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『左袒(さたん)』
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左の肩を肌脱ぎにするという意味で、味方すること。また、同意して肩を持つこと。
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類:●肩を持つ
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出典:「礼記-檀弓・下」「既封左袒、右還其封、且号者三、曰、骨肉帰復于土命也〈略〉」 春秋時代、賢者の誉(ほま)れが高かった呉の季札(きさつ)が、我が子を葬(ほうむ)ったとき、左の肩を肌脱ぎにし、右回りに墓を回って三度(みたび)号泣した。そうするのが呉国の礼だったという。
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故事:「史記-呂后本紀」「為呂氏右タン[衣+亶]、為劉氏左タン」 中国、前漢。専横を続けていた呂后が死んだ後、劉邦の側近の周勃・陳平らが呂氏を討とうとした時、呂氏に付く者は右袒せよ、劉氏に付く者は左袒せよと言ったところ、軍中ことごとく左袒した。
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参考:「戦国策-斉下・閔王6」「[サンズイ+卓]歯乱斉国、殺閔王、欲与我誅者、袒右」 王孫賈(か)は、加勢する者を右肩を脱がせたが、意味は同じ。
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<松下幸之助一日一話> PHP研究所編
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欠点を知ってもらう
上に立つ人は、自分の欠点をみずから知るとともに、それを部下の人たちに知ってもらい、それをカバーしてもらうようにすることが大事だと思う。部下の人が全知全能でないごとく、上に立つ人とても完全無欠ではない。部下の人よりは欠点は少ないかも知れないが、それでも何らかの欠点を持たないという人はいないだろう。その欠点多き上司が自分の知恵、自分の力だけで仕事をすすめていこうとすれば、これは必ずといっていいほど失敗するだろう。やはり、自分の欠点を部下の人に知ってもらい補ってもらってこそ、はじめて上司としての職責が全うできるのである。