YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

黄金のバルト海~ヘルシンキの旅

2022-07-26 16:11:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
       △ヘルシンキ港にて出港前の私(右)と鈴木

・昭和43年(1968年)7月21日(日)晴れ(黄金のバルト海)
 パン、ミルク、キュウリ、そして、トマトで朝食を取った。ソ連の旅行は、ホテルでナイフとフォークを使ってのコンチネンタル・ブレックファーストであったが、個人の旅になると食事内容も貧しくなった。
 船でストックホルムへ行く為、タクシーで港の船会社へ行った。私と鈴木は既に日本でヘルシンキ~ストックホルム間の船切符を買ってあったが、照井と鶴島さんは、まだ買ってなかったので買う事になった。その鶴島さんは、四国の松山で個人商店を営んでいる人で今回、ストックホルムのホテルでボーイをしている弟さんに8年振りに会いに来たと言う事であった。鶴島さんは英語が分らないので私に、「明日、船で行くから弟に迎えに来て貰いたいので、電報文を書いてもらいたい」とお願いされてしまった。そこで、私が英文を書いて船会社の人にこれを電報にしてくれるよう、頼んだのであった。それにしても、彼は自分の事を人に頼まなければ何も出来ないで、よくこちらに来たものだ、と思った。
 午後2時の出航なので、まだ4時間程あった。我々は荷物を船会社の事務所に置かせてもらい、市内へ散歩に出掛けた。
 その後、我々4人は港に戻り乗船した。出航の際、先程知り会った自称学生で写真家の『青木さん』が大きな日の丸を振って我々を見送ってくれた。異国の最果ての港で日の丸の旗を振って見送ってくれた青木さんを、私はいつまでもデッキで見ていた。

 鈴木の部屋で我々3人は、これからの旅行について話し合った。例えばドイツで100ドルずつ出し合って中古車を買って旅行しようとか。しかし人それぞれ旅の仕方がある。私のユーレイル・パスは1ヶ月間有効の物でその後、イギリスへ行ってシェイラに会う計画がある。鈴木は2ヶ月間有効のパス、そして照井はパスを持ってないとの事であった。そう言う事で我々はいつまでも一緒に旅が出来る訳がないから、『出来る範囲で、そして、外国が慣れるまで共に行動しよう』と言う結論になった。
 船の中は、国際色豊かであった。日本人は同じソ連ツアーの仲間が9人居た。夕食は食堂で2日振りにナイフとフォーク付きの食事で、ポークソーテ、ポテトチップス、ミルク、そして、パンが出た。これは、船賃の中に含まれていた。夕食後、1人デッキに出た。静かな海であった。暫らくしたら、太陽が水平線に沈みかけ、辺り一面黄金色に染まったバルト海がそこにあった。それは何とも言い表す事が出来ない光景で、ただ感嘆するだけであった。
黄金に染まったバルト海を眺めていると、日本でセコセコとやって来た思いが吹き飛んで行くようで、何か心の奥底までがスッキリして来た。『私は今、最果てのバルト海の真只中に居るのだ。あれ程までに行って見たいと想っていた外国・ヨーロッパの地に』と想うと、私は胸が熱くなり、涙が出そうになった。

白夜を楽しむ~レニングラードの旅

2022-07-26 15:19:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
    △レニングラードのネヴァ川の畔にて~案内してくれたガイドと

・昭和43年7月19日(金)曇り(白夜を楽しむ)
 目を覚ますと、広大な草原の中を列車はひた走っていた。その景色は変わらない緑一色の世界、改めてソ連の国土の広さを感じた。車中の居心地はまぁまぁで、良く寝られた。7時30分、レニングラードのモスクワ駅に到着した。レニングラードは、ソ連第2位の都市(帝政ロシア時代の首都・ペトログラード)であった。
 ホテルに到着し、荷物を置いて直ぐにバスで市内観光になった。ガイドさんは、美人のロシア人で数々の名所・旧跡を案内してくれて、忘れる事が出来ない旅の1ページになった。彼女はいつも説明の最後に「This is one of the most famous and beautiful buildings 」と言って終るのが口癖と言うか、案内の一つの形式であった。モスクワのガイドさんは日本語で案内してくれたが、こちらでは英語であった。


