれて理性を失った者の行動が、悪として表出されるのだ。
ならば理論上は、不安や恐怖に呑まれずに済むような社会であれば、悪は存在できなくなるか。
所謂「罪を憎んで人を憎まず」とはそういうことだと思うが、実際には難しいだろう。
質量を持たない不安や恐怖と向き合うより、実体を持つ悪人を成敗する方が、納得も安心も得やすいからだ。
まあそれはそれで現実的ではあるが、程度問題か。
悪を生まない工夫よりも、悪人を厳罰に処すことに特化した社会では、自分の弱さを自覚する者は「状況次第で自分も裁かれる」という不安を必要以上に抱えてしまうし、無自覚な者は悪意の無いままに、「気が付いたら犯罪者になって」しまうリスクを抱えることになる。
そういえば炭治郎は、妓夫太郎に自分を重ねて「ひとつ間違えばいつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況」と思いつつ、「もし俺が鬼に堕ちたとしても、鬼殺隊の誰かが俺の頚を斬ってくれるはず」とも考えていた。
実際、炭治郎が鬼になった時、義勇さんは「炭治郎のまま死んでくれ」「早く炭治郎を殺さなければ人を殺す前に」というのだからヤル気満々である。
最初から最後まで炭治郎を人に戻すつもりでいたのは襧豆子ちゃんとカナヲちゃんだ。
勿論、鬼滅の刃はフィクションである。
だが、なまじ戦う力を持っているばかりに弱くなるという怪現象は、男の方が顕著ではなかろうか。
あ~、炭治郎は鬼のことを「虚しい」「悲しい生き物だ」と言ったが、きっと男は「虚しくて悲しくて弱くてバカな生き物」なのだろう。
などと考えていたら、「弱い」の反対は「優しい」のような気がしてきた。
はて、ならば「強い」とはどういうことなのだろうか?
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