△レニングラードのネヴァ川の畔にて~巡洋艦オーロラ号(十月革命はこの艦の号砲から始まった。その記念する巡洋艦)
                         
 夕食後、私、照井、鈴木の3人は街へ散歩に出掛けた。このレニングラードはネヴァ川と切っても切れない縁のようであった。そして市内縦横に走る運河があり、まるで『水の都』の感じであった。ネヴァ川は綺麗で、ポンポン船がのんびり往来していた。建物や街の雰囲気は、モスクワより明るい感じがして、少しヨーロッパ的な雰囲気が漂っていた。
 夜の9時、10時になっても暗くならなかった。市民、恋人達(モスクワでは若い男女のカップルを見掛けなかった)は公園、河畔に集い、一時の夏の夜(白夜)を楽しんでいた。『白夜、運河、革命と石造りの街』、それが私のレニングラードの印象であった。

△エルミタージュ博物館出入口にて~ヤポンスキー(日本人)を珍しがるウクライナから来たオバチャン達と記念写真

バルト海船上で17歳の若者と口論

2022-07-25 09:52:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真

・昭和43年7月22日(月)晴れ(・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)     
*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。
 昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。
 やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。外国へ行って見たいと強い想いがあった割に、諸外国事情を全く知らなかった私の認識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの支度であった。緯度的に考えればそれなりの支度が必要であったが、それが私の欠点であった。以後、何度も夜間や朝方の寒さに悩まされた。「セーターや冬用の上着、シャツも持参すべきであった」と何遍も後悔した。いずれにしてもこれは、これから多くの失敗を重ねるほんの1例であったのだ。
 ストックホルムに近付くにつれて、小さな島が幾つも散在するようになって来た。船は入り江の奥深く進んでいた。海ではなく、あたかも湖の中を小さな島が多くあり、それらを縫って行く様な感じで、素晴らしい眺めであった。デッキでその光景を眺めていると、やくざ風のサングラスを掛け、一見して20歳以下と分る若者が一丁前にタバコを吸っているのを見掛け、「あなたは何人ですか」と私は尋ねた。
「スウェーデン人です」と彼。
「そして幾つですか」と私。
「17歳だが」と彼。
「スウェーデンは17歳がタバコを吸って良いのか。日本では20歳にならないと吸ってはいけない事になっているのだが」と私。
「スウェーデンも同じだが、貴方に関係ないだろう」と彼は怒り出した。
「若造の癖に生意気な事を言うな」とこちらも言い返した。
しかし、余り怒らせてトラブルになるのも詰らないので今度、宥めに入った。
「大きなお世話かもしれないが、吸いすぎると体に悪いから注意したたけだよ。友達になろう」と私は言って彼に握手を求めると、彼も握手して来た。
「記念に写真を撮ろう」と言って私は彼と肩を組んで写真を撮った。
 私は如何してこんな事を言い出したのか、後になって不思議であった。彼は色眼鏡を掛け、ジャケットを着て、余りにも一丁前にタバコを吹かしていたのでからかいたくなったのは事実であった。しかし後で分った事であるが、17歳はまだ良い方であった。ヨーロッパでは、小学校低学年齢の子供達も吸っているのが実際であった。
 船はほぼ予定通りの8時30分、ストックホルム港に着岸した。鶴村さんの弟さんは迎えに来ていた。その彼はあるホテルでボーイの仕事をしていて今回、8年振りの再会であった。私は鶴村さんがヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券を所持してないのでその乗船券の手配や又、何日の何時、何処の会社の何の言う船がストックホルムに着くから、迎えに来るよう電報文を打って上げたのだ。照井、鈴木と共に鶴村さんを連れて来た様なものであった。
そんな鶴村さんが、弟(30~33歳位)を我々に紹介し、「ここまで3人にお世話になった」旨を話した。しかし、彼は何の挨拶も一言の言葉もなかった。普通「兄がお世話になり、有難う御座いました」、と言うのが常識であろう。私は彼が何か同邦人ではない感じを受けた。と言うより彼の態度は、『私は貴方達と関わりを持ちたくありません』と言う感じであった。しかし、私は彼がここでホテルのボーイをしているし、8年も住んでいるので宿泊施設の情報を良く知っていると思って、「何処か安く泊まれる所があれば教えて貰いたい」と彼に尋ねてみた。すると、「ユース・ホステルか、観光案内所へ行って聞いてみれば」と彼の素っ気ない言葉が返って来た。彼に言われなくても、私はそうするつもりであったが、何らかの期待を持ったのがいけなかった。日本から遥々、兄と共に遣って来た我々に対し余りにもつれない言葉に、全く好かない奴であった。彼は兄を車に乗せ、さっさと走り去って行った。我々3人は、呆気に取られてしまって言葉もなかった。
その後の私がロンドン滞在中、妹の手紙と共に彼の手紙が同封されて来て、鶴村さんは「弟と車で1ヶ月間ヨーロッパを旅行して、一人で中近東経由インドのデリーから飛行機で帰国した」との事であった
所で、異国の地において邦人同士が会っても互いに背を向けると言うか、話したがらない人達にも会ったが、嫌な感じであった。

―――ストックホルム観光巡りの話は省略―――

 泊まる所が決まっていない観光は、何となく落ち着かない感じがした。しかも昨夜、寒さの為に一睡も出来なかった私にとって、市内観光巡りで歩き回るのは、非常に疲れを感じた。 
午後4時になったので再度、ユース・ホステルやYMCAに電話をしてみたが、又も満員で断られてしまった。仕方なく再度、駅観光案内所へ行って、安いホテルかペンションをお願いしたが、やはり満員で断られてしまった。野宿する訳にいかないので、強い口調で三度、私は女性スタッフに頼み込んだ。「我々は、何処で泊まれば良いのですか。公園のベンチに寝ろと言うのですか。夜の屋外は寒いので耐えられません。それに、我々は疲れているのでゆっくり休みたいのです。どうかお願いですから安いペンションを探して下さい」と訴えた。
「それでは、暫らく待って下さい」と言った彼女は、何処かあちこち電話をしてくれた。
3人の内、いつも交渉役は私でした。そして満員と言っても強く交渉すれば何とかなるもので、彼女は安い〝ペンション〟(日本の民宿の様な感じの宿泊所で、同じ部屋にベッドが複数ある)を探してくれた。
ペンションと言っても、相部屋で泊まるだけで1人30クローネ(約2,100円)であった。北欧、特にスウェーデンは非常に物価が高かった。日本で70円のハイライトの様なタバコが、ここは700円ぐらいした。酒場の小瓶のビール100円がこちらは600円した。平均日本の7倍から10倍高かった。私みたいなケチケチ旅行者にとって、スウェーデンは長く滞在する様な国ではなかった。
 大野から夜、「私達(大野と山下)は、明日、オスロまでヒッチするので貴方達もやらない。どちらが先に着くか競争しようよ」との電話があった。明日、私と鈴木は、ストックホルムからオスロまでヒッチ・ハイクの旅をすることにした。
 今日は疲れたので早く寝ることにした。それでも午後10時であった。

私の旅はここに終る~日本の旅

2022-04-27 08:52:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
                     △私と左は同室の橋本さん~ソ連船ハバロスク号にて

・昭和44年(1969年)7月6日(日)晴れ(私の旅はここに終る)
 朝食を済ませ、出立準備を整えてから女将に勘定をお願いした。彼等に「ここの旅館代は私も払う」と言ったが、彼等は「Yoshiにはお世話になったから。」と言って私の分を払わしてくれず、6人で割って各自出し合って払ってしまった。一昨日も昨夜も、「Yoshiにはお世話になっているから。」と言って飲み代は彼等が払っていた。
今日、彼等はこれから日光見物へ出掛けるのでした。「私も付き合う、行かせてくれ。」と言ったのに、彼等は「Yoshiは1年振りの故国、家族が待っているので早く帰って上げなさい。」と言って、私の同行を許してくれなかった。私の気持としては、彼等といつまでも旅をしたかったが、実を言うと私にはもう日光へ行く金が無い状態であった。もし旅館代を払っていたら、埼玉県の深谷駅まで帰る汽車賃が手元に残ったか、分らなかった。
 東武浅草駅はこの旅館から近いので、彼等の列車が出発するのを見送る事にした。実は昨晩、私から女将に東武日光までの乗車券と特急券をお願いしてあったのだ。そんな訳で彼等の乗車には、何ら心配がなかった。我々は浅草駅へ歩いて行った。彼等は日本語や地理が全く分らないので大丈夫なのか、私は心配であった。しかし私だって言葉が分らなくても旅をして来たのだ。彼等だって充分に日本の旅を楽しめる。寧ろ私が居ない方が色んな体験が出来て、本当の日本の旅が楽しめるのかも知れない、とそう思った。
 暫らくして、東武日光行き特急列車がホームへ入って来た。そして終に、船上の友とも別れの時が来た。
「私も皆さんと一緒に日光へ行きたいのですが、これでお別れします。どうぞ日本の旅を楽しんで下さい。グッドラック(さようなら)」と私。
「Yoshi、手紙を書きますから返事を下さい」とタン。
「Yoshi、お世話になりました。グッドラック」とメアリー。
「Yoshi、又何処かで会いましょう。さようなら」とフレッド。
「色々な所を案内してくれて有り難う、Yoshi。さようなら」とフィリップ。
エバンス夫人やベンドレィさんとも別れの握手を交わした。そして彼等は手を振りながら車内へ入って行った。私はホームに残った。窓ガラス越しに彼等は何か言っている様であったが、分らなかった。多分、『見送りはもういいから、行ってくれ。』と言っている様であった。私も窓越しに、『最後まで見送るから。』とジェスチャ交えて言った。
 発車のベルが鳴り終り、列車は静かに滑り出した。「皆、さようなら。元気で旅を続けて下さい。」と手を振りながら心で叫んだ。彼等も手を振って応えたが、直ぐに見えなくなってしまった。彼等を乗せた日光行き特急列車は、私の目の前から走り去って行った。私は列車が見えなくなるまで見送った。『私の旅』はこの瞬間で終り、そして私は『旅人』ではなくなったのであった。その寂しさ、哀しさが湧いて来て、私は胸を絞め付ける想いと、込み上げる涙を堪えた。
 私は上野駅から高崎線新前橋行きの列車に乗り込んだ。車内は混んでいなかった。私はぼんやりと車窓の懐かしい景色を眺めていた。あれ程に想い詰めていた旅は、これで終ったのだ。日本出発前までは考えられない大旅行になってしまった。
振り返れば色んな旅があったなぁー。旅の想いを膨らませてのナホトカへの船旅、シベリア鉄道乗車中にソ連の若い女性が歌ってくれたロシア民謡、鈴木とのストックホルム~オスロ間ヒッチの旅、1人ヨーロッパ列車の旅、シーラとの出会い、ウェールズの旅、ロンドンでのシーラとの日々、ロンドン~アテネ間ヒッチの旅、イスラエルの旅、ロンとのシルク・ロードとインドの旅、荻とのアジャンタ、エローラ遺跡巡りの旅、オーストラリア大陸横断ヒッチの旅、そして帰りの船旅。嬉しい事、楽しい事、辛かった事、寂しかった事、悔しかった事等、色んな旅に色々な事があった。それがみんな終わったのだと思うと、間もなく家族や友達に会える嬉しさよりも、何とも形容し難いものが又、胸にジーンと来てしまった。
 私は、車窓の移り変わる景色をぼんやりと眺めながら、過ぎ去った幾山河の光景を郷愁に近い感じで思い浮かべる様になった世界の旅路をしきりに回想していた。

【詩 題名「旅」】
旅は、人生に生き甲斐を与える。
旅は、楽しい、それは春の訪れのように。
旅は、寂しい、それは晩秋の落葉のように。
旅は、出逢いであり、又、別れである。
旅は、人生であり、人生は又、旅である。
人生は、旅で始まり、そして、旅で終る。
*1968年11月6日、ロンドンのハイド・パークを散策して浮かんだ詩です。

◎これをもって「私の果てしない旅』」を終わらせて頂きます。長い間、私の拙い「旅日記」をご愛読下さりました読者さんに感謝申し上げます。本当に有難うございました。


名古屋、東京見物~日本の旅

2022-04-26 13:38:44 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
△熱田神社前にて~左からエバンス、私、タン、メアリー、ベンドレィそしてフレッド

・昭和44年7月5日(土)小雨後曇り(名古屋、東京見物)
 16日間航海したチルワ号ともこれで永遠の別れとなり、私は昨日、鳥羽へ行った〝乗船仲間6人〟(オーストラリア人のMrs. Elaine Evansエバンス夫人、Mr. Done Bendleyベンドレィ氏、アメリカ人のメアリー、中国系香港人のフレッド、中国系マレーシア人のタンとフィリップ)と共に名古屋へ行った。
私の案内で名古屋城や熱田神社を見物後、新幹線ひかりで東京に来た。日本の新幹線は彼等にとってその速さ、鉄道技術の高さ、施設にビックリするやら、感心するやらの新幹線の旅であった。曇りの為、富士山を見る事が出来ず、彼等は本当に残念がっていた。
 東京駅観光案内所で今夜のホテルを予約しようと思ったら今日、明日と世界ライオンズ・クラブ東京大会が行なわれる為、何処のホテル・旅館もいっぱいであった。それを彼等に説明したら困り果てた様子であった。私は所員にこちらの事情を説明し、もう一度何処か宿泊出来るホテル等がないか、探してくれる様に頼んだ。暫らく待ってその所員は、「良い旅館ではないが、それで宜しければ。」と言う条件を提示され、仲間の了解を得て予約した。
 宿泊場所は、浅草の隅田川沿いの3流旅館であった。部屋の障子を開けたら直下が隅田川、そのヘドロの臭い(「春のうららの隅田川」の歌い出しでお馴染みの歌『花』の川ではなく、ドブ川、ヘドロの川で悪臭が満ちていた)が強烈に鼻に衝いてきた。蒸し暑いからと言っても2度と障子を開ける事が出来なかった。日本の首都・東京の川がこんなにも悪臭を漂わせている現状に、私は恥ずかしさを感じた。しかし、他に何処も空いていなかったし、彼等にとっても安い方が良いので、文句は無かった。旅館なので部屋スタイルは和式、男同士の5人、女同士の2人で2部屋に別れての宿泊となった。
女将は日本語の分る私が居て、助かった顔をしていた。彼女は愛想よく我々を迎え、接待してくれた。
 夕方、浅草寺(せんそうじ)や浅草(あさくさ)界隈を散策した後、旅館に戻り和食スタイルの夕食(刺身、天ぷら、豚カツ等)が出された。彼等は箸を使って、「美味しい、美味しい。」と言って食事を楽しんでくれた。勿論、私も久し振りの日本食で、大変美味しかった。  
 夕食後、彼等を銀座へ案内した。私は1年振りの日本であり東京である所為か、その全ての面で日本が外国の様に珍しく、彼等と共に異国情緒を楽しんでいた。私はまるで日本人によく似た外国人感覚であった。従って私の日本の印象は、多分彼等の印象と同じ感じであったかもしれません。
 最後に、銀座のあるパブリック・ラウンジ(洋酒等がキャバレーやバーより安く飲める所)へ寄ったら、他の乗船仲間達が居た。まだ1日か2日経ったばかりなのに、皆は再会を喜び合っていた。
若いバーテンダーが日本人である私を認めてか、「お客さん、外国帰りですか。」と話し掛けて来た。  
「そうですよ。昨日、オーストラリアから着いたばかりです。」
「何処を回って来られたのですか。」と彼は聞くので、ざっと回った所を言った。
「凄いー!お客さん。僕も行って見たいなぁ。実は、外国へ行く事を僕も考えていたのです。」
「行って下さいよ。考えた時が、そのチャンスの時だから。」
「ありがとう、お客さん。その意見を聞いて僕は決めました。」
「成功を祈るよ。」とそのバーテンダーに言った。
 我々は暫らくそこで飲んでから旅館へ戻った。彼等は東京の夜を心から楽しんだ様なので、私も満足であった。昨日から今日に掛けて、私はずっと彼等と一緒だった。彼等と日本人の接点は私であって、その通訳の役目は100%ではなかったが、彼等も納得して私に大変感謝していた。彼等の為の案内や通訳は、私も面白かったし又、彼等と共に居ると、まだ旅が続いている様で楽しかった。

四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

2022-04-25 09:07:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)
 朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。
 何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。
 朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・入国審査の役人や銀行員が乗り込んで来た。入国手続きをした後、僅かばかりのオーストラリア・ドルを日本円に交換した。
 私は甲板に出て、船が四日市港に入港するのを眺めていた。小雨の中、ロイヤル・インターオーシャン・ラインズ・チルワ149号は、12時前に四日市港の岸壁に接岸した。まず私が気付いた事、それは港湾がヘドロでとても臭く汚かった事であった。シドニー港の海のきれいさ、港の光景の美しさを比べたら、四日市港は嘆かわしく、こんな汚い港を外国人に見せたくないという感じがした。外国へ行か前から『四日市ぜんそく』の公害が発生し問題になっていたが、この状況を見ると何ら不思議でないと感じた。
 甲板にいたフレッドおじさんは、岸壁に迎えに来ていた知り合いの日本の若者を発見し、その名前を叫んでいた。岸壁の彼もフレッドに気が付いたのか、何か叫んでいた。彼らはお互いに再会の喜びを、手を振り合って確かめていた。フレッドの横顔は、嬉しそうであった。
 船内で昼食を取った後、私の乗船仲間が、「鳥羽のオパール・アイランドへ行って、真珠の作っている所を見たい」と言うので、案内がてら私も彼等と共に行く事にした。本来なら私はここから真っ直ぐ埼玉へ帰る予定であったが、彼等に誘われ又、私自身もう少しの間、旅の気分が味わいたいので彼等と共に行動した。勿論、彼等は日本語も地理も分らないので、必然的に私が案内役兼通訳をする事になった。我々は近鉄特急電車で鳥羽へ、乗客は我々の国際的組み合わせが珍しいのか、(美人の?)メアリーに興味あるのか、ジロジロと視線が我々に注がれていたのを感じた。
 しかし折角鳥羽に着いたにも拘らず、見物時間が既に過ぎていて、彼等の期待に応える事が出来なかった。勿論わざわざここまで来たのだから是非見せてくれるよう、私は特別にお願いしたのであったが、融通が効かなく駄目であった。日本人としての私は、彼等に申し訳ない気がした。我々は仕方なく鳥羽の街を散策したり、パチンコをしたりした後、土砂降りの中、鳥羽駅に戻った。
 夜、青い灯赤い灯の灯(とも)る四日市の飲み屋街のバー(彼等にとって若い女性が薄暗い部屋でもてなす酒場が珍しかった)を覗き込んで楽しんだり、大衆的酒場に案内してお酒を飲んだりして、彼等と共に日本の夜を楽しんだ。そして私は、今夜が最後の船内宿泊となった。
 今日、私は日本に到着して日本人に日本語で話そうと思ったが、2週間以上日本語を話していなかった為か、無意識の内に何度か英語で話し掛けてしまい、私の頭の中は、英語と日本語の切り替えが少し変であった。

船旅を楽しむ~船内の様子

2022-04-24 10:42:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
△船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー

・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)
 最初の頃、救命袋の着用方、及びBoat Station(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。
船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。 しかし、食事の時のテーブル・メンバー8人が余り良くなく、16日間3度3度食事を共にして来たにも拘らず、アメリカ人のメアリー以外、誰も名前を覚えなかったし、親しく話をした事も無かった。そのテーブルメンバーは、私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリーであった。メアリーはいつもガツガツと食べていた印象であった。彼女のスタイルは良いが、顔付きはきついし、態度・口調も私好みの女性でなかった。私の正面で隣同士の船員と娘さんは、いつも親しげに話をしていたが、後の皆はしらけていた。そんなしらけたテーブル・メンバーでは楽しみな食事も今一であった。
 一度だけであるが、デッキ上で船長主催の豪華なディナーパーティがあった。いつもサンダル履きでシャツに半ズボンの普段着で食事をしていたが、この時の私は白のワイシャツにネクタイ、ズボンを履いて参加した。乗船客の皆もドレス・アップして参加した。普段、出ない海老や豪華な肉料理等が出され、そして飲み物でシャンパンも出て、私はパーティを楽しんだ。我々は船長をパーサーから紹介され、船長は我々を接待してくれた。
 船旅は退屈するのでダンス、映画、ビンゴーゲーム、デッキ(甲板)でのホース・レーシング・ゲーム(競馬遊び)、卓球大会等、色々な催しがあった。私はダンスが踊れないので、見ているだけでした。船で横浜からソ連のナホトカへ行った時も、ダンスパーティーがあったが、つくづく習っておけば良かったと思った。
 デッキに卓球台が置かれていて、華僑のタンと時々ピンポン(卓球)をしていて、大概私が負けていた。そんなある日、卓球大会が催され、決勝に勝ち進んだのが私とタンであった。3セット21本勝負で21対13,21対18の2連勝して私が勝ち、優勝した。その日の夜、ホース・レーシング・ゲームと合わせて表彰式があり、船長から優勝の賞状と賞品としてクリスタルの灰皿を頂いた。
 この船のエコノミー・クラスの乗客は60人位、その中に日本人は私1人であった。年配の日本人に気を使うのが嫌で、私の場合は居ない方が良いので、お陰様で気を使わなくて済んだ。
乗客の幾人かを除いて、皆45歳以上の年配者であった。その幾人かの若い人とは、出航の日に初めて会ったタン、フィリップ(中国名Tung Shui Cheeマレーシア出身)、フレッド(中国名Yee Yun Sang香港出身)、そしてアメリカ人のメアリーであった。
横浜からナホトカまでのソ連船・ハバロスク号は日本人の若い人が殆どであったが、この船はオーストラリア人の紳士淑女の年配の方が殆どであった。歳をとってからでもこの様に気軽に海外に出掛け、優雅で豊かに一時の人生を過していた。やはりオーストラリアは豊かな国であった。 しかし折角寛げる時間を持ったのだから、ノンビリ過ごせば良いと思うのに、編物をしている多くのご婦人方を見掛けた。豊かに生きる一方、堅実的なオーストラリア人気質を垣間見た感じであった。
 私は何もする事が無い時(いつもそうであるが)、ピンポンをしたり、小さなプールで泳いだり、デッキに出て大海原、或は紺碧色の海に浮かぶ南洋諸島の過行く小さな島々をぼんやり眺めていたりしていた。私はノンビリと過ごせる船旅の方が空の旅より好きだった。将来、ノンビリした気分で再び船旅が出来るその時が、又来るであろうか。漠然と思うに、2度と無いであろうと。それでは若い時に、この様な経験をしても良いではないか、と私自身を納得させて船旅をしているのであった。
 話は全く変わるが、この船会社はオランダ人が経営しているが、下級船員は全て中国人(華僑、台湾人)であった。彼等に聞いたところ、月A$50(2万円チョット)であると言っていた。


△船長主催のディナー・パーティにて-右から私(右手だけ見える)、フィリップ、タン、エバンス夫人、ベンドレィさん


   △船長主催のディナー・パーティにて-船長と握手する私


△ダンスパーティーにて~股にオレンジを挟み、マドロスパイプを吸っている私と同じ食事テーブルのおばさん


       △ホース・レーシング・ゲーム~後ろの一番左が私


 △Royal Interocean Lines Tjiluwah Voy. 149-A(チルワ149号、オランダ船籍)
  シドニーから四日市間を航海中


黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-24 10:37:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)
 本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。
 シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。







ブリスベンの日曜日の様子~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-23 14:24:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
                 △ブリスベンの絵葉書 (寄港した時に買ったもの)

・昭和44年6月22日(日)晴れ(ブリスベンの日曜日の様子)
 船はブリスベン港に1日中、停泊していた。退屈で仕方ないので午後、映画でも見に行こうと街へ出掛けたが、3軒ある映画館全てが日曜の為、閉まっていた。1軒ぐらい営業しているであろうと思ったが、オーストラリアの徹底した日曜日のあり方を再確認した思いであった。無人となった街をぶらついて、船に戻りボンヤリと過した。
 ブリスベンの街は、閉まっているのは何も映画館だけではなく、シドニーより徹底して全ての店が閉まっていた。街から人々が居なくなり、まるでゴーストタウンの様に静かであった。市民は郊外のゴールドコーストヘ行って過しているのであろうか。出掛けない人は何もする事がないので奥さんの手伝い、或いは庭や家の手入れをするぐらいしか術がないのがこの国なのだ。『オーストラリアン・ハズバンド』という言葉が生まれても仕方ない、そんな習慣、風習が存在している様であった。
                                           

スケベなフレッド~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-22 16:09:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月21日(土)晴れ(スケベなフレッド)
 一昨日夜から昨日、船はかなりローリングしたので気持が悪かった。お陰で昨日の昼食は、喉を通らなかった。
 チルワ149号は、今日の朝方の早い時間にブリスベンに入港した。昨日知り合ったFread Kelly(私は「フレッド」と呼んでいた)と共に朝食後、バスでブリスベンの街へ出掛けた。
 ブリスベンは、クィーンズランド州の州都。ここはシドニーよりとても温かく(少し暑いぐらい)、通りに椰子の木の繁るのが見られ、南国の風情を感じた。今日は土曜日で、街は静かであった。特に何処かへ行った、或は見学したと言う事ではなく、我々はブラット街を一回りして、再び船に戻って来だけであった。
 クィーンズランド州に足を踏み入れたのは、これで2度目であった。地図を見ると、このブリスベンから真っ直ぐ西へ約700km行った所にチャールヴィルと言う町がある。オーストラリア縦断ヒッチの途中、私を一宿一飯の持て成しをしてくれた、親切なスコットさん若夫婦が住んでいるのだ。私に羽があったら飛んで行って、もう一度会って見たい、お礼が言いたい、そんな気持で一杯であった。余談だが、それから1年後、否もっと早かったかな、スコットさんから「元気な赤ちゃんが生まれた」と写真を同封した手紙が届いた。スコット家に幸多かれと祈る。
 夜、フレッドの個室の部屋へ遊びに行った。彼は60歳位のタスマニアの酪農家、背が高く少し腰を曲げて歩いていた。彼は人を使って牧場を経営し、過去に日本へ3回も遊びに行き、家族なし、と言う事が分った。2人でベッドに座って話をしていると、どうも彼の様子がおかしかった。彼の手が私の腰や太股を撫でる様に触れてくるのだ。その触れ方、摩り方が、どうもホモのような感じがした。『やばい』と思い、私は早々部屋を出て、2度と彼の部屋へ行かなかった。
そして後日の事であるが、彼は助平で女の話もよくしていた。又、「以前(赤線があった)、日本は安く遊べて非常に良かった。」と言っていた。彼は女にも飢えている様で、二刀流使いであった。